週末が嫌いだった。
 クソ親父が稽古と称して俺のことをボコボコにするから。それで怪我をしたり吐いたり散々な目に遭うから。
 金曜日、学校から帰るとき、いつも憂鬱で、家になんて帰りたくなかった。
 それでも子供の自分にはそこが家で、家以外に行き場なんてなかったから、仕方がなく帰っていた。
 その日も同じで、轟、と書かれた門をくぐる俺は憂鬱だった。明日になればクソ親父にしばかれる。憂鬱以外の感情なんて抱けるはずがない。
 だから、次の日、親父が「今日は午後から特訓だ」と言い始めたときは何事かと思った。毎週毎週ウザいくらい俺を痛めつけてたくせに、今日はそれが午後から。ヒーローの仕事が入ったってわけじゃなさそうだが、よっぽど大事な何かに違いない。
 そう思って何か落ち着かない気持ちでテレビを眺めていると、玄関が開く音がして、クソ親父が知らない誰かを連れてきて俺たち子供に紹介した。

だ。今日から住み込みでうちの家事炊事その他をしてもらう」

 兄さんも姉さんも何も聞いてなかったらしく、「はぁ!?」と驚いた顔だ。
 よろしくお願いします、と頭を下げた紺色の髪の持ち主をじっと見つめる。「いやいや、まだ子供じゃん」「え、父さん、どうして? 理由は?」「……恩師の一人であるシスターの孤児院の出でな。断れんかった」本人がいるってのにつまらなそうにそうぼやく親父に、というらしいその人が表情を引き締めてまた頭を下げる。

「使えないと判断したら契約を解除してもらって構わないので。一ヶ月、頑張らせてください」
「……ふん」

 その低姿勢に親父は鼻を鳴らしたあとにじろりと俺を見て「焦凍、特訓の時間だ」と言う。
 抗ったところでどうせ腕を掴まれて連行されるから、俺は仕方なく立ち上がった。兄と姉が戸惑いながらもに挨拶している横をすり抜けて、なんだかいい香りがした気がして、一瞬足が止まる。
 甘くて苦い。香り。
 ぱち、と眼鏡の向こうのアッシュブルーの色と目が合って、「よろしく焦凍くん」と笑う相手に意味もなく口が空ぶる。
 住み込みで働くってことを親父が許可するくらいには、資格とか持ってる、できる子供なんだろうけど。「……よろしく」ぼそっと返して親父を追って走る。
 土曜日はそうして過ぎて、俺はいつもどおり、クソ親父にボコボコにされた。
 そういうのには慣れてたし、手当てだって自分でできたけど、はおせっかいだった。救急箱片手に駆け寄ってくるくらいには。「うわぁ、青痣。痛いだろ」「……別に」クソ親父の攻撃を避けられなくてできた不名誉な傷。自分の実力不足。自業自得。このくらい痛くない。
 家事代行ってのはこんなこともするのか。他の人は俺のことかわいそうな目で見はしても、手は出してこなかったのに。
 勝手に手当てしてくるのことを眺め、眼鏡をしてる横顔に手を伸ばして黒い縁のそれをさらうと、くすんだ青い瞳がよく見えた。夜が明ける前の空の色だ。

「目、よくないの」
「うん。返してくれると嬉しいな」

 困った顔のに眼鏡をかけ直して、やっぱりもう一度取り上げる。
 俺はこっちの方が、なんか、しっくりくる。なんでかわからないけど。
 困った顔のに眼鏡を戻して、ほぼ初対面の相手に対してそれなりに失礼なことをしてるなと思った。思ったけど、これから住み込みで働くっていう相手に遠慮しててもしょうがないかと思い、今の失礼はなかったことにした。
 頑張る、と言っていたように、その人はウチのことを頑張った。
 腰をやって仕事が満足にできない家事代行のばあちゃんに代われるよう、教えてもらった仕事をメモして、実践して、高校生の姉さんと親父の弁当も作って、俺のことも門まで見送る。「行ってらっしゃい」と。
 いつも俺が最後に家を出るし、ここまで見送ってくれる人はいなかったから、こそばゆいな、と思いながら小さく「いって、きます」とこぼし、ランドセルを背負い直して学校へ向かう。
 ………その人が来てから、週末、家に帰ることが少しだけ楽になった。
 相変わらずクソ親父にはボコボコにされるし、怪我は絶えなかったけど、が手当てしてくれる。心配してくれる。「大丈夫、焦凍くん」と伸びる手が頭を撫でる。
 子供扱いしてるならその手を払いのけてやるところだけど、その人が本気で俺のことを案じているのだということがなぜだかわかってしまって、だから、この人に頭を撫でられるのは嫌いじゃなかった。
 俺の体作りを中心とした食事メニューもちゃんと作ってみせたし、家事もこなしてみせたし、それなりに広いこの家を管理するのは大変だろうに、は全部ちゃんとやってみせた。
 一ヶ月後、親父はに引き続き仕事をしていいと契約を続行した。そのことにはとても安堵した顔をしていた。
 そうやって、二ヶ月、三ヶ月、半年、一年と、その人は轟家の使用人としてあり続けた。
 最初こそ『轟の財産狙いだ』とかありもしない警戒の念を抱いてた兄たちだったけど、一生懸命働くに、もうそういう疑念は忘れたらしい。二人ともの作る弁当にすっかり慣れたし、が家事をしてくれることに慣れていた。
 そして、俺も。

「焦凍くん」

 あの人に笑いかけられることに慣れた俺は、あの人に甘えることを憶えた。兄や姉みたいに俺にどこか遠慮してるぎこちない態度じゃなく、両腕を広げて抱き締めてくれるこの人に、母にしていたように甘えることを憶えた。
 は優しかった。
 姉と同じくらいの年齢だと思うけど、この人は俺のことをよく気遣ってくれた。親父の睨みにも屈せず、俺を甘やかしてくれた。

「………

 割り当てられているの部屋は轟の家の一番奥まった場所にあって、夜、眠れないときに枕を持って訪ねると、いつもやわらかい笑顔で迎えてくれた。「おいで」ぽん、と布団を叩く手に寄っていって布団の中に入り、狭いけど、その狭さに安堵しながら、に抱かれながら眠る。そういう日々に慣れた。
 でも、小学校を卒業する頃にもなれば、さすがにそういう甘え方はガキっぽいだろという妙なプライドみたいなものが生まれてしまっていて、俺は甘えるのが下手くそになった。
 は変わらない。優しい。甘やかしてくれる。それが嬉しいと思う。
 今日の夕飯は何かな、なんて考えながら下駄箱から靴を放って履いていると、「あの、轟くん」と女子に声をかけられた。
 口から溜息が出そうになるのを堪えて顔を上げる。
 月に何度かあるやつがまた来た。
 体育館裏まで来てくれと言われて、殺風景なそこに佇んで、なかなか口を開こうとしない女子の言葉を待つ。

「あの、好きです」
「そうか」
「あの…お付き合い、とか」
「悪いけど。俺、好きな奴いるから」

 定例文句を返してくるりと背を向け歩くことにも慣れた。
 女子からの告白に困ってると相談したら、が教えてくれたのだ。こう言えばだいたい諦めてくれるよ、と。
 確かにそのとおりで、今回の女子も肩を落として俯いてるだけで追ってこなかった。
 ということを帰ってから報告すると、眼鏡からコンタクトになったは苦笑いしながらから鶏の胸肉に包丁を入れた。「相変わらず、モテるなぁ」「別に……嬉しくない。鬱陶しいだけだ」本気でそうぼやいてトントンと慣れた手つきで肉をさばく包丁の動きを目で追う。そえられている指は細くて長い。

「今日なに」
「からあげ。胸肉はヘルシーだし、タンパク質も豊富」
「ふぅん」

 親父に文句言われないように、毎日毎日よく考えるよな。そういうの疲れないのかな。
 じ、と調理する横顔を眺めていると、肩を竦められた。「宿題は?」「あ」そういやあった。難しいもんじゃないけど、忘れないうちにやっておかないと。
 通学鞄からファイルを引っぱり出してプリントを出す。教科書を読んで授業を受けてればわかる問題だ。
 さっさと終わらせてプリントをしまっていると、鞄の中にある保健体育の教科書が目に入った。次の時間小テストがあるからって言われて念のために持ち帰ってきたものだ。
 俺は中学生になったわけだから、そういう授業もある。
 言葉だけじゃよくわからないが、その授業のとき男子も女子もどこか落ち着かなさそうにそわそわしている。そういう空気に混じれないまま、俺はただ授業風景を眺めている。何をそんなに意識してるんだか、と。
 ちら、とに目をやる。今日はからあげにサラダにご飯に、汁物に、副菜にと、仕事に勤しんでいる。
 年齢より大人びてるこの人にも、そういうときはあったのかな。
 そんなことを考えながら夕飯を食べ、庭で自主練に励んで、風呂に入って。縁側で涼んでもう寝ようと思って立ち上がったところに、微かに甘い香りがして、自室の襖を開けた手が止まった。
 甘くて苦い。香り。
 誘われるように縁側のつっかけサンダルを履いて歩いていくと、轟家の敷地の端っこ、草抜きのときにしか来ないような場所で、が口に煙草を銜えていた。それで俺に見つかるとバツが悪そうに眉尻を下げて地面で煙草をもみ消す。「あー、見つかっちゃったな……」俺の記憶違いじゃなければ、は煙草を吸うにはまだ早いはず。
 ぱちん、と手を合わせたが頭を下げてくる。

「ナイショにしてて、お願い焦凍くん」
「……いいけど」

 この人がいなくなったら、轟家は回っていかないし。煙草は体に悪いけど、趣味とか息抜き、みたいなもんだろうし。兄たちがどう思うかはわからないけど、俺は親父にチクったりはしない。
 ただ、興味が湧いた。大人びてると思ってた人が余計に大人なことをしてるから。
 寄って行って隣にしゃがみ、「俺も一口」と言うと、は困った顔をした。「苦いだけだよ」「いいから」「……じゃあ、これでガマンして」「?」首を捻った俺の頬に長い指がかかって、あ、と思っている間にの顔で視界がいっぱいになって、唇にやわらかい感触がした。それから、すっげぇ苦い味と、甘い香りがした。
 うえ、と舌を出して咳き込んだ俺にが笑う。「ほら、苦いだけだろ」と。
 確かにそうだけど。苦いけど。そうじゃなくて。今の。キス。
 口を押さえてぱっと立ち上がって庭を駆け抜けた俺を、は追ってこなかった。
 サンダルを脱ぎ散らかして自室に駆け込んで襖戸をしめ、まだ苦い味の残っている唇を指でなぞる。
 ………キスしてしまった。と。
 記憶にある限りでのファーストキスはすごく苦くて、それから、甘い香りがした。