あの夜、山を飛び立ってから数日。
 富士を中心にした火山性地震が頻発したこと、黒い噴煙が確認されたことにより、全国のヒーローを総動員しての『富士噴火に備えた避難作戦』が開始された。
 大規模な噴火で溶岩が流れ出した場合に到達されると推計される市町村への避難指示は、三県七市五町。住民の数は約八十万人。
 大量の火山灰は上空に噴き上げられ、風に流され広がり、噴火から数時間後には日本の首都である東京に到達。湿った火山灰は電気を通すから、送電線なんかに付着すれば停電の原因になる。
 そうなれば、日本の機能の麻痺は免れない。
 火山噴火物の流れを抑える『減勢工』、泥流等を安全な地域に導く『導流堤』、大きな岩石の流下を防ぐ『遊砂地』、流出物を安全に流下させる『流路工』など、できる対策は今大急ぎで取り組まれてる最中だ。
 目下問題なのは火山灰だ。
 通信網や電気系統を駄目にするこれをどう抑えるか、さっきから専門家が対策を打ち出してるが、これってもんがない。風向きをコントロールするだとか言ってるが、何日も続くだろう降灰を風を扱えるヒーロー数人で制御しようってのはなかなか無理がある話だ。水を扱えるヒーローも混ぜて雨として落としてしまおうとか、空間を一時的に制御できるヒーローに囲ってもらおうだとか、ああだこうだと案は出ているが、結局のところ話はまとまっていない。

「落ち着いて、順番にバスへ! 皆さんが避難できるだけの用意がありますから!」

 緑谷が声を上げながらヘルメットや非常食などが入った避難グッズのリュックサックを配って飛び回っている中、ゴッ、と大きく揺れた地面に、周囲で悲鳴が上がった。
 地震の頻度は上がっている。今日だけで三回目だ。

(くそ)

 目に付く市民に避難グッズを押しつけるように配っていたヒーローショートは、ヒーローだ。人を助けるのがヒーローの仕事だ。
 けど。今の俺には、助けたい、たった一人の人間がいる。
 ヒーローよりもよっぽどヒーローらしく人々を助け、陰ながら支えてきた、痛みと共にしか生きて来られなかった奴を知っている。
 俺はあいつを助けたい。
 黙って涙を流すか無表情でいるか、穢れに対して純朴に笑いかけて己を差し出すか。そのどれかしか知らないあの顔に、普通に笑うってことを教えてやりたい。
 かつての同級生がヒーロースーツで忙しなく動き回る中、俺は避難グッズを投げ捨て、スーツのチャックに手をかけてジャッと引き下げた。そのまま脱いで落とす。「ショートくん!? 何をしているんだっ」駆け寄って来る飯田に「わりぃ。あとは頼んだ」と言いながらブーツを放ってズボンも脱ぎ散らかす。最初からそのつもりでもう一枚穿いてきたし着てきた。
 この数日徹夜したかいあって、住人の九割は安全地域まで避難を完了してる。あとは任せてもいいだろ。

「大事な奴がいるんだ。あそこに」

 いつ噴火してもおかしくない、そんな山に、白い子供はいる。
 きっと今も祈っている。この災害をなんとかしようと祈り続け、そして、苦しんでいる。
 俺はヒーローだ。
 だけど、人間でもあるんだ。
 伝えるべきことは伝えたし、手伝えることはやった。わりぃけど、あとは俺の好きなようにさせてもらう。
 左を使って上空に舞い上がり、とにかく富士山に向かって飛ぶ。全力で。出し惜しみなしで。今俺が出せるすべての炎を最大限に使って飛ぶ。
 富士の山頂までの距離は果てしなく長く感じたし、だが、あっという間のような気もした。
 ガス欠になりながら、もう雪を被っている地面の上を転がるようにして着地を決め、「!」と叫んだ。
 登山シーズンはとっくに終わっているから、ここは立ち入りを禁止するだけですんだ。見る限り人の姿はない。
 寒さに閉ざされた薄い空気に白い息を吐きながら、一歩目を踏み出す。靴下に雪が冷てぇ。ブーツは履いてくるべきだった。
 視界が白い。雪と、雲で。白いあいつのことが見つけられない。
 くそ、と歯噛みしながらざくりと雪を踏みつけて、その感触に違和感を憶えた。「……、」足元の白にじわりと滲んだ赤に、震える手を伸ばして雪をかき分ける。
 かじかむ指先に触れたのは、ヒュウ、ヒュウ、と掠れた呼吸を繰り返す死人の顔だった。「、」慌てて左の炎を灯して周囲の雪を溶かして小さな体を抱き起こすと、げぼ、と血を吐かれた。
 これは動かさない方がいいやつか。何をされた。誰に、何を。

『あーあー。かわいそうに。肺にちーさな穴がたくさん開いてる状態だから、息してるだけでもつれーのに。動かしたらそーとー苦しいぞ』

 降って来た声に頭上を見上げれば、赤い龍がいた。
 一目見て、それが穢れで、あのとき見た斧の比じゃないくらいの負の感情の塊だと理解した。
 空気が、重い。重力が増して体が地面に縫い留められているようにすら感じる。
 赤い爪が指すのは白い装束を真っ赤に染めただ。何がおかしいのかケタケタと笑っている。
 ……俺にも見えているのは。それだけこれが、大きな、災厄、ということだからか。
 確かに、あの斧のときとは全然違う。その存在から目を離せない。動ける気がしない。動こうという気持ちが起こらない。のことを左側であたためるだけで手いっぱいだ。下手をしたら意識すらもっていかれる気がする。
 赤い龍はおどけるように短い腕を広げ、機嫌がよさそうに長い尾を揺らす。

『哀れなヒトミゴクウ様! 近親相姦で祈り手を増産したってのに、今じゃ世界でたった一人きり! それでもここでオレの気がすむようにしろって祈ってる! ああ、哀れだなぁ! たった一人の祈りでできることなんて知れてるってのになぁ!』

 赤い龍がずいっとその鼻先を近づけてきて、硫黄のような息を吐く。『お前が壊れるまでは噴火を止めてやる。約束だ。オレは寛大だからな。だから早く、』壊れろ、という言葉一つで、それまで抱いていたが内側から破裂するようにバラバラに飛び散った。
 さっきまで確かに抱いていたはずの温度がなくなって、血と肉に分解されたが地面の上に散らばる。
 ケタケタと笑う声はうるさい。『まだ生きてるぜ! まだやる気だぜこいつ! 健気なこって!』肉が蠢き、顔の部分を中心にしてくっつき合い、その口が開いて、言葉にするのは、祈り。「in principio erat Verbum, et Verbum erat apud Deum, et Deus erat Verbum.」俺には何を言ってるのかわからないが、は必死に祈っている。役目を果たそうとしている。下で避難を続けている人間のために、諦めずに頑張っている。
 血を流す赤い目からは、死んでもいいという意思。いや。諦めすら感じられた。
 俺は、それが、嫌だった。
 俺はお前に死んでほしくない。もう死んでほしくない。
 笑ってほしい。
 生きて、ほしい。

「もう、いい」

 どうにか動いた唇で、頭だけのを腕に抱く。
 俺の口で祈りの口上を塞ぐ。それでも喋ろうとする、血の味がする舌を自分の舌で絡めとる。
 これ以上お前が傷つくのを見たくない。
 これは俺のエゴだ。人間らしいわがままだ。

(生きてほしい)

 生まれた人間の多くがそうして当たり前の生を享受するように。笑うように。怒るように。泣くように。お前にもそんな当たり前のことを知ってほしいし、してほしい。
 周囲でハァと硫黄の臭さが漂う。『祈らねぇのか。ならドカンと一発イっちまうが、いいな?』中途半端に再生された血まみれのの手が俺の顔を叩く。離せ、と。祈らせろ、と。
 絶対にさせてやるものかとの頭を抱いたままでいると、しゅるりと体を何かにすくわれた。
 視線だけ投げれば白い龍が、赤い龍を睨みつけるようにして、そこにいた。『あ? ンだよ。お前仕事しろよ。人身御供のお供だろうが。邪魔だろ、その人間』赤い龍が長い尾でドンと地面を叩く、その振動が地震となって周囲に広がっていく。

『轟焦凍』
「ん」

 が喋れないよう口に指を突っ込んで舌をつまみながら応じると、『を頼む』そうしてポイと空中に放り出された。「な、」反射的に体が動いて左を使って飛んだ、俺の抱えているの首に、肉片が戻って来る。これまでだったらゆっくりとしか再生しなかった体が急速に元に戻っていく。そのことに本人も驚いているようだった。

「しろ、」
『その名で呼ぶなと言ったはずだが。犬ではないのだぞ』
「しろ。まって。ぼくが、やる、から。まだ、やれる、から」

 震えている小さな手を握って引き戻す。
 赤い巨大な龍の前に対峙する白い龍は小さく見えた。『役目の放棄』『ああ』『そうかぁ。面白いなぁ。十五年付き添って、感情移入しちまったのか。神の使いもしめぇだな』ドン、と赤い尾が地面を叩くとそこがひび割れ、ごぼ、と赤い溶岩が溢れ出した。

『祓え給い、清め給え、神ながら守り給い、幸え給え』

 手を伸ばして龍のことを「しろ」と呼ぶの胸から、メリ、と音を立てて何かが離れた。種のようなものだった。それが白い龍の口に吸い込まれて消えると同時に、かくん、と意識を失った小さな体を抱き直す。
 龍同士の争いに、一人間ができることは何もなかった。
 行け、と白い尾を振られ、逃げるようにその場を離れて飛ぶ。
 から離れた種を食って一回りデカくなった白い龍と、巨大な赤い龍が、もつれあい、絡み合い、互いを引き裂きながら、引きちぎりながら、溶岩が溢れる火口へと落ちていく。
 どぼり、二つの体が溶岩に埋もれる。埋もれて、その高温に溶けながら、白い龍は悲鳴とは違う叫び声を上げた。空へと、誰かへと、咆哮するように。

『一人の子供が捧げた十五年という苦行の歳月を! 憐れと思うなら!! 神よ、どうか!!!』

 そのあとの言葉は、赤い爪に頭を押さえられ溶岩の中に沈んでいった龍の口からは聞き取れなかった。
 白い龍を沈めた赤い龍が這いずるように溶岩から顔を出すが、半分溶け崩れていた。『畜生が』こちらを見据えて吐き捨てる言葉にごくりと生唾を飲み下し、何が起きてもいいように、ぎゅっとのことを抱き締める。
 二体の龍を溶かした火口から、ごぼごぼと、赤い色が溢れ出す。噴火が近い。離れないと。

(……頼むって、そういうことか)

 あの龍。顔に出しもしなかったが、のことが好きだったんじゃないか。自分が身代わりになろうと思うくらいには。
 小さな体を抱き締めて、溶岩の中に沈んでいった白い龍に誓う。
 どんな困難が待ち受けていようが、人間が撒いた穢れが災厄となって襲ってこようが。天変地異が起ころうが。決して諦めず、立ち向かい、しぶとく生き残ってみせる、と。
 それに、地球のためになることもできるように考える。俺は顔と知名度だけはいいらしいからな。せいぜい利用して、この星のためになることをするよ。人身御供ほど効果的じゃないだろうが、やらないよりはマシだ。
 まずは、そうだな。『ヒーローショートとボランティアでゴミ拾い』とか、その辺りから始めてみるか。

(人間が撒いた種は、人間が刈り取るよ。どれだけ時間がかかっても。約束する。のことも任せろ)

 爆発音に振り返れば、富士から赤い色と噴煙が吹き上がっていた。
 けど、地震から想定されていたよりそれは小さな噴火だった。
 溶岩はヒーローたちの尽力によって流れをコントロールできる量で、火山灰だけは頭が痛いが、出てた策はいくつかある。すぐにでも実行に移せるよう要請のあったヒーローは待機していたはずだから、大丈夫だろう。きっとなんとかなる。

「……お前の相棒がやったんだろ。すごいな」

 想定していたよりも小さな噴火に、白い息を吐きながら、裸はさみぃだろうと思って自分のシャツを脱いで小さな体に着せて、安らかな寝顔をしている存在を腕に、飛ぶ。
 まずはを病院へ連れて行こう。これまでのこともあるし、色々と検査した方がいい。
 それから、飯田たちに連絡して、勝手に抜けたことを謝らないとな。