草木が生い茂り、人が立ち入ることを許さないかのように伸び放題の草を手袋をした手でかき分け、息を切らしながら足を前へと進める。
 そうすると草木の向こうに見えてくる、ポツンとした一つの建物がある。
 だいぶ昔に潰れたプラネタリウム。オープン当時は設備はそれなり、評判も悪くはなかったにも関わらず、立地がよくなかった。
 設備はまぁまぁだけど、交通の便がいいとはいえない岸壁沿いに建つプラネタリウム。そう聞いてわざわざ行こうと思う人間はあまりいないだろう。いたとして、一度行って満足すればそれで終わりだ。
 そんな立地条件のせいか、オープンから僅か一年で閉館となったこの場所は、緑に侵食されるままに蔦や蔓に覆われていってる。当時はあったろう、人の通る道が緑で覆い隠されてしまうほどには、ここには誰も来ない。
 そのくせ、ガラスの一枚も割れていない建物の前にようやくたどり着き、服についた葉っぱやらくっつき虫やらを払いながら、被っていたフードを落とす。
 閉館になって一年。
 定期的に見回る管理の人間と、俺以外が出入りしないようになって、五年。
 ここに最初に来たのは、俺に個性が発現する前だったっけ。お母さんがわざわざ連れてきてくれたんだ。真夏の、雪の降る夜を見せてくれに。

(今日は、なんて言ってくれるだろう)

 そんな期待にどくどくとうるさい胸を冷やした右手で押さえつけ、ピッキングのための道具袋を取り出す。
 ヒーロー志望が廃墟に不法侵入。あまつピッキングなんてことさえ憶えて。俺は一体何をしてるのか、と思いながら今日もカチリと音を立てた扉からそっと金具を抜き、道具をしまい、静かに扉を押し開ける。
 そうするとそこは時間も空気の流れも、すべてが止まったかのような静寂に満ちていた。
 その静けさにそっと踏み入って、ガコン、と背後で扉を閉めて、元のように鍵をかける。
 今日が管理者の見回りの日じゃないってことは事前に調べてあるが、俺のように廃墟に侵入する人間が他にいないとは限らない。ここは交通の便も悪いし、野宿覚悟で来なきゃならないような場所だ。他に誰もいやしないだろうが、声は出さない方がいいし、物音も、立てない方がいい。
 かつてはインフォメーションセンターだったカウンターの前を通り過ぎ、かつては入場のためにチケットを提示していたはずの機械の横を抜け、円形のプラネタリウム、そのメイン会場の扉に手をかけ、そっと押し開く。
 プラネタリウムは、専用の投影機械で暗闇を照らして光のショーを見せるものだ。だから会場というのは当然真っ暗闇。
 だけど、ここには、しんしんと、雪が降っている。いや、正しくは、雪のように見える何かが。
 本来ならプラネタリウムらしく星を映し出していたろう機械の故障だろうか。俺が初めてここに来たときもそうだった。真夏だろうが、真冬だろうが、ここはこうして積もらない雪がしんしんと降っていた。そして。

「また来たんだ」
「、」

 聞こえた声に、足元に落ち続ける雪を見ていた視界をぱっと上げる。
 雪のように微かな白い粒として降っていた光が、雲間から射し込む陽だまりみたいに粒が大きくなって、足元を照らす。それで左の炎を使わずとも放映機のある中央まで降りることができる。
 一番最初にここを訪れたのは十歳のときだった。
 親父と大喧嘩して家を飛び出して、優しかったお母さんとの想い出に縋るように、とにかく逃げるように街から離れて、気がついたらここにいた。そして、出会ったんだ。この人と。
 床まで届く青くて長い髪を無造作に垂らした、中性的な顔をしたその人は、今日もどこか人間離れした雰囲気を纏っている。
 俺が両腕を伸ばして抱きつくと、その人は黙って抱き返してくれる。「遠かったろう」「ん」「おいで」そうして手を引かれるまま歩いて、当時のプラネタリウムとしては珍しかった、寝転んで星を見上げるためのソファの席に導かれて、手を引かれるままに座り込む。
 そこでも青いその人に抱き締められて、そのひんやりとした冷たさに目を閉じる。
 ………別に、この人に、母親の代わりを求めたんじゃない。
 ただ、その人が、まるでそのことがわかっているかのように両腕を広げて俺を歓迎したから。母がいなくなって孤立し、強がっていなくちゃ固持できなかった意地が、プツンと切れて、泣きながらその人に縋った。

「あれから、何か変わったことはあった?」
「……ヒーローになって親父を見返すって話、しただろ」
「うん」
「そのために雄英に推薦入学する。試験は受かった。あとは面接だけど、問題ないと思う。何せ『エンデヴァーの息子』だ。蹴る方がどうかしてる」

 自嘲して唇を歪めた俺の頬をひんやりとした手のひらが挟んでくる。「お前の力だ」…青い瞳の中で陽だまりの光が揺れている。子供の頃に陽の光にかざしたビー玉を思い出す。
 そうかな、とこぼした俺に、そうだよ、と笑んだ相手が顔を寄せてくるのを拒めない。
 唇に触れるひんやりとした温度。
 冷たい、と感じるその温度に疑問を持つことはもうやめた。
 思考放棄。そう言われても仕方がない行為。
 防寒のために着込んできたジャンパーに細い指がかかって、ジー、とファスナーが下ろされる音がする。
 そういうことをするために丸くて寝転がる形になってるソファ席じゃないんだが、そういうことをするのにぴったりな場所でもある。
 青いその人の指がパチンと鳴らされると、投影機を中心にプラネタリウムの会場は花を散らせる真昼間の空間に早変わりする。「………、」その急な眩しさに目を細くしている俺に、摘めないはずのその花を摘んで、光の花輪を作った相手が、俺の頭にそれをかざる。「ヒーローへ近づく一歩、おめでとう」そう言いながら、光の花畑の中で青い着物がずれて落ちて、白い肢体が晒される。

「ご褒美がほしいんだろう?」
「…ほしい」

 光の中で。冬が近づく季節の夜の、だけど真昼のような明るさのある光の花畑の中で、白い指に誘われるままに服を脱ぎ捨てて、そのために全部準備だってすませてきてあるんだからと、俺より少し大きいだけの体に抱きついた。
 雄英に入っても、卒業してプロになっても、俺はあの場所に通い続けた。
 俺にとってあそこは逃げ場所であり、救いをくれる場所であり、快楽を味わえる場所であり、優しい人がいつでも抱き締めてくれる、得難い居場所だった。
 いつでも青いあの人。十歳のときに出会って、俺が二十になっても少しも姿を変えないひんやりとしたあの人がなんであるのかを、頭のどこかが理解し始めた頃。プロになって節約生活を続けて貯めた金が目標額になった。
 貯まった金であの場所を買い取り、長い長い時間をかけて出した答えを胸に、手袋をした手で伸び放題の草をかきわけていけば、閉鎖されて久しいプラネタリウムだった建物がある。
 だけど、少しも変わらない。閉鎖となって人が途絶え、大した手入れもされていない建物。しかも岸壁の海際にあるともなれば潮風で傷んで当然なのに、この場所は子供の頃と何一つ変わらない綺麗さを保っている。
 買い取った今は俺が管理人の、窓の一つも割れないままの正面玄関扉を鍵で解錠。ガコン、と音を立てて開く扉を押し開け、インフォメーションセンターとチケット処理のための機械の横を通り過ぎ、円形の、メイン会場へ。
 扉の前に立つ足は少し震えていて、扉にかける手は、みっともないくらいに揺れていた。

(ずっと考えてたろう。あの人のこと。この場所のこと。それで出た答えじゃないか)

 閉館になったプラネタリウム。
 岸壁沿いという立地のせいで、設備はいいのに閉館になったその場所には、死体が埋まっている。
 なんでこんな僻地にプラネタリウムなんか、と誰もが思った。理由はソレだった。
 俺が長年通い詰めたこの建物の地面の下にはたくさんの死体が埋まっている。
 残忍なこと、逃げ足の速さで有名なヴィランの組織をヒーロー総出でようやく全員捕まえて、自白した事実の一つだ。連中が憶えている限りだが犠牲者のリストも確認している。
 その中に、青いあの人もいた。
 という名前で、顔写真も一緒に、行方不明者として処理されていた。
 その個性は『夢を見せること』。
 ごくり、と喉を鳴らす。
 震えが止まらない手にもう片手を添えて、それでも力が入らなくて、肩で押すようにして体重をかけて扉を押し開けると、その場所には変わらずにしんしんとした雪が降っていた。
 見慣れた風景。見知った静寂の空気。それも今日で最後になる。

「……

 初めて、名前を呼んだ。教えてもらえなかった名前。調べてようやくわかった、青くて優しいあの人の名前を。
 雪がぶわっと吹雪のように舞ったかと思えば、スポットライトのように、いつものソファ席を巡って回る。
 静寂がよく似合うこの場所の、いつものソファに、あの人はいた。いつものように青い服を着て、曖昧な笑みでこちらを見上げていた。

「そうか。じゃあ、もう、夢はおしまいだね」
「………っ」

 すべてをわかっているかのように微笑むその表情の優しいことといったらない。
 俺が最初にここに来たとき。泣きじゃくる子供としてこの場所を訪れたとき。ここは、『殺された魂たちの怨念が渦巻く空間』としてではなく、『泣く子供を慰める光の場所』として在ることを選んだ。
 殺された多くの人たちの、一つ一つの個性で、この場所は奇跡的に在り続けた。『風を操る個性』『建物の強度を変えることができる個性』『光を作る個性』『幻を見せる個性』『夢を見せる個性』『小さな望みを叶える個性』『時間を操る個性』………。おそらくすべて、ヴィランが利用しようと画策して、優しい彼らはそれを拒絶し、殺された。埋められた。誰も訪れない岸壁の地面の下に。
 残虐な行為で有名だったヴィランの集団だ。優しい彼らは自分達の利益のことしか考えない奴らの要求を拒否したろう。
 きっと酷い拷問を受けたりしたはずだ。痛い思いを、辛い思いを、したはずだ。それは他人を恨んでも仕方がないといえるくらいの苦痛と悲痛だったはずだ。言われのない、酷烈な人生。それは人を怨むに値するものだったはず。
 それなのに、俺という子供が訪れたことで、土の下に埋まる優しい彼らは、この場所を個性で維持すると決めたのだ。
 そもそも死人が個性を使えるのかと言われれば、わからない、としか言えない。
 だけど、奇跡は確かにあった。
 ここに、あったんだ。俺はそれをよく知っている。
 カツ、コツ、と階段を下りる足が、重い。

「言ってくれたら、親父が、すぐ捕まえた」
「ああ。そうだね。でもあの頃のお前は、お父さんのことが大嫌いだったろう」

 笑った声に唇を噛む。
 そんなことまで俺を気遣ったのか。殺された自分達の姿形があるうちに見つけてくれ、じゃなくて、居場所がなくてこんなところまで逃げてくる子供を受け入れるために、自分達の無念を押し殺したのか。
 なんて。優しい人達の掃き溜めなんだろう。
 ………どうして。こんなに優しい人達が、死んでしまう、世界なんだろう。
 カツン、と音を立てて階段を下りきり、いつかの光の花畑の中で膝をついて、青いその人に縋って抱き締めた。
 頭を撫でる手は優しくて、冷たくて、生きている温度はしていなかった。

(この場所を解体するんだ。この人達を解放するんだ。優しくて、かわいそうな、魂達を)

 遺族だって待ってる。もう肉体は残っていないだろうけど、遺骨くらいは家族の元へ返してやらなきゃ。
 ふいに顎にかかった手に顔を上げさせられた。青い瞳と、陽だまりが揺れる瞳と目が合う。「大きくなった」「……もうプロだぞ。俺。成人だってした」「そうか。そうだった。それじゃあもう、大丈夫だね。一人で、立てるね」「……ッ」その言葉には、涙をこぼすことでしか答えを返せなかった。
 確かに、雄英に行って、俺は変わった。友達がたくさんできた。親父のことも割り切れた。お母さんとも仲直りできた。轟という家は今ようやく家らしくなった。あそこにいてももう俺は苦痛じゃない。ここへ逃げてくる必要はなくなった。

(でも)

 俺達の周囲で季節が巡る。
 桜の花びらが吹雪く春。
 緑と太陽が眩しい夏。
 黄色や橙の葉が舞う秋。
 そして、しんしんと降り続ける、積もらない雪が続く冬。
 ソファから静かに光の芽が出て、育ち、花になる。
 それを摘みながら、青くて優しい人は唇を緩ませている。どこか満足そうな顔で。

「いいんだ。人はね、過去に生きた者の墓を立派にするのではなく、次に育つ君達という子供を大事にすべきなんだから」
「だけど、こんなの……ッ!」
「もちろん、お前の気持ちは嬉しいよ。焦凍。
 私達にも無念はあったし、悔しいという気持ちもあったし、悲しいという気持ちもあった。けれどそれは、小さくて、幼くて、独りで泣きじゃくる子供のお前に押しつけるべきものじゃない。
 これはね、そのくらいの良識がある人間がここに集まっていたという、ただそれだけの話さ。
 だから私達はお前を呪うのではなく、その未来を祝福するために、ここに留まることを決めたんだ。
 焦凍、お前が大人になって。私達がそうしたように、誰かを、救える人になれるように」

 光の花束を作ったがそれを俺へと手向ける。だけど俺はそれを受け取れない。受け取りたくても、光でできたものは、俺には持ちえない。
 ふいに、ゴン、という音がした。振り返ると天井の一部が崩落していた。
 今日まで奇跡的に在り続けた廃墟は、本来そうであるべきように、埃にまみれ、あちこちの壁に亀裂が入り、傷み、ひび割れ、俺が縋るの座るソファも半ば腐っていた。本来そうであるべきように。
 奇跡を保ち続けたこの場所は、岸壁に立つ廃墟らしく、どんどんと崩れていく。
 夢は終わった。
 魔法は、解けた。
 力尽きたように解けていく光の花束が散っていく。いつでも降っていた雪が止んで、光の花畑も、消えていく。
 ドオン、と音を立てて床の一部が崩れて落ちた。下の階は確かレストランとかが入っていた場所で、だから、ここは、このまま崩れて落ちる。長居はできない。

「ずっと、好きだった」

 この腕で触れている、抱き締めている、という感覚が曖昧になっていくに、崩れていく建物の出す音に負けないようにそう叫ぶと、ふ、と笑う声がした。

「死人を好きになるなんて、変わっているね。お前は」
「うるせぇ。好きなものは好きだ。好きだ。好きだ…ッ」

 ……泣きたくなったとき、どうしようもなくなったとき、俺は決まってこの場所へ逃げた。
 がそのときにいなくても、いつものソファ席で丸くなって眠った。それで目を覚ますと毛布がかかっていて、青い人が優しく俺のことを撫でていた。
 父親への恨みつらみ。家族への複雑な感情。母への申し訳なさ。色んなことを懺悔するように話した。
 彼は、彼らは、すべて聞いてくれた。赦してくれた。こんな俺でもいいのだと抱き締めてくれた。優しく抱いて、何も考えなくていい時間をくれた。
 得難い春で、夏で、秋で、冬で。積もらない光の雪が降る、触れられない花畑の咲き誇る、そういう場所だった。

(だけど。もう。行かなきゃな)

 もう夏に雪は降らない。
 光の花は見られない。もう二度と。
 とん、と肩を押されてよろけるようにその場を一歩二歩下がると、さっきまで俺がいた場所にゴンと音を立てて鉄骨が突き刺さった。
 その向こうにいるは、もう俺の知っているじゃなかった。青くて美しい人じゃなかった。ただの白い、ぼんやりとした、骸骨のような。幽霊のような。そんなものだった。
 そんなぼんやりとしたものが気が付けば周囲に揺らめていて、皆が一様に出口を指している。
 こぼれる涙をそのままに、 俺は走った。走るしかなかった。
 崩れた道は氷で代用して、炎を使って加速しながら円形の会場を抜け出し、崩れた天井で潰れた機械を飛び越え、とっくに腐って崩れているインフォメーションセンターのカウンターを横目に、枠組みが軋んで今にも崩れそうな入り口から外へと飛び出す。
 それまで綺麗に建っていたのが嘘のように、かつてプラネタリウムだった建物は轟音を立てて崩壊を始めていた。
 この場所も危険だと判断した俺は左を使って上空に飛び上がり………そこから、崩れていく愛しい場所を眺めながら、ポケットから携帯を取り出す。
 視界は滲んだまま、海から吹く風になぶられて、もっと滲む。ぽたぽたと涙が落ちる。最愛の場所を、最愛の人を失くしたことに心が悲鳴を上げている。
 ……だけど俺はヒーローだ。もう、泣くだけの子供じゃない。

「こちらヒーローショートです。件のヴィランの組織が自白した件でお話が」

 警察を呼んで。一部でもいいから、遺骨を回収して。遺族に返さなければ。それが俺が彼らにできる最初で最期のことだ。
 長い通話のあとに携帯を下ろした頃には、プラネタリウムは建物であったという原型を留めないほどに崩れた瓦礫の山となっていた。
 涙の滲む視界をぎゅっと強く閉じる。

(この先、誰かを好きになることは、きっとないんだろう)

 青くて美しいあの人のことを思うと胸が痛くなる。いつでも優しく笑って焦凍と呼ぶ声を思い出すと泣きたくなる。
 あの人が出会ったときにはもう死んでいて、死人でしかなくて、それで俺のことを慰めていたんだとしても。それでもどうしようもなく好きだった。ただただ優しく応えてくれたあの人のことが、俺は、どうしようもなく、好きだった。
 ………この先。もう誰かを好きになることはないんだとしても。それでも。
 閉じていた目を開けて、ぐっと強く拳を握って、この場所に、ここにいた人達に誓う。
 あなた達がそうして俺を救ったように。俺も救うよ。ヒーローとして、なるべく多くの人を救う。
 たとえこの先、あなた達を超えるような優しい人に出会えない世界だったとしても。それでも頑張るよ。この先に愛が待っていなくても頑張ってみせるよ。未来のないあなた達が、それでも俺に、未来を与えようと努力したように。俺も、頑張るよ。

(ああ、でも、なんて)

 ごお、と吹き付ける海風に両腕で体をかき抱く。
 愛のない世界は。愛を亡くした世界は。なんて、寒いんだろう………。