夏。俺が最も嫌いな季節がやってきた。
 ジリジリと真上から遠慮なく照り付けてくる太陽の強さを憎いとすら感じる、熱気と湿気でこもった空気の夏。殺せるなら殺してやりたい季節。
 古いせいで効きの悪いエアコンのぬるい風を浴びながら白いシャツに袖を通し、怠い空気の中アジトに行くと、弔と黒霧がいる。「ん」いつものように部屋の奥を顎で示され、怠いまま部屋に入って、急に吐き気が込み上げた。「…ッ」ゴミ箱を掴んで胃液を吐き出した俺を弔が無表情に見下ろしている。
 さすがにこう毎度吐いてれば俺だって学習するから、ここに来る前は何も食べないようにしてる。それだけで吐いた気持ち悪さはだいぶマシだ。胃液と食べ物って混じるとどうしてああも気持ちが悪いんだろう。

「なぁ」
「……ん」
「なんで吐くんだよ。最近ずっと」

 弔は赤い目でこっちを見下ろしている。俺の細部まで観察し、逃がすものか、って目だ。「夏は、嫌いなんだよ。昔から。知ってるだろ」とりあえずそんなことを言って誤魔化してみるが、弔は流されない。俺のシャツを掴んだと思ったら灰にしている。「吐くほど嫌いかよ」望んでいるものとは違う手が俺に触れる。俺を即座に灰にすることもできる手が俺の背中から腹にかけてをなぞる。
 拒絶して、その手を払いのけそうになるのをなんとか堪える。「そ。吐くほど嫌い。ここ、クーラーの効きも悪いし」実際、ここでセックスすればそれはもう汗だくでびっしょりになる。まだその辺のラブホでクーラーガンガンに効かせた方がマシだ。
 弔は何か言いかけて、結局やめた。
 この部屋に来てすることは一つ。セックスだ。
 俺は仕事の一つをこなすだけ。
 いつもと同じように、気絶するまで抱いて、そのあと吐いて、シャワー浴びて屋上に逃げて煙草を吸って、弔の目が覚める前に逃げる。いつもと同じように。
 そうやって逃げて、吐いて、逃げて、吐いて、繰り返していた頃に、「大丈夫ですか」と声をかけられた。コンビニの喫煙コーナーで三本目の煙草を吸って吸殻をもみ消し、全身の気怠さが酷くてしゃがみ込んだときだった。「大丈夫……」ご親切な誰かにぼやいて返しながら、聞き覚えのある声だったな、と視線だけ上げると、夢にまで見ていた紅白頭と、この暑さでも澄ました涼しい無表情の持ち主がいて、取り出しかけた新しい煙草を落とした。

「大丈夫ですか」

 轟は無表情に俺を見下ろして繰り返す。
 ……あんまりにも暑くて、怠くて、吐くことの繰り返しで、ついに幻覚を見たのかもしれない。
 そんなことを思いながら落とした煙草を拾って火をつける。「大丈夫だよ」さっきよりは幾分かはっきりした声はガラガラしている。毎日のように酒と煙草を浴びてるから、喉がイかれてる。
 轟は少し首を傾げたあと、俺の隣までやって来てしゃがみ込んだ。肩が触れ合う位置に。それで、その轟は幻じゃないことがわかる。
 轟は俺と目を合わせず、独り言を言うようにポツリと「酷い顔色です」なんてぼやく。俺のことを言ってるんだろう。「そ。まぁ、そうかも」毎日酒と煙草とジャンクフードで潰すような日々だ。そりゃあそうもなる。
 お前がいなくなってから、俺の毎日は酷いもんだ。
 こうなるのは当たり前で、これがお前のためで俺のためなのに、ほんと、毎日、酷いもんだ。
 巷では学生なんだから、こんなとこで煙草吸ってちゃ駄目だって、それくらいのことも忘れてしまうくらいには、俺は自暴自棄になっていた。
 ………正直。こんなにも誰かを好きになることなんて、ないと、思ってた。もう一人の俺から醜くて汚い世界の真実を聞かされて、先生を通してそれを実感して、だから、そんな世界で誰かを好きになることなんてないと思っていた。
 女の子を転がすことには慣れてたし、黄色い声にも慣れてたし、弔の世話もあった。誰かを好きになるような暇なんてないし、必要だってないって思ってた。
 人を好きになるって、こんなにも苦しいものなんだな。知らなかった。

「とどろき」
「はい」
「俺のこと、言っていいよ。お前なら」

 いつかに、轟は約束した。ヴィランである俺のことを誰にも言わない、黙っている、と。
 轟が俺に情報を流したという事実も、俺に誑かされたってことにすればいい。そうすればお咎めはあっても罰はないだろう。ヒーローの卵としてヴィランを引き渡す。今の轟には手慣れたことのはずだ。ステインのときだってやってみせたじゃないか。
 あまりの暑さに額を伝った汗を指で払いのけ、怠すぎて、コンビニのガラスにごつんと後頭部をぶつけた。頭を支えてることすらしんどい。

「なんで、そんなこと言うんですか」
「………疲れたから。かな。夏、嫌いだし。好きなもんは、もう、手の届かないところへ行ったし。なんか、疲れちゃったよ」

 ぼやいて、隣から動かない轟の肩に頭をぶつける。
 拒絶はされなかった。それどころか轟は俺の長い髪をさらさらと撫でた。慰めるように。
 その手つきだけで、轟が今もヒーローと俺への気持ちとの間で揺れていることがわかってしまって、煙草を嚙み潰した。
 ……なんだよ、その手つき。不器用に優しくしようとするあのときのままじゃないか。
 人生で唯一幸せだった二週間。轟とセックスばかりしていた二週間。人の優しさに不慣れな轟をなるべく優しく抱いた。なるべく甘やかした。そんな俺に、優しさに優しさを返そうとする、あのときのお前のままじゃないか。
 この再会は偶然か。それとも、轟が俺を探したのか。どちらにしたって今更なのに。
 轟は俺のことをヴィランとして突き出せるほど吹っ切れてない。あの日々を憶えてる。迷ってる。迷ってるからこうしてる。

(なぁ、もういいだろ。なりふり構ってる場合じゃない。お前、死ぬぞ。体もそうだけど、心が死ぬ)

 頭の中の声は最近とてもうるさい。俺に素直になれだとか、そういう類のことをしつこく促してくる。
 轟が、俺のことを言えなくても、次の事を起こせば俺のことは割れる。そういう手筈になってる。俺がヴィランだってことは世間が知る。轟が言っても言わなくても同じだ。それが今になるか、少し先になるかだけの違い。
 煙草を地面ですり潰してふらりと立ち上がった俺を色の違う両目が追いかけてくる。
 無言で立ち去る俺を、轟は追ってこなかったし、声をかけることもなかった。轟はヒーローの卵として俺を追うこともなく、後輩として俺を追いかけることもしなかった。二つの間で迷って決められなかったんだろう。
 夏の憎い暑さの中、顔を伝う汗をそのままに、気怠い空気の中をふらふらと歩く。
 大丈夫。夏休みの林間合宿の襲撃までは生きる。そこに一縷の希望があるから。
 そこまでは、なんとか、生きて。そのあとは。もう、わかんないな。