爪も牙もなく、道具を使わなければ動物の中でも最弱であったろう人類に突如として『金の赤子』が誕生した。
 のちに『個性』と言われるものを持つ、一番初めの人間だ。
 歴史の教科書にも記されているその赤ん坊の誕生をきっかけに、人類は『個性』と呼ばれる能力を獲得していくことになる。
 現在の人口に換算すると、個性を持つ人間は、約八割。つまり、十人いたら八人が何かしらの個性を持っている。この間世界の総人口がついに八十億になったそうだから、つまり、六十億人が個性持ち。そういう時代になった。

「あった」

 ゴォ、と冷たい風が吹きつけてくる洞穴をようやく見つけて、川の跡を辿って二時間登山をして滲んだ汗を拭う。
 人が水源を貪りすぎたせいで枯れてしまった、かつては水で溢れていた場所。
 普通の人の目には見えないけど、黒い泥のようなものが流れ始めている。…もう時間がない。
 ぽっかりと暗い口を開けているそこに足を踏み入れ、するりと首に巻き付いてきた龍の体を撫で、暗闇の中に目を凝らす。
 そういう体だ。一片の光も届かないような洞穴内でも、中は見える。
 そこら中からこちらを見る、目。いや。意識。いや……もっと曖昧な、だけどはっきりとした敵意、殺意、を感じる。

『まだ前回の傷が癒えていない』
「大丈夫。それより、ココは時間がない。溢れる前に鎮める」

 カタカタと足元の小石が揺れてバシッと頬にぶつかった。出て行け、と言われているようだった。どの面を下げてここに来たのかと、そう言われているようにも感じる。
 まったくもってその通りで、僕には言い訳の余地はない。
 人間が、水だ水だとこの洞穴を掘った。奥まで掘った。水を求めてただ掘り進めた。その先に何があるのかなど考えなかった。
 ここは龍穴の一つで、細いながらも龍脈に繋がっている。
 大地の力が流れる場所。只人が触れてはならない場所を何も知らない人間が触れ、吹き飛び、この場所は血で穢れた。それだけならまだしも、懲りずに水を求めて穴を掘った。それで何人もが死んだ。何人もが原因不明の死を迎えて、ようやくこの場所から人は去った。
 去ったといえば聞こえはいいけど、要するに、棄てたのだ。自分たちで求めて掘り進め、汚した場所を、都合が悪くなったから忘れ去ることにしたのだ。
 物量を持ってのしかかってくるような冷たい空気の重みに耐えながら、水の欠片もない場所で、奥へ、奥へ、歩みを進める。
 冷たい風は痛く、次第に肌を裂くようになる。それでも足は止めない。『』「大丈夫」ガッ、と頭に岩が当たったけどそれも無視する。これくらい痛くない。今までの痛みを思えば。この場所の痛みを思えば。このくらいは痛くない。

(痛い思いをした。辛い思いをした。怒りを覚えた。それなのに忘れ去られた、悲しき場所よ)

「in principio erat Verbum, et Verbum erat apud Deum, et Deus erat Verbum.」

 色々試して僕にはこれがしっくりきた、ラテン語の言葉を口にする。
 細く開いて駄々洩れるままになっている龍脈への道を手のひらで塞ぎ、肌が引き裂かれて血が飛び散るのを感じながら、目を閉じて、祈りを繰り返し口にする。

(初めに御言葉ありき。御言葉は神とともにあった。御言葉は神であった)

 ブツブツと祈りの言葉を唱え続ける僕の頭にガンッと岩がぶつかってくる。まぁまぁ痛い。口を血が伝って不快だ。祈りが口にしづらいじゃないか。

「in principio erat Verbum, et Verbum erat apud Deum, et Deus erat Verbum.」

(ここは神へ続く道。ここは穢してはならぬ道。ここは立ち行ってはならぬ道)

 ありがたい水源として、感謝しながら水を汲むだけなら、こうはならなかった。
 欲が人を駆り立てた。もっと水を。もっと水を。そうしてここは人にとって毒を吐く場所へと変わった。
 ガッ、と首を掴まれる感覚に目を開けると、目の前に黒くてゆらゆらとしたものが在った。
 掴まれた首を通して流れ込んでくる様々な感情の洪水。
 一番に感じるのは、感謝もせずにこの場所を放棄されたことへの怒り。

「謹んで、お受けいたします」

 人間が買った怒り。人間が怒らせた、怒らせるべきではない存在。
 鎮めるには、同じ人間が、贄として必要だ。
 その怒りは正当なもの。
 その矛先も、正当なもの。
 三日後。無事に穢れていた龍穴は浄化され、淀んで溜まっていた穢れもなんとか払えた。
 然るべき手順を踏んで龍脈には蓋をし、流れ出ていたエネルギーは循環の道に戻った。

(あとここですべき仕事は、この場所に人が立ち入らないようにすること。かな)

 ずる、ずる、と片足を引きずりながらなんとか洞穴から出ると、あたたかい陽射しに出迎えられた。「……、」その眩しさとあたたかさに、長いこと冷たい感情と冷たい空気に晒されていた体から力が抜けてその場に座り込む。
 しゅる、と首に巻き付いてくる龍が言う。『もういい。しばし休め。私が守ろう』「………あり、がと」ぐら、と傾いだ体を大きくなった龍がとぐろを巻くようにして包み込む。
 ………僕がしているこれは、いわゆる、人身御供、というやつだ。
 人柱を作り、人間に侵され穢され怒っているモノを鎮める。
 たとえばお坊さんが似たようなことを霊魂たちにしているけど、僕の場合、それを大地やこの星相手にやっているようなものだ。
 この役割は僕だけじゃなく、世界中に散らばっている人身御供が務めを果たしている。
 仙薬と呼ばれる秘伝の薬を飲み、それに適応した者のみが与えられる、苦痛に満ちた人生。
 人が、後先考えず、身勝手をした結果のしわ寄せ。
 そうだな、たとえるなら地震のようなものかな。あれも、プレートにエネルギーがゆっくり溜まっていって、それが放出される弾みで起こる。簡単に言うと僕は、その『放出』が起こってしまう前にその場所を突き止め、この身を持って鎮める。そういうことを、もう何年も繰り返している。
 顔も知らない、常識のなってない、目先の欲に目がくらんだ、あるいは無知だった。そんな人間がしでかした尻ぬぐいをしているわけだ。
 そんな人生、誰だって歩みたくはないだろう。
 だけどしないとならない。そうしないと、人口の八割が死に絶える未来が待っている。
 この大地は。この星は。人間という生き物を憎み始めている。

「この世界は、おこってる」
『…なんだ。眠れと言ったろう』
「おこっていて。だから。人間には、はやい、ちからを。個性を。与えて。それで、同士討ちを、させようとした」
『……今頃どうした。そんな話』
「いや。かくにん。ぼくが、これだけズタボロになってるのは、人間が、全滅するシナリオを、さけるため」
『そうだな。お前はよく頑張っている。他の人身御供の中でも抜きんでて努力している。私はお前が誇らしい』
「……ありがと」

 この星の一部。というと色々説明が難しいから、僕の個性、ということになっている龍は、長い髭でちょいちょいと僕の頭を撫でた。
 僕の人生はこれからもこうして続いていく。どこかでこの命が尽きるまで、この大地に、この星に、人間の所業に許しを請いながら、旅をする。塞ぐべき場所を塞ぎ、触れるべき場所に触れ、受けるべきお叱りに身を焼かれる。
 そんな人生を。これからも。ずっと。
 白い鱗に目元を擦りつける。
 …人間ではあるけれど。僕に罪はないだろう。
 ただ、生まれた場所がそういう家で。そういう使命を背負っていて。迫っている人間の絶滅にひっそりと抗う、正しい所業をしている場所だった。その圧倒的な正しさを前に、そんな痛いことしたくないなんて弱音を言うことができなかった。ただ、それだけだ。

(いたい。いたい。いたい)

 折られた腕。折られた足。破裂した内臓。陥没した頭の一部。欠けた歯。
 すべてがいずれ元通りになる。それが仙薬という薬の力で、『役目を全うするまで決してお前を死なせない』という呪いのような力がある。
 一時的な痛みだ。わかってる。耐えていればいずれなくなる。わかってる。
 それでも痛いものは痛くて、白い鱗を伝う透明な雫をただ眺めて、眠ろうと目を閉じた。
 寝て、起きたら、きっともう元通りだから。