ぱん、と手を叩く音で意識が醒めた。

「やり直し」

 目の前でそう言って手を叩いたのは俺だ。
 鏡で何度だって見た自分の容姿は、紺色の長い髪にくすんだ青の瞳。ただしその表情は俺がよくする気怠そうなものでも猫被った優男でもなく、無、だった。
 目の前の奴はどう見ても俺だ。
 いや、俺はここにいるわけで、手を叩いてそんなことを言ってはいないから。正しくは。俺の姿をしてる俺じゃない誰か、か。
 おかしいな、俺は自分の頭を切り刻んで死んだはずだけど。
 ぺたぺた自分の顔を触ってみる。繋がってるというか普通というか。「俺、死んだよな?」目の前の相手が誰かわかっていたので確認すると、もう一人の俺はあっさりと頷いた。「死んだ。お望み通り、脳無になる道を絶って、弔に灰にされる道も避けて」ぱ、と映像が浮かぶ。それは俺の死体が警察に発見されているところだった。
 うん、じゃあ間違いなく俺は死んだんだろう。
 でもそれじゃ、ここでこうして思考してる俺は、一体なんだっていうんだろう。
 それにここ、どこだ。深海みたいに暗いけど。
 状況が理解できずにきょろきょろと辺りを見回す俺に、もう一人の俺は腕組みしてはぁーと深く息を吐き出す。

「もう一回言うぞ。やり直し」
「…? 何を」
「お前の人生を」

 言葉の意味が理解できずに眉根を寄せると、ぱっと映像が浮かんだ。それはどこかの病院の個室で、轟がたくさんの管に繋がれていた。怪我を負ってる。重傷だ。
 思わず映像に顔を寄せて凝視する。
 俺が知ってる轟の最後は、ヒーローに助け出されたところまでだ。確かに薬漬けにはしたけどそれは体内を洗浄すればどうとでもなる話で、こんな怪我は負わせてない。「何だこれ。どういうことだ」「ああ、こっちが先だった。悪い」ぱ、と違う場所に映像が浮かぶ。それは俺の死体に縋りついて泣いて吐いたあと、自分の体を氷で貫いて死のうとした轟の姿を再生していた。

「その場に警察やらなんやらいたからな。一命は取り留めた。だが」

 管に繋がれた轟は、病室に入ってきた雄英の制服のクラスメイトのことを『先輩』と呼んでいた。実際にはクラスメイトの、確か緑谷だったかな。が相手なんだけど、どうやら俺に見えてるらしかった。
 他の誰が入ってきても、制服姿の相手のことを、轟は先輩と呼んだ。
 何も言えない俺に、もう一人の俺ははぁと息を吐く。「頭が、というか、心が、というか。おかしくなっちまってる。お前が死んだことを受け入れられてない」クラスメイトのことを先輩と呼んで笑う轟の目は、確かに死んでいた。光はなかった。俺のことを生きてると思わないと生きていられないから、そう思い込んでる。そういう目だった。
 …………俺はこんなことを望んだわけじゃない。
 弔に灰にされる道を避けたのは、死体を残すため。俺が死んだことを轟に知ってもらうため。それで前を向いてもらうため。そのためだったはずなのに。
 お前、そんなに俺のこと好きだったのか。後追いするくらいには。

「全部が全部うまくいってない。だからやり直しだ、って言ってる」
「……そのさ。やり直しとか、お前、簡単に言うけど。死んだら人生って終わりだろ」

 今、何かの奇跡か何かの間違いか、死んだあとも思考してる俺がいるわけだけど。人生っていうのは一度きりだ。生まれて、生きて、死んだらおしまい。俺はろくでもない生き方をしてろくでもない死に方をした。それでおしまいだろ、普通は。
 もう一人の俺は無表情に俺のことを一瞥した。「オレが普通の個性じゃないってのはわかってるだろ」「…それは。まぁ」超人的な動きをしたり、知識を持ってたり、人を殺せたりしたもんな。それはわかるけど。
 目の前の俺は上を指した。真っ暗な深海みたいな場所の遥か彼方。届かないだろう、と思う彼方に微かな光が見える。

「オレがお前を送り出してやる。先生に会う前のお前まで、お前の意識を飛ばす」
「は?」
「ただし、オレが身代わって死んでやるわけだから、チャンスはその一度だ。今度こそ幸せになってこい」
「ちょ、っと待った。情報が多い」
「お前って人格を残して、オレって人格を死なせる。それだけの話だよ」
「いやいやちょっと待って」
「ほんとはさ、オレは気に入らないんだよ、轟焦凍。でもお前は好きなんだろ」

 頭に手をやって考える俺の前にぱっと映像が浮かぶ。轟との下校風景。煙草味のキス。夢中でしたセックス。
 映像を見てるだけなのに死んだ体が疼いてくる。
 無表情な俺が言う。「好きなんだろ」と。
 ああ、とぼやいて、映像だからすり抜けてしまう指でそれでも轟の髪を撫でた。
 醜いとわかってる世界で、汚いと思い知った世界で、それでも人を好きになった。こんなにも誰かを好きになるなんて思ってもみなかった。そのせいで色々、酷い終わり方にはなったけど、好きになったことに後悔はなかった。
 先輩、と呼ぶ声が耳元で聞こえた気がして、その声を忘れたくないなと思って両手で耳を塞いでみる。
 最期のお別れをして、自分なりに、この気持ちにけじめをつけたつもりだったけど。全然、未練ばっかりだ。笑えてくるくらいに。

「俺、轟に、会えるのかな」
「お前が頑張るならな」
「そっか。そうか……」

 具体的なことは何もわからないけど、ありていに言って、希望、が湧いた。もう一度生きたい。人生やり直したい。今度こそきれいな絵を描きたい。そう思った。
 もう一人の俺がすいと泳いでこっちにやって来て、俺のことを抱き止める。「じゃあ、もう一回人生頑張ってこい。もうオレの便利な個性は使えないからな、泥水すすって頑張るんだぜ」「……なぁ」「ん」「なんでお前、そこまでするんだ。俺より、お前の方が個性強くて、やろうと思えば、俺の体だって奪えてたんだろ」思えばいつもそうだった。たまに衝動的に体を乗っ取られることはあったけど、こいつはいつも許可を求めてきた。俺より強い個性の存在だったのに。今も、俺のことを生き返らせようとしてる、すごい奴なのに。
 は、と笑った声が言う。「そりゃあ、お前。好きな奴には嫌ってほしくないだろ。死んでほしくもないだろ」嘘か、ホントか。そう言って笑った俺は俺のことを上へと送り出した。反動で自分はさらに暗い海へと沈みながら。

「いいか、うまくやれよ。あんまり目をつけられない方向で。
 お前の人生って絵、オレは楽しみにしてるからな。
 ……幸せになれ、

 暗い海に沈みながら、もう一人の俺は最後まで笑っていた。
 ぱん、という音で意識が醒めた。「…っ」軋む体で這うようにして起き上がると、豪雨の中、橋から身を投げた男女が泥水に叩きつけられた音だった。
 まだ若いのに死ぬことを選んだ二人が泥の濁流の中に消えて行くこの光景を、俺は知っていた。
 手をかざせば、小さくて頼りない子供の手があって。なぁ、と自分の中に呼びかけても、もう答える声はない。

(ほんとにやったのか。俺、過去に、戻ったのか?)

 理屈も原理もさっぱりわからない。ただ、このままここにいたらじきに先生に目をつけられることだけは知っていたから、豪雨の中でも橋の下から飛び出して、雨の中を走った。
 記憶はある。轟のことも憶えてる。ヴィラン連合のことも、弔のことも、全部憶えてる。
 とにかく、これからのことを考えないといけない。ヴィランにはならないで泥水すすって生きて行く道を模索しないとならない。
 駅のホーム、なんとか雨を凌げる場所で膝を抱えて寒さに耐えながら、考えた。夜中考えて、俺は心中した二人を『両親』として利用することにした。
 あの二人が三日後にぶくぶくの水死体として発見されて、結局名前もわからないままだったことは知ってる。だから利用できると思ったのだ。
 交番に駆け込んで、泣きながら両親が橋から落ちたことを説明すると、警察官は血相を変えて各所に連絡を取り始めた。
 ウソ泣きって難しいな、と思いながらなんとか泣き通した俺は、着替えをもらって、あたたかい毛布と飲み物をもらって、ストーブの前でじっとしていた。考えなきゃならないことは山ほどあった。「ぼく、名前は言えるかい?」かけられた声に視線を上げると、こちらを気遣う人の好さそうな顔がある。


くん。お父さんとお母さんはきっと大丈夫だからね」

 この豪雨の川に飛び込んでそれはないだろうと思ったけど、人の良い笑顔で頭を撫でてくる警察官にこくんと一つ頷く。
 三日後、知っている通りに二人の水死体が見つかり、それは俺の両親ということになった。
 孤児院に預けられた俺は、制約のある生活に不自由はしたが、轟家の内情を常にチェック。焦凍が生まれた日には一人でケーキを食べてお祝いした。
 奇跡的に成った二度目の人生だ。手を抜くつもりはない。
 俺の日常も、人生も、懸けられるものすべてを使って、焦凍へと続く道を模索し続ける毎日。

「資格取得?」
「はい。自立するためには必要だと思うので、勉強がしたくて」

 栄養士、調理師その他、現在の轟家に必要だと思う知識をつけるべく共有のパソコンから資料をプリントしてきた俺は十二歳。資格がどうこう、と言うには早い年齢ではあったが、中学卒業と同時に孤児院を出なくてはならないことを考えると、早すぎるってことはない。
 シスターは困った顔をしてたけど、結局俺の資格取得のための勉強に許可をくれた。
 孤児院での決まり事だから、いるかわからない神様ってものに毎日お祈りを捧げ、生きていることに感謝し、食べて、学生をやって、お風呂入って勉強して、眠って、その繰り返し。
 灯りが落ちた部屋でも勉強を続けていたら視力が落ちて眼鏡が必要になったし、勉強しかしない俺には友達の一人もできなかったけど、それで良かった。

(今度こそ。他の何もかも振り解いて、お前を抱き締めに行くよ)

 それで、お前が笑ってくれたら、俺も嬉しい。