薄く目を開けると、ぼんやりとした視界の中に黒い空があった。それで、今が夜で、それで静かなんだな、ということをぼんやりと思った。
 バラバラ殺人事件なんてもんじゃない、みじん切り殺人事件にされてしまった僕の体は、ようやく形を成し始めたらしい。まだ四肢までは戻っていないようだけど、頭とか臓物の入る体本体はくっついて出来上がってきた、そんな感じ。だから意識が醒めた。
 当然だけど、これでもかとばかりに体をみじん切りにされたわけだから、痛い。
 目の端を伝って落ちた涙は勝手に出てくるものだ。悲しいわけでも辛いわけでもない。だってこれが、僕のお役目だから。
 ………目は覚めたけど。まだ体のどこにも力が入らない。
 血の臭いにつられて動物が集まってくるだろうけど、そこは白い龍が追い払ってくれるから大丈夫だ。問題は、近くに川辺のようなものがなくて、僕の体を回復させるための手段がないってことだろうか。

「お」

 それで、ひょい、と上から僕を覗き込んできたぼんやりとした人の顔を見て、正直言って驚いた。
 あの人だ。紅白のめでたい色の髪だから間違いない。僕の体がみじん切りにされるのを目の前で見せつけられたのに、まだ、そばにいる。みじん切りになった体がこうして再生を始めている、そんな化け物みたいな僕のそばにいる。
 なんで。
 どうして。
 それが正直な感想だった。
 だって今まで。傷ついた僕を庇ってくれたのは、仙薬から生まれた、僕と同じくお役目として生きる、白い龍だけだったのに。
 紅白髪の彼は顔を上げると「おい、目ぇ覚ましたぞ」とたぶん龍に向かって声を投げている。
 血で汚れることも厭わずゆっくり僕の体を自分に寄り掛からせた彼は、ペットボトルの水を掲げた。「血が足りねぇんだと水でいいって聞いた。とりあえず、飲めるか」「………、」掠れた息しか出ない。言いたいことは、色々、あるのに。
 水のボトルを口につけられて、こぼしながら、少しずつ中身を飲む。少しずつ、少しずつしか喉を通らない。そんな僕のことでもこの人は見守っている。
 もういい、という意味で口を閉じた僕に、ペットボトルを離した彼が取り出したのは、何か、袋のようなもの。「これなら食えねぇか。エネルギーゼリーなんだが。昼間クッキー食べたろ。あれのゼリー版だ」「………ぜ。り」ゼリー。そんなもの、食べたことがないから、わからない。
 パキ、とキャップを捻った彼が袋の細い口を僕の唇につける。「吸えるか」……とてもじゃないけど、吸い上げるような力は、今はない。
 無理だよ、という意味で目を閉じて何もせずにいると、唇に押しつけられていたものが離れた。今は食べれないってわかってくれたろうか。
 薄目を開けると、彼は少し袋を吸うと、口の中にボトルの水も含めた。
 何してるんだろう、とぼんやり見ていると、なんでか顔が近づいてくる。
 避けようにも僕は動けないし、されるがまま、口と口をくっつけて、唇を割って侵入してきた舌と生ぬるい水のようなものをごくりと飲み込む。
 それがさっきのゼリーと水が一緒くたになったものだ、と理解するのに数秒かかった。

「これなら食えそうか」
「……、す、こ。し。な。ら」
「ん。少しでいいから食え」

 それでまた彼がゼリーを吸って水を口に含んで、二つをよく混ぜ合わせたものを口移しで僕に与える。
 ………正直、この人は何をしているんだろう、と思った。
 だって見たはずだ。僕が穢れの怒りによって肉片になるところを。
 自分たちの知らない、及ばない世界があると知ったはずだ。それなのにどうして今ここにいて、なおかつ、僕の手助けをしようとしているのか。
 四肢のない僕なんて抱き上げたら、血で汚れるのに。全然気にしていないかのように僕のことを緩く抱いて、また口移しで水とゼリーをくれる。
 そんなこと、この十五年で一度だってされたことがなかった。
 みんな壊れた体の僕を見たら悲鳴を上げて逃げるか、見なかったことにするか、悪い奴は僕の体を利用しようとして龍に撃退されていた。
 そのどれかだったんだ。みんなそのどれかに当てはまっていた。
 彼だけだ。こんなふうにしてくれたのは。この十五年、人身御供としてやってきて、この人だけが、僕にこんなふうに優しくしてくれた。
 その現実にほろりと涙がこぼれて落ちた。
 優しく僕を支えて、僕を労わって。「俺にはこんくらいしかできねぇけど。お前は、偉いよ」と言うその人に、顔を、背けたくても、背けられない。そんな力さえない。涙を拭う手も今はない。ただ垂れ流すまま、掠れた呼吸を繰り返すだけ。
 痛くて、辛くて、苦しくて、悲しい旅。
 これはそういうものじゃない。
 これは贖罪の旅。人間が受けるべき罪と罰を背負って歩く旅。
 悪いのは人間だから。人間に生まれてしまった、僕だから。贖罪を背負うと決めた家系に生まれてしまった、僕だから。
 僕は運がなかったのだ。この世界に誕生した時点で、僕の命運は定められていた。何をどうやっても変わることはない。……そうだと思わないとやっていられなかった。

(本当のことを言うのなら、こんな痛いだけの旅、今すぐにでも投げ出したい)

 本当なら、逃げたい。こんなお役目、投げ捨ててしまいたい。
 近親相姦を繰り返して生まれた子供にしては、僕はまともな方で、頭のネジも飛んでなければ、途中でお役目を放棄して肉片から元に戻らないなんてこともなかった。体は小さかったけど、奇形でもなかったし、変な病気も抱えていない。
 だからみんなみたいにできなかった。兄や姉や弟や妹みたいになれなかった。逃げたり、狂ったり、壊れたり、できなかった。
 悪いのは、自然を、大地を、海を、星を、穢して、汚して、搾取して、怒らせた。人間だから。同じ人間が謝らなくちゃ。同じ人間がお叱りを受けなくちゃ。僕が。僕が………。

。まだ食うか」
「………ぁ。と。ひ。と。く、ち」
「ん」

 ぬるい温度のゼリーと水が混じったものを飲み下して、ふぅ、と息を吐く。
 この十五年、旅をしてきて。僕が見てきた人間にいい人はあまりいなかった。
 だから仕方がないことなんだと諦めていられた。
 みんな自分勝手で、自分のことで手いっぱい。人のことを、誰かのことを想って行動できるような人間はいないんだ。そうやって諦めることで僕は僕に言い聞かせていた。だからこの旅をする必要があるのだと。
 だけど。あなたのような優しい人がいると知ってしまったら。僕は。

「……な、ま、え」
「ん? 俺のか」

 そういえば、僕の名前はいつの間にか知られていたけど、僕はあなたの名前を知らない。
 その人は自分のことをヒーローをしている轟焦凍だと名乗った。
 ヒーロー、とは、ついこの間、個性を使って悪いことをするヴィランと全面戦争をして、辛くも勝利し、秩序を取り戻した。そういう人たちの総称だ。
 個性を正しく、人のためになるように使う、という理想を掲げる人たち。
 そうか。この人はヒーローなのか。だから見ず知らずの僕にも優しくてくれるのか。職業柄。ただ、それだけ。かぁ。
 なんだか少し安心して目を閉じる。
 そうだ。職業癖で僕を助けているだけの人なんだ。なんだ、そうか。よかった。
 ヒーローとヴィランの衝突だって、この星の意思だ。神様というやつが仕組んだ、人類の総数を減らすための一つの出来事に過ぎない。事実、それで世界中の人口が多少なりとも減少したと聞く。
 この間の、世界を震撼させたテロ事件だって、星の意思を受け取ったモノによる犯行だろう。寸前でヒーローに防がれたとはいえ、爆発していれば、人類の多くの個性持ちが死亡していた。
 ……ヒーローも。ヴィランも。まさか己が手足のように思っている個性がいつか無条件に自分を殺すモノになるだなんて、想像したことはないのだろうな。
 誰だって、自分たちの首に爆弾がくくりつけられているなんて、考えたくはないだろう。
 だから僕は口を噤んで、僕を介抱したいんだろうヒーローである彼のやりたいようにさせる。

(きっとまた、三日もすれば元に戻る)

 そうしたら、今度こそ、御山に向かって登山を開始しなくては。
 この山に溜まりに溜まった穢れが災害として放出される前に、今度こそ、人身御供である僕が、鎮めてみせる。