神が与えた代物から生まれた使者は考えていた。
 神の奴隷となる薬を飲み、神に言われるがままに苦行の旅を続けるひたむきな少年と、その少年をかいがいしく世話する青年を眺めながら考えていた。
 長く続いた少年の苦行の旅の終着点はもうすぐである。
 そこで、三百年、積もりに積もった穢れを払うことで、少年は役目を終える。
 否、終えざるを得ないほどに、その小さな体を見るも無残な残骸へと変えられる。何度も。何度でも。ソレが人間であったことさえわからないほどの変形を何度も遂げるだろう。そうしてついに少年は崩壊するだろう。
 神の薬の力は尽きることはないが、人間の精神など脆いものだ。終わらない苦痛がついぞ狂気を産み落として少年を支配し内側から崩壊する。そうして多くの人身御供が壊れていったように。
 そうして最後はその身を御山の熱く煮え滾る焔の中へと放り込まれ、跡形もなく、この世から消滅するのだ。
 ………よくぞこの十五年を耐え抜いたと、今、龍は少年に感心すらしている。
 つい先刻をもって、他の人身御供はすべて駄目になった。
 少年には兄も姉も妹も弟もおり、神の薬に適応した者が教育を受けて贖罪の旅へと出たが、まともに勤めを果たせたのは数人。気が狂い、肉体が壊れたまま戻らなくなり、精神が崩壊し、自我が崩れ……そうやって一人、また一人と数を減らしていった人身御供は、今や目の前の少年のみとなってしまった。
 龍は考える。この事実を少年に伝えるか否かを。
 ここまでひたむきに星へと祈り、自らを捧げ、人が撒いた穢れを払い、家の意向に、人類の滅亡を防ぐために死に続けてきた少年のことを考える。
 あの家にはまだこの所業を始めた者はいる。相も変わらず星へと、神へと、自然へと、一人祈り続けている。
 妻だった女が自らの所業…我が子と交わっては産み落とし、仙薬に適応した子には教育を、そうでないものには近親相姦を強いる、そんなことを繰り返させた結果その精神が崩壊したことにも気付かず。
 仙薬に適応しなかった子供が一人、また一人として体を保てなくなり、肉塊の群れとして蠢いていることも知らず、ただ一人、盲目に祈り続けている。
 その祈りの周囲は自身が撒いた種で穢れ始めているとも知らず、意味のない祈りを続けている。
 肉塊に取り囲まれ。妻だった者に包丁で背中を刺され、それでも祈り続けている。それは最早狂気に近い。そんな状態の祈りで慰められるモノなどいるはずもない。あの祈りはもう役には立たない。慰みにはならない。
 龍は思考する。少年の世話をする青年を睨みつけるようにしながら思考する。
 この広い星でただ一人の人身御供となってしまった少年の祈りとその身一つでは、最早、星にとっての慰みにはなるまい。
 ましてや、三百年積もり続けた穢れを払うこともできるかどうか。
 血の臭いを嗅ぎつけてやってきた獣の気配にギロリと一睨みすれば、それは委縮してさっさと逃げ出した。

『貴様』
「轟焦凍だ。なんだ」
『何故、肩入れする』
「…?」

 何を言われているのかわからないと首を捻る紅白髪の青年を見て、龍は考えている。一つの可能性について頭を巡らせている。
 白き子供から生まれた白き龍は、少年が生きる道を模索していた。それが自らに与えられた役目に反することを自覚していながら。

『ヒーローだからか。ヒーローであれば、誰であれ助ける、と』

 少年の四肢がぐずぐずとではあるが形を取り始めている。それを見ても顔色を変えない、いや、むしろ心配だとでもいうように眉尻を下げてその様子を見ている青年はこう答える。「ヒーローだからってそこまでお人好しじゃねぇよ。俺も人間だからな。物事に優先順位くらいつけるし、贔屓だってする」だからこれは、とこぼした青年の手が血に汚れた少年の顔を濡らしたタオルで拭う。「贔屓、なんだろうな」しかし、その重要な言葉は、少年には聞こえていない。彼は今眠っている。肉体の再生を優先して他の生命活動を最低限のレベルまで落として体を治しているのだ。
 皮肉なことだ、と龍は思う。
 今ここに、ヒーローとしてではなく、一人の人間としてお前のことを案じている者がいるというのに。お前はその事実を知らぬまま眠っているのだ。

『警告しよう。ヒーローよ』
「……なんだ」
『近く、地震が起きる。富士が噴火する前触れ、大きなものだ』
「は?」

 これには顔を跳ね上げた相手だが、何かを考えるように眉間に皺を寄せて少年のことを見下ろした。悟ったのだ。少年がここにいる理由と、これからどうなるのかを。

『ヒーローらしく仕事に戻れ。市民の避難をさせよ。いつ噴火してもおかしくないと、富士が噴火した際の被害想定くらいは計算されているだろう』
「それは、」

 ぐっと唇を噛んだ青年の頭は悪くはない。この男は馬鹿ではない。なればこそわかっているはずだ。今己がすべきことがなんなのかを。
 たった一人の少年が祈りと命を捧げれば、噴火の規模は抑えられる。たった一人ではそれが限度だが、何もしないよりは、人類にとっての損害は少なくてすむだろう。
 そして、青年はそれを職業としている。人を救うヒーローなのだ。
 人身御供という真に人間を救っている存在を知っている龍からすれば鼻で笑ってしまいたくなるような存在だが、少年はきっと、頼むはずだ。人間の犠牲がなるべく出ないようにそうしてほしい、と。避難を促し、地震と噴火に備えてほしい、と。
 龍の言葉を汲むようにカサリカサリと地面で重なり積もっている葉が揺れた。ほんの少し地面が揺れ動いているのだ。
 青年は、ようやく四肢が戻り、裸同然の少年に己が着ていたコートを着せた。そうして左手から炎を射出して夜空に飛び出すと、「必ず戻るッ!」と言い置き、人里の方へと去って行った。
 残された少年を囲うようにとぐろを巻いた白き龍は考える。
 少年は役目を果たすため、目覚めたら山を登るだろう。青年が置いて行った食糧で体を回復させながら、必死に山頂を目指すだろう。
 装束を作るから待て、まだじっとしていろ、と時間を稼ぐのにも限界がある。

『なぁ』

 今は意識のない少年に、独り言として、龍は語り掛ける。『この旅は苦痛に満ちていただろう』『お前はよくやったと私は思っている』『だから』ゴッ、と大きく地面が揺れる。龍の言葉に抗議するように。
 バサバサと鳥が飛び立つ音を聞きながら、白き龍は目を閉ざす。
 龍は、仙薬の化身である。
 即ち、龍は仙薬である。

(お前を解放するときがきた)

 贖罪の旅を始めて十五年。
 神の意志に従うだけだった龍に、使役されるモノでしかなかった龍に、自我が芽生えるには、充分な時間であった。
 龍は、ひたむきに己を犠牲にする少年に心を痛めていた。
 龍は、肉片になる少年を見る度に密かに奥歯を噛みしめていた。
 だから、龍は、考えていた。
 もしも。信頼できる人間が現れ、その人間が心から少年のことを救いたいと願うのであれば。その者に少年を任せ、人身御供の地獄から、この少年を解放しよう、と。
 そして、その者は現れた。紅白の縁起のいい髪を持つ青年が。
 アカは、赤ん坊。生まれた者を示し。シロは死や別れを意味し。この二つを組み合わせたものが『人生』というハレの舞台である。
 ………ならば。龍のすべきことは、決まっていた。
 あの青年が少年を人生という舞台へ引き上げるというならば。人間が当たり前に行っていることを、その権利を、あの子にも約束すると言うのであれば。あの子の知らない『幸せ』を、苦痛以外のものを、あの子に与えてくれるというのであれば。

(私は)

 龍は思考する。己を蝕む使命という鎖に抗うように、必死に思考する。

(私は、お前に、笑ってほしい。幸せになってほしい)

 それは己がいては叶わぬ願い。
 それは人身御供であっては叶わぬ願い。
 あの子がとうの昔に諦めた、その願いを。叶えようと、龍は、必死に、思考する。