ある日、親父の執務室に呼び出された。そのこと自体は別に珍しい話じゃない。同じ事務所で仕事してりゃいくらだってあることだ。
 ただ、いつもの渋面ではなくいつになく真剣な面持ちでタブレットを見つめる親父に物珍しさは感じた。
 面倒な仕事なら面倒だって顔に出して眉を顰める。そういう顔に出る野郎なんだ。それがこんなに真剣に何かを見ている。

「焦凍」
「なんだよ」
「お前に折り入って仕事の頼みがある」
「…? ああ」

 折り入って。その言葉に頭に引っかかるものはあったが、ヒーローとして、割り振られた仕事はしっかりと勤めるつもりだ。
 それで、親父がさっきまで真顔で見てたタブレットを渡され、英語のそれを斜め読みして………たぶん俺も、親父みたいな真顔になっていたんだと思う。
 海外で活躍してることで有名なヒーローの一人、ハピネス。
 その名の通り他人に『幸福』を与えることができる個性の持ち主で、主に紛争地域や親を失った子供たちなどに幸福を与えるために世界中を飛び回っていると聞く、ヒーローの鑑みたいな人だ。
 ハピネスの過去の写真などを閲覧していると、子供の頃の写真が一枚だけあって、その姿を見てはっとした。
 俺も、一度だけ、この人の世話になったことがある。
 本当にたまたま、なかなか迎えが来ないなと塾の前でポツンと一人立っていたら、その人が現れて、オールマイトの人形をくれたのだ。
 ポケットに入るくらいの本当に小さなオールマイトだったけど、当時の俺からすればそれは本当に嬉しいもので。まさに『幸福』を感じるもので。とても、とても、嬉しかった。
 そんなことすら忘れていたということを今思い出して、じっとタブレットの中のハピネスを見つめた。
 あのとき俺に幸せをくれた人が、今は、死んだような顔をしている。

「個性が、限界に達した。とかか」
「わからん。世界中の医者にたらいまわしにされ、接点のある親しいヒーローなどが面倒を見たそうだが、意識と呼べるようなものは戻らんそうだ」
「……………で、なんで俺なんだ」
「見ればわかるだろうが、海外でも名のあるヒーローが彼の面倒役を買って出ている。彼は次に日本に来る。我が国だけ無名のヒーローを世話役にあてるわけにはいくまい」
「……はぁ」

 つまり。現ナンバーワンヒーローで、だが人の世話をするとかお世辞にも無理な親父にかわって、息子でありヒーローである俺が。この人の面倒を見ろ、と。
 死んだような顔をしているハピネスを睨みつけて、幼い頃に人形をくれた人の顔を思い起こそうとして失敗した。…ナイショだよ、っていう言葉しか思い出せない。

「わかった。やる」

 ぼそっと返した俺に、親父は偉そうに頷いた。
 という経緯で今日到着するはずのハピネスを空港まで迎えに行くと、アメリカのヒーローが手を振って来た。「ヘイボーイ!」俺はもうボーイって歳じゃねぇけど、と思いながら片手を挙げて応え、握手を交わし、形式上書面にサインをしながら、ちら、と車椅子に座ったままのハピネスに視線をやる。……目が死んでる。

「基本的に答えないんだよ。コップを渡せば中身を飲むし、食事を持っていけば食べもする。完全なる介護が必要な状態ではないんだ。ただ、そうだなぁ」

 疲れてしまったのかなぁ。アメリカのヒーローはそう言ってハピネスの頭を撫でた。
 国籍を海外に移してはいるが、どうやら日本出身らしいハピネス、本名のプロフィールをパラパラ眺めながら入国の手続きをすませ、車椅子ごと用意させておいた車に乗り込んで東京の都心に向かう。
 車を下りて車椅子を専用の機械で下ろし、今日から二ヶ月住むことになる高級マンションを見上げる。
 なんでもある程度はヒーロー協会から援助が出るが、これでは足りんとか言って、親父がポケットマネーで追加分を用意したらしい。それで都心の高級マンションか。海外でも好待遇を受けていたヒーローを我が国だけうんたらかんたらっていう、要するに見栄だ。

「今日からここで暮らすぞ」

 車椅子に座ったままぴくりともしないの肩を揺らしてマンションを指すと、死んでいる目が上を向いた。……確かに、まるきり意識がここにない、って状態ではないのか。だからって意識があるとも呼べない感じだが。
 受け付けのコンシェルジュには事情を説明してあるから、書類の提出と本人の証明のための指紋登録の手続きなどをすませて、エレベーターで35階へ。
 俺の荷物は適当に運び込ませておいたし、この人のものはこれから適当に用意する。

「俺は蕎麦が食いたいんだが、蕎麦でいいか?」

 返事は期待しないで蕎麦を二人分茹で、買ってきた天ぷらも並べる。「」呼んでトントンと食卓を叩くと、ぎ、と車椅子を軋ませてよろけながら立ち上がったはまた座ってしまった。一人では普通には立てないか、と立たせるのを手伝い、食卓につかせる。
 相変わらず目は死んでるが、のろのろとした動きで箸を手にして、ずるり、と遅い動作で蕎麦をすするが、そこに心はないという表現がしっくりくるような。そんな感じだ。
 向かい側でエビ天を頬張ってずるずる蕎麦をすすりながら考えてみる。
 ハピネス。本名は。人に幸福を与えることができる個性の持ち主で、その個性を活かして人々に幸せを配って来た。
 その期間、およそ十五年。
 個性が発現したのが五歳だとして。プロになったのが高校を卒業してからだったとして。じゃあこの人、もう三十にはなるのか…。なんか、小せぇし、そうは見えないけど。
 俺も二十代後半に入ったけど。きっとこの人と俺が見てきた景色っていうのは全然違うんだろうな。
 そんなことを考えながら蕎麦を食い、ついつい伸びそうになる手を止めて、のろのろとした動きで汁を飛ばしながらも自分で食事するを眺める。

「俺さ。すっげぇ子供の頃に、あんたにオールマイトの人形をもらったんだ」
「……………」
「その頃は、顔に火傷負って、お母さんが入院して家からいなくなって、励みになるものが何もなくて……だから、あんたがくれた人形は、小さくても、あの頃の俺の支えだったよ。これ、ありがとうな」

 実家で家探ししたら出てきた、薄汚れたオールマイトの人形をことりとテーブルに置くと、ずる、と蕎麦をすすっていたの手が止まった。器を置くとのろりとした動きでその手が人形に伸びる。
 もしかして、憶えてんのか。少しの期待を込めて見守っていると……しゅるり、と音を立てて人形が解けた。光の紐に。そうしてすうっとの指に吸い込まれるようにして消えて行った。「は?」思わずこぼしてがしっとその手を握って開かせるが、ない。オールマイトの人形がない…。

「あれ」
「、」

 そこでした声に顔を跳ね上げると、まだぼんやりとはしているが、の死んだ目に光が灯っていた。「あれ……ここ、どこ、だっけ?」そうして首を傾げ、目の前の食べかけの蕎麦を見て、それから俺を見る。
 何がなんだかよくわからないが、今だけかもしれないと、俺はまくしたてるように現状を説明した。お前の状態。この場所のこと。俺のこと。今さっき起きたこと。
 はずるずると蕎麦をすすりながら、はぁ、と曖昧な返事をする。

「幸福を、あげて。幸福を返してくれたのが。君だけだったんだろうなぁ」
「は?」
「俺の中の幸福が、個性が、空っぽになって。俺が空っぽになって。今そこに、君が返してくれたものが少しだけあるんだ。ありがとう、っていうのが伝わってくる。それで目が覚めた」

 さく、と天ぷらを食べた相手が初めて笑った。「ありがとう」と。その顔で、ようやく、幼い頃に俺に人形をくれたあの顔を思い出すことができた。ナイショだよ、と笑って俺に人形をくれた顔を思い出すことができた。
 あの頃から、この人は無意識にヒーローをしていたんだろう。人に小さな幸福を分け与えながら。
 そうして誰も、この人に幸福を返さなかった。
 なぜか? 簡単で身勝手な話だ。
 自分が幸福なら、それで満足だったからだ。
 俺だってそうだ。オールマイトの人形をもらって、こっそり大事にしまい込んで、ときどき見返して元気をもらってたくせに、中学になる頃にはこの人にもらった幸福の存在を忘れていた。俺は薄情な奴だったのだ。俺も、この人に幸福をもらった奴らも、全員自分のことしか考えてない。だからこの人はこうなってしまったのだ。
 人に幸せをもらったなら、その分幸せを返さなきゃならない。そんな当たり前のことをしなかった。そのツケが、よりにもよって、幸福を配った本人を覆った。あんたは何も悪くはなかったのに。
 次の日、が憶えている限りの『市販品で求められた幸福』というやつをリストアップ化し、買いに出かけた。
 昨日のことを思うに、誰かにあげた幸福を回収することができれば、の状態は少しよくなる。
 昨日のオールマイトの人形で少なくとも意識という目は覚めた。お前の個性を使ってあげたものと市販品じゃ勝手が違うかもしれないが、試さないよりはいいだろう。
 まだ満足には動けないというの車椅子を押し、東京は久しぶりだと言うからわかる限り案内して歩きながら、「あ、あれだ」と指さす手に車椅子を押す手を止める。
 なんでも小さい子にねだられた、有名店のマシュマロらしい。一回でいいから食べてみたい、と言われてあげたんだとか。
 高い菓子ばかり扱ってる店にはドアマンがいるらしい。こっちは車椅子だからいてくれた方がありがたいが。「いらっしゃいませ」「どうも」開かれた扉に軽く頭を下げて返し、が視線を彷徨わせて「あっち」「ん」マシュマロが置いてあるコーナーへ行く。
 ……おかしいな。俺が知ってるマシュマロより桁が一つ多い。そんなことを思いながら、これをねだった子供って……なんてことを考える。

「たぶん、これだ」

 缶に入ったマシュマロを指すに「ほんとにこれか? 三つ種類あるぞ。味も違う」「ええ……そう言われると…。食べても、缶が残るから、それを大事にする、って言ってたことしか憶えてない。かも」自信なさそうにしょもっと肩を落とすがなんだかかわいく見えてくる。三十路なのに。が小さいせいだろうか。「三つ買おう。そうすれば間違いない」マシュマロにしては高いなと思う会計をカードですませ、店の外に出て、さっそく一つずつの手に取らせると、そのうちの一つがビンゴで、しゅるしゅると光の束に解けて吸収されていった。
 よし。これでたとえ市販品であろうが、かつてが個性で与えたものなら回収対象だってことがわかった。大きな収穫だ。

「調子はどうだ。なんか変わったか」
「うーん……あの人形ほどじゃあないけど。瓶のボトルがあって、そこに小さじ一杯の水が戻ったかなぁって感じ」
「そうか。よし、次だ」

 リストを開いてマシュマロを削除し、ピンクのリボン(当てはまるものがありすぎて目に付くものから適当に買って行った。すげぇ金がかかったがなんとか回収できた)、ティーカップ(これはブランドのもので廃盤品だったが、取り扱ってるという店まで行ってアンティーク値段を払って回収した)、その他、とにかくリストアップしたものを回収することに努めた。
 そのかいあって、その日の夜には「あれが食べたい」と自分から言うくらいには意識がはっきりとし、最近できたハンバーガーの店をさす指に、俺は蕎麦がいいんだが……と思いながら、店が狭そうだったから、車椅子のは外で待たせることにした。「すぐ戻る」「うん。俺ね、これがいい。羊サンライズバーガー」なんだそれ、と思いつつも来店し、人気店なのか並んでてなかなか進まない列にめんどくせぇなと思い始めた頃、店の外が騒がしいことに気が付いた。視線を投げるとの車椅子が不良っぽい輩に囲まれている。
 あーここまで並んだっつうのに、と舌打ちして外に飛び出し、の胸倉を掴み上げていた不良の手をバキンと凍らせ、不良ども全員の足元を膝まで凍らせた。「うげっ?」「なんだこれ、おい! てめぇ!」はぁ、と白い息を吐いて、今は私服だからわかんねぇのか、とヒーローカードを突きつけると、不良どもはさっと顔色を青くした。「え、嘘、ヒーローショート…」「マジかよ」パチン、と指を鳴らして氷にヒビを入れバキンと割りながら、白い息を吐き出す。
 今の俺はの面倒を見るという仕事を最優先としている。その他は後回しなんだ。だから。

「十秒以内に失せろ」

 途端に走り出して脱兎のごとく逃げていく不良どもから視線を外しての衣服を叩く。「何された」「いや、まだ何も。金寄越せって胸倉掴まれただけ」「…そうか」嘘が下手だな。頬に一発殴られた痕があるじゃねぇか。
 車椅子、だもんな。ああいう連中にとっちゃ健常者じゃない、そう見える奴は獲物だ。
 はまだ回復途中の動物で、猛獣からしたらただの獲物に過ぎない。俺がそばを離れちゃ駄目なんだ。うかつだった。

「わりぃ、ハンバーガー買えてねぇ。デリバリーで頼むから、帰ろう」
「お店混んでるもんな。頼めば配達してくれるとか、日本は便利だなぁ」

 ストッパーを外し、車椅子を押して人混みの中を歩きながら、陽の沈み始めた空を見上げるの視線を追いかける。……とくに何があるわけでもない。暮れていく空があるだけだ。

「俺、こういう空は久しぶりだ」
「…?」
「戦闘機の音もない。噴煙もない。地雷が爆発する音も、銃弾が飛び交う音もしない。
 泣いた子供の声も。子供を失って叫ぶ親の声も、しない。
 当たり前のように着飾った人間が歩いてて、さっきみたいなことはあっても、問答無用で個性で命を刈り取られることはない」

 そういうのが久しぶりだ、と感慨深くこぼす声に、ぐっと唇を噛む。
 ……立場は同じ『ヒーロー』だ。だけどこの人と俺が見てきた世界は、全然違う。違いすぎる。
 この人はとても過酷な環境に一人でも立ち向かったのだ。自分の個性を活かして、求めている人に与えるために、『幸福』を届けに行った。まるでサンタクロースのように。
 見返りを求めない、あんたはとてもヒーローらしいヒーローだった。

「もう休め」
「ん?」
「引退しろ。ハピネス」
「ええ……。
 いや、うん。わかるよ。人様に迷惑かけてるこのザマを思えば、そう言われるのはしょうがない。
 たとえば今日みたいに回収がうまくいっても、力が戻るのは三割か四割か…その程度が限度だろうし。それでまた『幸福』を配っても、たぶん俺が同じことになって面倒の繰り返しだから、もうやめろって意味で、」
「そういう意味じゃねぇ!」

 車椅子の前に回り込んで細い肩を掴む。「え? え、ええと」困った顔をしているの腫れてきた方の頬に右手を当てて冷やしながら、きっと、殴られることなんて慣れていて、人が生き死にすることにも慣れていて、だからそうやって自分のことも達観して見てしまうんだろうのことを思う。
 ……オールマイトの人形。あんなに小さくて、でも俺がとても欲しかったものを、なんでもないことみたいに与えてくれたけど。あれはお前が自分を削って生成していたものだ。だからお前に戻ったんだ。
 お前は自分を犠牲にして人を救っていたんだ。
 ヒーローってもんはそういうところが確かにある。それは認める。誰かを助ける代わりに自分が怪我を負ったり、わりに合わない思いをしたり、俺だって思うところはある。
 だけど、自分を見失って人形みたいになるまで、誰かのためになんて笑うのは、やめてくれ。

「もう、いい。自分を削って笑って生きるのはやめろ」
「……そう、言われても。ほら、俺、ヒーローやってたけど、行く先々で配ったりしてたから、お金ないんだ。だから、働かないと」
「それについてなら考えがある。任せろ」

 え、とこぼして立ち上がった俺を見上げて不思議そうにするの車椅子を押してマンションに連れ帰り、ウーバーで頼んだ羊なんとかバーガーとポテトとコーラという不健康の塊をうまそうに食っているを頬杖をついて眺め……ふと思いついて動画を撮ることにした。夢中になってハンバーガーにかじりつくは子供のようだ。「うまいか」「んー、んまぁ」「俺にも一口くれ」「んー」差し出されたハンバーガーをかじって、脂っぽいことに顔を顰める。ついでにポテトももらっておく。こっちは塩辛い。

(もらいっぱなしってのは、人としても、ヒーローとしても、駄目だろ)

 タダより高いもんはねぇとはよく言ったもんだ。
 その日の夜、出かけて疲れたんだろうを先に眠らせた俺は、親父に進捗を報告。こっそり撮った動画を送りつけ『意識は戻った』のを確認させ、電話を続けながら、日本のナンバーワンヒーローとして世界の関係者各位に書類の作成を依頼した。
 そのかいあって、が日本に滞在できる二ヶ月の間に、このマンションに住み続けられるだけの資金その他の確保ができた。
 はそのことにとても驚いていた。高級マンションの35階のフロアを買い取るだけの資金が世界中から『寄付』の形として集まったことにも、ハピネスの状態を知った世界中から『もらった幸運をお返しします』とたくさんのものが送られてきたことにも。
 どっさりとした段ボールの山を前に、ぺたんと座り込んで肩を震わせるに、「全部お前がしてきたことだ。やっと今返ってきたんだ。それだけのことだよ」と言って小さな肩を抱き寄せた。

『元気になって』
『幸せになって』

 小さな子供の字がぎゅうぎゅうと詰まった寄せ書きを手に、俺より大人だけど、俺よりずっと孤独に生きてきた人は、子供みたいにみっともなく泣いた。
 ……誰かを幸せにする個性を持ったから。その個性が示すままに人を幸せにしてきた。この人はきっとそういう人生を送って来た。
 見返りも求めず。ただ相手の幸福を願って。きれいな心で、少し淋しい笑顔で、それでも人を幸せにしてきた。
 だから、いい加減、あんた自身が幸せになっていいんじゃないかと俺は思う。

「顔上げてくれ」
「…やだ。ぐちゃぐちゃしてるから」
「じゃあ勝手に向かせる」

 両頬を挟んで上げさせた顔は確かに涙と洟でぐちゃぐちゃだった。子供みてぇ。
 ぺろ、と唇を舐めたらぎょっと目を見開かれた。そのままちゅっちゅとキスをするとわなわなと震えて俺の手から逃げやがった。「な、な、なにす、」「キス」「な、なんで」「なんで……してぇから」パーカーのポケットに手を突っ込んで、用意しておいた小箱を取り出す。
 涙と洟でぐちゃぐちゃの顔をしてる相手に小箱を放り投げると、ぼて、と胸に当たったそれを開けた相手が変な声を上げて箱を放り投げた。おい、投げんな。いくらしたと思ってんだ。「な、な、なにこれ」「指輪」「はぁ? なんで」「なんで……いるだろ、指輪」俺はとっくに左手の薬指につけているシンプルなシルバーの指輪をかざすと、はぶるぶる震えながら小箱を引き寄せた。「な、」「なんで、って? そればっかだな、今日のお前」立ち上がって近づいた分だけ後ずさりしていくがちょっと面白い。こういうの慣れてないんだな。まぁ、俺もだけど。
 俺も余裕ないんだ。今自分がどんな顔してるのかわかんねぇくらい。
 どん、と壁にぶつかったが逃げないように両側に手をついて顔を寄せる。

「幸せになろう。俺と」
「は……?」
「お前が幸せになれるならどこだっていいって、最初は思ってたけど。この二ヶ月で気持ちが変わった。
 お前が幸せになるとしたら、俺のそばがいい。俺はお前のそばで、幸せになるお前が見たい」

 ぽかんとした顔で俺を見上げている顔にまた涙が伝った。
 つまり、何が言いたいかって。『俺』がお前を幸せにしたいんだ。
 いつかに、孤独だった俺にオールマイトの人形をくれた、ナイショだよ、と笑ったお前がくれた幸せを、お前は『たったそれだけのことだ』と笑うかもしれない。
 それでも、あのときの俺には確かに幸福だったんだ。それしかない、かけがえのない宝物だったんだ。
 色褪せ、しまい込んで、忘れ去ったくせに、今頃になって思い出してずりぃと思うけど。

「俺と、結婚してください」

 絶対に幸せにしてみせると誓うから。