ある日、先生が、橋の下で蹲っていた子供を拾った。俺と同じくらいの子供を。
 その子供に対して第一印象に思ったことは『面倒くさい』だった。
 別に、先生を盗られるだとか、そういう子供っぽい理由ではなくて。その子供は意味もわからず全身掻きむしり始めるし、吐くし、喚くし、それを片付けるよう命令されるわけだから、俺にとってその子供は面倒くさい以外の何者でもなかったのだ。
 先生の気紛れにも困ったものだと思いながら、俺は口をへの字にして、それでも先生に従った。
 なぜか? 俺が子供だからだ。自立して生きていけず、今はまだ、誰かの手が必要な子供だからだ。

(仙人のような生活でよかったら、提供できるけど?)

 頭の中の声に俺は人間なんだけどと返して黙らせ、痒さで床をのたうち回っている子供を見下ろす。
 痒みで全身を搔きむしっている子供。その子供に「転弧」と呼びかける先生は、またろくでもないことを促している。
 あの子供。転弧自身がその力の巨大さから自らの中に封じている個性。それを思うままに解放しろ。縛られるな。恐れるな。そんなことを唆している。転弧を拾ってからずっとそんな感じだ。
 そして、雨が降る今日。転弧は我慢することをやめた。
 たくさんの手をつけて、不良二人を血と肉片に分解した転弧。その様子を俺と先生と博士はビルの屋上から眺めていた。
 ……強い個性だと思う。今は無意識下でセーブをしているようだけど、触れたものを瓦解させる個性…。先生が欲しがりそうな個性だ。
 差し出された傘に、視線を上げると、先生がこちらを見ていた。「君のことも、僕は肯定しているんだよ。どうだい、そろそろ解放してみる気になったかい?」「……遠慮しておきます」視線を外して傘から一歩外れ、雨に当たる。冷たい。そのことがわかる。俺はそれでいい。
 死柄木弔を名乗ることになった子供。転弧、だった弔の世話係を引き続きやらなきゃならなくなった俺は、毎日溜息が止まらない。

「はぁ」

 ほら、今日もまた。
 なんで俺が調理をしなきゃならないのか。そんなことを思いながら、子供でも作るのが比較的容易なカレーライスを大鍋でぐつぐつ煮込んでいる。これならドリアにしたりグラタンにしたり、バリエーションがきくから数日料理が楽なのだ。
 カレーの味見をしながら、キッチンにある窓の外の向こうに目をやると、雨が降っていた。
 雨はいい。血を洗い流してくれるから。多少の物音を相殺してくれるから。汚い世界の音を少しだけクリアにしてくれるから。
 カレーライスを食べたあと、俺と弔は先生に外へと連れ出された。
 先生は弔にろくでもない道を示しているようだけど、俺は一歩引いたところでその道筋を眺めているだけで、その道を歩くけど、率先して前へ行くことはない。



 それでも、先生に呼ばれると、行かざるをえない。「君もたまには個性を使いなさい。錆びてしまうよ」「……個性って、そういうものじゃないと思いますけど」ぼやいて返しながら、その手が俺に触れる前にひょいと避けて、仕方ないから目を閉じる。
 先生にとっての敵対勢力。俯瞰風景で捉えた視界には、そういうものが周囲に、ざっと、二十。「囲まれていますね」「ああ」先生はどこか嬉しそうだ。「敵はどこだよ。見えない」ストレスを感じると掻く癖がある弔の手をはたいて止めて「すぐ来るよ」と返し、目を開ける。
 俺の中にいるもう一人が久しぶりの出番を感じて舌で唇をぺろっと舐めた。俺がやったんじゃない。
 出番だろ、と言いたげに疼く右手を左手で押さえる。「……弔がすべてやるでしょう。俺の出番はない」確認するようにぼやいて先生を見上げる。先生はにこりとした笑みを浮かべるだけで、それは答えになっていない。
 つまり、出番はくると。そう言いたいのかこの人は。
 仕方がないからまた目を閉じて、我慢ができずに敵の各個撃破に動き出した弔を中心に俯瞰の視界を展開。敵は動いた弔にそれなりの人員を割きつつ、こちらにもにじり寄って来ている。
 念のため、もう一度先生に目を向けたけど、にこにこしているこの人には動く気はなさそうだった。

「……はぁ」

 一つ息を吐いて、自分の胸に手を当てる。
 いいよ、やっちゃって。そうぼやいて体をあけ渡すと、待ってましたとばかりにもう一人の俺が目を見開いた。「久しぶりだ」とぼやきながら携帯している短刀を抜き放つ自分を俯瞰の視点で眺める。
 …………いつからこうだったのかと言われると、最初からこうだった、としか言えない。
 俺が自分というものを自覚したとき、俺の中にはもう一人の俺がいて、その俺が、世界は優しくないのだということを教えてくれた。利己的な人間の姿や、子供を喰らう社会のことや、醜いものや、汚いものや、吐き気を催す世界のすべてを教えてくれた。そして、俺のことを守ってやるとも言ってくれた。
 だから俺は世界のことが嫌いだった。人間のことも嫌いだった。
 とくに、自分のためにすべての個性があると言わんばかりの振る舞いをする先生のことは大嫌いだ。
 だったらそばを離れればいいのに、泥水すすってでも生きていく覚悟のない俺には、血のような温度のこのぬるま湯がちょうどよいのだ。程よく汚い道。過分はないが不足はない生活。それくらいがちょうどいい。
 終わったぜ、と肩を叩かれたような感覚がして目を開けると、白かったシャツが鮮血で真っ赤になっていた。「あーあ……」これ、もう落ちそうにないな。また服をダメにした。

(加減忘れてた。悪い)

 まぁいいけど、とぼやいて赤くなったシャツで先生のもとに戻る道すがら、人の頭を蹴飛ばした。蹴った俺の足が痛くなるくらいには重かった。
 ごろりごろりと転がるその物体を無感動に眺めて視線を外す。
 まるで、まだ自分が生きていると思い込んでるみたいな、今から奴を確保するぞって、正義の警察官の顔をしてたな。
 死んでることに気付かないうちに死ねるなんて、一番幸福な、苦しくない死に方だったろう。
 赤いシャツの濡れ烏となった俺に弔は多少ぎょっとしてたようだけど、先生は拍手をしていた。狂喜を感じる笑みだった。「相変わらずの手際! 速さ! いや素晴らしい」できれば俺の個性を自分のものにしたい。そんなことを言い出しそうな先生の笑顔を見上げて、血で濡れた短刀をシャツの袖で拭ってしまった。

 この世界は醜くて、汚くて、吐き気を催すようなものでできていて。
 そんな掃き溜めみたいな世界には、利己的な人間が生きて、死んで、生まれて、殺される。その繰り返し。
 ああ、なんてくだらないのか。

(それでも、オレだけは、お前に優しくしてやるよ)

 背後から自分とよく似た腕に抱かれた気がして緩く頭を振る。
 唯一、自分を愛してやれるのが自分だけだなんて。なんて、くだらない、世界なのか。