あれから何日が経過したのかは、よく覚えていない。
 ただ、ようやく潰れてひしゃげていた体が人間らしいものに戻った。だから、ぜぇ、と荒い息を吐き出しながら這いずってでも動いて、辿り着いた川に顔を突っ込む。
 ようやく元に戻った顔でごくごくと川の水を飲んで、血を流しすぎて立ち上がることすらできない体に必要な水分を補給していく。
 僕の体は特殊だ。基本、何も食べなくていいし、飲まなくていい。
 ただ。今回のように。体の損傷が激しかった場合。回復のためにエネルギーとなるものが必要になることもある。
 たとえば、流しすぎた血。大雑把に言えば水分。これは水を飲めば問題なくなる。
 ぷは、と息を吐いて顔を上げ、ぱたぱたと水を滴らせながら川面に揺らめく自分の顔を眺める。
 酷い顔色。とまでは言わないけど。なかなか、絶望的な表情だなぁ。
 今回はとくに痛かったからな。それでも犠牲者を出してしまったし、僕は、あの場所を見つけるのが遅すぎた。

(間に合わなかった)

 仙薬を飲んで、人をやめてまで人身御供となったのに。お役目失格だ。
 確かに、今回は辿るのが難しい地下という空間だった。下水道に潜り込んだとしてもきっと辿り着くことは難しかったろう。だけどそれは言い訳にしかならない。鎮めるのが、僕の役目なのだから。
 たとえばなるべく近くから三日三晩祈りを捧げ続けるだけでも、何かの慰めにはなったかもしれない。たとえ崩落という結果を防げなかったとしても、上にいた人間が避難する時間を作れたかもしれない。
 僕は、今回、間に合わなかったのだ。

(一体。何人。死んだのだろう)

 自分の非力さに川面で蹲っていると、ふわ、と隣に気配が降り立った。『食べられる果実ときのこがあった』、と呼ばれてのろりと顔を上げ、山のどこかにあったものを集めてきてくれた白い龍から、震える手で小さなりんごみたいなものをつまむ。「あり、がと」なんとか喋ることもできる。あとはゆっくり、食べて、飲んで、眠って。繰り返せば、また元通りになるだろう。
 僕は白い龍の顔色を窺った。……とくに、怒っているとか、嘆いているとか、そんなふうには見えなかった。いつも通りだ。『?』首を捻った龍になんでもないと笑って、川でよく洗った果実の酸っぱいこと顔をきゅっと顰めながらも頑張って咀嚼し、飲み込んでいく。
 酸っぱいりんごみたいなものを種とへた以外全部食べて、きのこの方もよく洗ってから苦いなーと思いながら噛んでいると、ぽつりとした小さな声で、『アレはお前のせいではない』と言う声。
 顔を向ければ、白い龍が川面の上の方を見ていた。…そこにまだいるのだ。あの地下の空洞で地上を支え続けてきた存在が、まだ、いる。
 紙という記録媒体しかなかった頃に、人の手によって採掘され、掘り進められた結果、地面の中にできた空洞。
 なんのために掘られたのかは知らないけれど。時間の経過とともに紙という記録が紛失し、口伝で伝わっていた話もどこかで途切れ。その存在自体を忘れられた地下の世界で、善意から、誰にも知られることなく、ビルや家々、そこに住む人々。重なり続ける地上の重量を支え続けていたモノ。

「お怒りでしたら。謹んで、お受けいたします」

 きのこを脇に置いて河原の砂利に手をつき頭を下げた僕に、鉄槌は、降ってこなかった。
 いくら待っても最初のときのような容赦のない暴力はなかった。だから、恐る恐る顔を上げてみる。
 茶色い、砂のような。泥のような。そんなゆらゆらとしたものにはかろうじて顔と呼べる部分があって、その目にあたる部分がこちらを哀れむように細められていた。
 そうして、スゥ、と風に流されるようにして、あの地下を支え続けていた力は消えてしまった。

「……気が、すんだ。のかな」
『ああ』
「そっか」

 そっか。僕と、あの場のものだけで満足して消えてくれたのか。
 僕にぶつけたあの冷たい怒りの嵐。もうやっていられるか、と支えることを放棄すること。それで満足してくれた。それ以上に暴れ回ることを、善意から生まれた意志はしなかった。……ありがたい話だ。
 善意で地上を支え続けていてくれたのに。それを記した紙の用紙がなくなり、口伝も途絶え、感謝の心を忘れられ、ずっと独りでいて。きっと辛かったろうに。寂しかったろうに。悲しかったろうに。これで満足してくれたのか。
 なら、僕も。これで満足しなくちゃ。
 まだそこかしこが痛いし、体の動きは鈍いけど。気持ちを切り替えよう。
 僕はこの星と大地のための人身御供。個性という絶滅装置によって人類が死に絶えるのを防ぐために密かに生きる存在。その使命を全うしよう。
 きのこを口に突っ込んでもちゃもちゃ食べて、川の水を飲んで、花の蜜を吸う。
 のんびりと休んでいる時間はない。
 今回のようなことはもうごめんだ。こうなる前に止めなくては、僕という存在の意味がない。
 花の蜜を吸いながら、取り出した地図で現在地を確認する。「今はココ……」感覚的に見て、次に行くべきは。山。か。ならこのまま山中を歩いて行けば……。

『できたぞ』
「、」

 声に顔を上げると、ばさ、と真新しい白い装束を器用に爪で摘んで掲げる龍がいた。なんだか得意げな顔をしている。『最速記録だ』ああ、そういう。
 人身御供である僕が着ている衣装は、無垢な捧げものの象徴。
 これは汚れていない、あなた色に染めていい、汚していいものです。そう伝えるための伝統的な衣装だ。しかも仙薬に適応し生まれた星の意思、というと色々複雑になるから、仙薬によって生まれた個性が作ってくれたものでないと意味がない。
 まぁ。つまり。死に装束だ。
 血で汚し、あちこちが破れて切れてボロ布みたいになっている装束を脱いで、真新しい衣装に袖を通す。『これは処分するぞ』「うん」白い龍がぼっと炎を吐けば、布地はあっという間に燃えて消えた。
 僕が苦しみ、悶え、痛みを受けた。その痕跡もすべて燃えて消えた。そういうことにする。
 地図をたたんでポケットにしまい、よいしょ、と立ち上がって、ゆっくり全身を動かす練習をする。そんな僕を龍が見ている。

『痛むか』
「少しね」
『次はこのまま山を行く。そうだろう』
「うん」
『最終的な目的地は、わかっているのか』
「……うん」

 ここからだと見えないけど。「富士山、だろう?」かさりと音を立てて枯れ葉が落ちてきて頭に乗っかった。それから伝わってくる少しの揺れ。震度一くらいの。
 今まで、それとなく、山の周囲を巡るような形で浄化をしていたことには気付いていたよ。だから、最終的には真ん中へ行くことになるんだろうってことも。
 白い龍は、険しい目元で、富士があるのだろう方角を睨んでいるようだった。『奴が最後に暴れたのは三百年と少し前だ。そのさいには富士も噴火し、甚大な被害をもたらしたという』「うん。宝永大噴火。噴火は二週間続いて、火山灰で農作物に多大な影響が出た」『そうだ。しかし、人的被害はそこまでではなかったという』「………うん」屈伸していたところから体を起こし、両腕を伸ばして伸びをする。
 それが、なぜか。人身御供の身でわからないはずがない。
 誰かが贄になったのだ。その怒りを鎮めるために、山のふもとにある人里を守るために、誰かが、あるいは何人もが、その怒りを鎮めるために富士へと赴き。そして。

(そして)

 息を吸って、吐いて。自分の最終目的地となるだろう場所のことを思いながら一歩目を踏み出して川を越えたところで「待て!」と聞き覚えのある声がかかった。
 振り返れば、紅白の縁起のいい髪色をした男が一人、息を切らせて立っていた。『貴様』横で牙を見せて唸る白い龍に手を伸ばして鼻先を押さえる。今にも飛び掛からん勢いだ。珍しい。あまり他の人間に感情を見せないのが龍なのに。

「僕に、何か」
「なんで生きてる」
「……? ああ」

 聞き覚えのある声だと思ったら。そうか。
 あのとき。誰かに声をかけられたんだっけ。それで逃げるように路地裏に。じゃあこの人は、あのときの人か。
 ……あのときの僕、顔がなかったし、体だって酷いことになっていたはずだけど。それで、そばにいた龍が警告だってしたはず。それでもこの人は僕を捜して追ってきた。そういうことになる。
 グウウウと唸って体を大きくしていく龍の首筋に腕を回して押さえながら、「色々事情があって、生きてます。大丈夫です。ご心配なく」なんて言葉で引いてくれるなら、そもそもこの人は僕を追いかけてはこないだろう。納得してない顔で歩いてくるその人に龍が目を光らせると川面が高い壁のようにバシャアと立ち昇った。『ゆくぞ』大きな体のまま乗れと示すその背に乗って、
 バキン、という硬くて冷たい音を聞いた。
 振り返れば、龍が壁にした川の水がすべて凍って、その一部が崩れていた。はぁ、と白い息を吐いた相手が凍らせた川を踏み越えこちらへと歩いてくる。「話くらいさせろ」…そういう個性か。氷の。龍の力を止めるなんて、強い個性だ。
 牙を見せて唸る龍の角を撫でて宥めながら、どうしようかなぁ、と考える。
 何気にこのパターンは初めてだ。
 だいたいの人は、僕って子供が間違いなく死んだって体の壊れ方をしたのを見て、それで元通りになってる僕を見たら『化け物だ』って逃げるものだし。そうでなかったとしても、龍がいて威嚇されたらやっぱり逃げるものなんだけどなぁ。むしろ向かってくるとは。
 僕は考えた。考えて、このまま振り切ったところでどうせまた同じことが起きるのだろうと結論づけて、とん、と龍の背中を降りた。


「どうせ追ってくるよ。この人」
「ああ、追いかける」

 ほら、会話に入ってくるし。
 だいたい、あの場所からは遠いのに、どうやって僕を見つけたのかも謎だし。その執念深さ、本当、人間らしい。
 紅白色の縁起のいい髪をしている人を見上げて、こういうときはどういう顔をすればいいのかな、と思いながら、「とりあえず歩きます。場所を変えたいので」「ん」ついてくる気満々のその人と並んで山道を歩き出すと、大きいままは邪魔だと判断したのだろう、小さくなった龍が僕の首にしゅるっと巻き付いた。それでも相手への威嚇は忘れない。そんな龍が怖くはないらしく、紅白髪の人も負けじと龍を睨み返している。……嫌いなのかなぁ。僕が痛みで魘されてる間にそんなに何かあったんだろうか。

(でも、これは)

 僕にとっては、一人と一匹以外の、初めての、珍道中だ。