冬空の下、いつものように公園で一人ギターを鳴らして一人歌った。
 寒い中、寒さを無視して、奏でて歌う。それくらいしか俺にできることがなかったから。
 気前のいいおばちゃんがいたらお金をくれるし、煩わしそうに眉を顰める老人もいるし。勝手に演奏してるとそのうち警察が来るから、目標の日銭を稼ぐために公園、駅の脇、場所を転々としながら、その日もなんとか千円を稼ぐことができた。

「ごほ」

 吹く風が冷たくて、身に沁みて、こぼれた咳に、マフラーをしっかり首に巻き直す。
 そして、外よりはまだマシだといえるボロアパートに戻る途中で、ゴミ捨て場に猫がいるのを見つけてしまった。「……ええ…」思わずそうこぼしてしまってから口をつぐんで、そろりと近寄ってみる。
 仮に死んでいたとして、ゴミ捨て場に放置するとか、常識的にどうかと思うし。仮に生きていたとして、こんなところに放置されてるんだ。捨てられたってことになるんだろう。
 まず生きてるのかどうかを確認するためにじっと猫を観察する。白と赤茶の毛をした猫の胸は、薄くだけど上下している。「……んー」ギターのケースを背負い直して、決して余裕のある身ではないにも関わらず、俺はその猫を慎重に抱き上げて部屋へと持ち帰った。
 とにかくあたたかくしてやろうと、俺にとっては貴重なホッカイロを開封。シャカシャカ振ってあたたかくなったものをタオルで包んで猫に抱えさせ、毛布でくるんで、水くらいはやろうと閉じた口元に指でつけた水を舐めさせた。

「ごほ、ごほ」

 本当なら自分が被っているべき毛布だったけど、今死にそうなのは猫の方だ。今は俺じゃなくて猫を優先する。
 咳き込みながら湯を沸かし、今日の飯であるカップ麺を用意しようとして、猫の飯を考えた。「……あー。うーん」猫缶。を買うだけの金の余裕もない。俺の残飯をあげることくらいならできるけど、それでも食ってくれるかな。
 いつもなら簡単なカップ麺ですませてしまうところを、貴重な白米を鍋に入れ、沸かした湯も入れて、コトコトと煮込んで、卵だけを落として入れる。

「おーい」

 毛布で包んだ猫の方を覗き込むと、のそりと顔を出した色の違う双眸と目が合った。オッドアイだ、この猫。「お粥なんだけど。お前、食べる?」一応冷ましたし、くたくたに煮たし、その気があるなら食えるとは思うけど。
 座り込んだままの猫の顔に少しよそった卵粥を置くと、ふんふんと鼻を鳴らしたあとに舐めるようにして食べ出した。よーし。面倒な調理したかいがあったぞっと。

「ごほっ、げほ、」

 喉をせり上がって来る咳に口を押さえながら台所のシンクに顔を突っ込んで吐き出したのは血だ。「……、」その赤を見てももう何も思わない。
 ぐい、と黒い袖で口元を拭って、今日は俺もお粥でよかったかもな、と思いながらパラパラ塩を振りかけ、なるべくゆっくり食事を食べ、スーパーで安売りしていたみかんをデザートにして、はい、ごちそうさま。
 エアコンのついてない、六畳一間のボロアパート。雨風が凌げて寝起きができるだけのその建物は、全部で六部屋あるけど、俺以外に人は住んでない。あまりにボロいのと、俺しか住んでないってことで、先日、ここを取り壊すことが決まったというはがきも届いていた。近く出て行かないとならない。そんなアテはないっていうのにだ。
 ああ、まったく。なんて人生だろう。
 誰もいないからこそ好き勝手に鳴らせるギターの弦を指で弾く。
 毎日毎日、誰にも求められていないギターを弾いて小銭を稼いで、その日暮らしをする十六歳。それが俺だ。
 母親は病気で死んだ。
 父親は、最初は俺の面倒をみていたけど。俺に母と同じ病気があるとわかると、とても申し訳なさそうにしながらも、俺のことを捨てた。
 なんでかって? 治療にすごくお金がかかるからさ。
 それに、母親は助からなかった。同じことを繰り返す元気も資金も父には残っていなかったんだろう。それを、責めることはできない。

「A life for counter by the storm」

 この人生は、嵐に抗うためのもの。

「Have you tired to face your days that you can learn」

 君は、学ぶことの多いこの人生に、真摯に向き合っているだろうか。
 好きな曲の好きな歌詞を奏でながら、バチン、と弦が切れて指の方に掠った。じわ、と滲む赤い色に、こっちも限界か、と思う。「弦かぁ……」張替か。そっかぁ。
 ギターにまで俺の人生を拒絶された気がして、相棒を畳の床に転がして自分も寝転がると、よたよたと歩いてくる猫が見えた。皿の方は空っぽだ。そうか、全部食えたならよかった。「まだあるけど。食う?」にゃあ、と鳴く声がどっちかわからず、苦労して体を起こしておかわりと水の皿を用意すると、元気よく食べ始めた。うん、元気なのはいいことだ。
 家賃。最低限の水道光熱費。それらを払うだけで精一杯の生活で、収入源は語り弾きだけでここまできてる。弦はやっぱり張り替えるしかないだろう。カップ麺がいくつ買えるだろうって痛い出費だけど仕方ない。
 おかわりもぺろりと平らげた猫はだいぶ元気になってたみたいだから、ホッカイロとタオルにくるませて、毛布は俺がもらう。

「ごほ…ッ」

 口からこぼれた赤い色を黒い袖で拭う。そのために俺は黒い服しか持ってないのだから。
 次の日も、その次の日も、俺は同じことを繰り返した。
 弦を張り替えたギターを抱えてあちこちを巡り、奏でて歌う。
 違うことといえば、勝手についてくるようになった白と赤茶の毛を持つ猫くらいだろうか。
 とくに何をするでもないけど、ギターの箱の中に猫がいるってだけで惹かれる人間はいるらしく、おかげで毎日の収入が少しだけど上がった。「さんきゅー」今日も大人しくギターの箱の中で客引きしてくれた猫をコートの懐に入れて、ごほ、と咳き込む。喉をせり上がるこの感じは。
 近くの茂みに顔を突っ込むようにして血を吐いた。「……っ」路上にぶちまけるよりはマシだろう。
 ぜぇ、ぜぇ、と荒い息を繰り返す俺をコートの中からオッドアイの瞳が見つめている。

「…これ? 俺、病気でさ。でも、医者にかかる金も、ないから。たぶん、もうじき死ぬんだ」

 独り言のようにぼやきながらギターの入ったケースを背負い直し、ふらつく足で歩き出す。
 そうやって、猫を拾って一週間がたった頃。ボロアパートの部屋から猫が消えた。忽然といなくなってしまった。
 こんなにボロいアパートだ。本気で抜け出そうと思えば隙間とかはいくらでもあって、柔軟な猫なら、外に出ることも可能だろう。
 別に、一週間面倒をみただけだし、それで元気になって自分から出て行ったのなら、それがいいと、俺はあまり気にしないようにした。
 俺のそばにいたって、そのうち孤独死する身だ。飯だって卵粥を作ってやることしかできない。ぺたんこになったタオルの寝床しか用意できない。
 お前は毛艶もよくて愛想よくすることもできるんだから、もっといい人に拾ってもらうといい。そうして、幸せに、生きるといい。
 そんなことを思いながら、その日もいつもと同じように、駅前の目立たない場所でギターを奏でて歌っていると、目の前に人が立った。そうしてギターケースにどさっと重たいものが落とされて、歌っていた声が途切れる。
 目の前に立っていたのは高校生と思われる制服を着た男子だった。
 それで、ギターケースの中に重い音を立てて落ちたのは、札束だった。「は…?」思わずこぼしてから、ああ、イタズラかな、と思う。ほら、玩具のコインを入れるみたいなさ。玩具の札束を入れる感じ。高校生にもなってとは思うけど。
 それで、なんか見覚えがあるな、と男子生徒を見上げて……なんでか猫を思い出した。白と赤茶の毛並みをしていた猫。一週間だけ俺と一緒に暮らした猫を。紅白色の髪をしてるせい、かな。
 いや、まさか。そんなことを思いながら気を取り直してギターを抱え直した俺に、しゃがみ込んだ男子がケースの蓋をバンと閉めて顔を寄せてきた。うわ、よく見たらイケメン。「あ、の」近い近い、え、何。
 俺の耳元に顔を寄せたイケメンが小さく「にゃあ」と言う。猫みたいに。
 猫。
 紅白色の髪をしたこのイケメンも両目の色が違う。あの猫みたいに。
 一度締めたケースを開けた相手が落とした札束を拾って俺に押しつける。「病院に行け」「へ」「今すぐ行け」「え、いや、俺、保険証とかないし」「百万あれば足りる。とにかく行け。自分で行かねぇなら俺が連れてく」勝手にギターを取り上げてケースにしまい、俺の腕を掴んでつかつかと歩き出す相手に困惑する。

「お前、あの、猫、なの?」
「ん」
「ええと、どういう事情で猫に……?」
「ヴィランに個性かけられた。俺は親父がヒーローだから、逆恨みってやつだな。それで猫にされてボコられた。で、捨てられたところをお前に拾われた」

 ああ、なるほど。そういうことだったのか。納得だ。
 そこで胸をせり上がってきた咳にごほ、げほ、と咳き込んで手のひらで口を押さえる。指の隙間からぽたぽたと赤い色が落ちる。「おい、」焦った顔になったイケメンは、そういう顔でもイケメンなんだな、とか思いながら膝をついて堪えきれなかった血を吐き出した。ぼたぼたととめどなく溢れてくる。出血量が、多い………。

(ああ、もうすぐ死ぬんだな。母さんみたいに)

 そんなことを思いながら目を閉じて、次に目が覚めたとき、俺は白い部屋にいた。
 どうやらそこは病院で、俺の事は紅白髪のあの男子が助けたらしいと、看護師さんからの話で知った。
 惜しみなく投与された薬やら点滴やらのせいで管だらけの俺の病室に、ガラ、と引き戸を開けて例のイケメンが入って来る。学校帰りなんだろう、制服だ。「大丈夫か」「んん。とりあえず、まだ、吐いてない」「そうか」どさ、とソファに腰かけた相手が俺のギターケースを撫でた。弾けはしないのか、開けようとはしない。

「そういえば。名前、なんていうの」

 元気になる間だけ世話をするつもりだったから、猫には名前をつけなかった。それでよかったと今は思う。
 紅白頭のイケメンは顔を上げると「轟焦凍」と名乗って、付け足すみたいに「にゃあ」と鳴いた。それに笑って、ちょっと苦しくなった胸を押さえながら、「俺は、。助けてくれてありがとう」「それは俺の台詞だ。あのまま放置されてたら俺だって死んでた」だから今度は俺がお前を助ける、と言うイケメンが、おや、近い。近いぞ。どうしてそんなに近いのかな。
 ちゅ、と唇にキスされてぺろりと舌で舐められて、にゃあ、と鳴く相手に、もう猫じゃないだろう、なんて呆れる俺である。
 もう猫じゃないだろう、と思いながらも紅白色の髪をくしゃりと撫でてやると、ゴロゴロという喉を鳴らす上機嫌な音が聞こえるようで。なんとなく、その体を抱き寄せて、猫にそうしていたみたいにしてしまってからはっとする。いやいや今のこいつ猫じゃないから、人間だから。しかも男。イケメン。
 ……でも、離れようとしないんだから。いいのかな。このままで。
 もう猫じゃない轟が猫みたいに顔をすり寄せてくる。
 その頭を撫でてやりながら、好きな曲の歌詞を思い出す。

(この人生は、嵐に抗うためのもの)

 ああ、そうだ。その通りだ。俺はこれから病という嵐に立ち向かう。
 いなせるのか、勝てるのか、克服できるのか。わからないけど。精一杯抗ってみせるよ。