ファーストキスを奪われた翌日。 はいつもと同じ顔で「おはよう焦凍くん」と俺を起こしにやって来て、「今日は洋食のご飯だよ」と、いつもとまったく変わらない笑顔をみせた。 ………俺は全然眠れなかったっていうのに。なんだその笑顔。 布団から抜け出しての頬をぐいっと思い切りつねる。「いへ」「…………」「いはぃよ、しょーろふん」人の気も知らないで。こっちは一晩中あのキスの意味について考えてたってのに、なんだよ。深い意味とか、ないのか。いつも通りにしやがって。 エッグベネディクトとサラダ、オニオンスープの朝食を片付けて学校に行く準備をし、最後に鞄のチェックをしていると、保健体育の教科書が目に入った。 きっと変なことを考えたのはコレのせいだ。考えなくていいことまで考えて、眠れなかった。馬鹿みたいだ。 教科書を一つ殴って鞄のチャックを乱暴にしめ、肩に引っかけて玄関に行くと、いつも通り、が見送りに来た。「行ってらっしゃい」「……ん」引き戸の玄関を開けて、いつも通りに登校。いつも通りに授業を受けて、簡単な小テストのあと、男女の体についてを解説する保健体育の授業を蚊帳の外の意識で眺める。 どいつもこいつも、誰かを好きになったことがあって、その相手を性的に意識したことがあるから、この授業に実感がもてる。 俺はといえば、性的な対象として告白されることはあれど、告白したことなんてないし、誰かを好きになったこともない。 だけど、キスはしたんだったな、と自分の唇を親指でなぞる。 苦いあの味を、香りばっかり甘いあの煙草を、まだ憶えている………。 「轟くん、ちょっといいかな」 その日の帰り、また声をかけられて、今日は人がまばらな中庭の方で告白された。だからいつもと同じ手段で断ったら、「それ、誰のこと?」と訊かれた。「誰って……」の案を採用した『架空の好きな人』に具体像はなかった。突っ込まれたのはそれが初めてで、すぐに言葉が出てこない。 女子は必死な顔で俺の腕に縋りついてくる。「誰のこと? 私よりかわいい人? ねぇ」誰、って。誰のことも想定してなかった。 言葉を繋げないと嘘だってバレる。誰でもいいから、誰か。 とっさに浮かんだのは、紺色の長い髪を一つにくくってるあの人のことだった。料理がうまくて、家事をこなして、ずっとそばにいてくれる、優しいあの人とキスしたことだった。 「……きれいな、長い、髪をしてて。料理が上手で。家事もできる。年上の人」 焦凍くん、と呼ぶ声を思い出してぎゅっと拳を握って、女子の手を外す。 中庭から逃げた俺の行く先は一つしかない。小学生の頃から変わってない。家以外に行くようなところはないし、昔は嫌いだった家も、今は嫌いじゃない。 ………保健体育の教科書のせいで、あの授業のせいで、あの人のことを意識したんだと思ってた。けど。 ガラ、と引き戸の扉を開けて帰宅すると、パタパタとスリッパの鳴る音がして、が出迎えにきた。「おかえり焦凍くん……どうかした?」首を傾げるその姿を見つめてから視線を俯ける。 「また、告白された」 「また!? そっかぁ。モテるって大変だなぁ」 玄関のつっかけサンダルでこっちまでやって来て頭を撫でた手を握り締める。 最初は俺より大きな手だったのに、今ではもうそんなに変わらない大きさになった。指の長さはなんか負けてるけど。「なぁ」「ん?」「人を好きになるって、どんな感じなんだ」「え。んーえーと」視線を上げて表情を窺うと、アッシュブルーの瞳は言葉に迷うように天井の木目を見ている。なんか、逸らされてる気がする。「苦しい、のと、甘い、かなぁ」「…?」苦しいのと。甘い。例え方の意味がわからない。 ぽん、ぽん、と頭を叩かれる。視線は逸らされたままだ。 「思い出すと、胸がどうしようもなく苦しい。一緒にいた時間は、甘くて溶けそう。そんな感じ?」 ……そうか。そういうもんか。そういう人が、いたのか。この人にも。 俺だって、あんたが兄たちに取られてたら胸がムカつくし、できるだけ一緒にいたいし、あのキスだって嫌じゃなかったのに。 (あ? それってつまり) 何か、頭の引っかかりが取れそうな気がしたけど、俺はそれを知ってはいけない気もした。 知ってしまったら、もう戻れない気がした。 ぱ、との手を離して靴を脱ぎ散らかし、「こら揃えなさい」という声を聞きながら部屋に逃げ込んで襖戸を閉める。 その日以降、俺にとって保健体育は地獄の時間になった。 教科書に載っている男女の体の断面図。器官と機能の説明。嫌でも性を突きつけてくる教科書を睨みつけながら、思い出すことといえば、あの人とした苦いキスのことだ。思い出す度に唇を擦ってたら荒れてきたから、最近はリップクリームを携帯するようになった。 味のしないそれを唇に塗って、赤ちゃんができる仕組みを説明している教科書を睨みつけ続ける。 日本の性教育は古い、時代遅れだってのは知ってたが、イマドキ男女の関係前提でのコトしか載せてないってのはおかしくないか。 確かに生命体としての基本はソレなんだが、イマドキはジェンダーレスとかいろんな考え方があるだろ。そういうことを一切考慮してないこの教科書はどうなんだ。 パラパラと先の方までめくってみたが、始終男女の関係についてしか触れていないコレは、俺の知りたいことは載っていそうになかった。 俺は自分のことを誤魔化し続けた。それが一番波風立たない道だと信じて、自分の気持ちに蓋をし続けて、中学二年になった。 は態度がぎこちなくなった俺にも変わらず接してくれる。優しい。それが、辛い。 本当は素直にこの想いの丈を吐露したい。 だけど誤魔化さなくちゃ。にここでずっと仕事をしていてもらうために、俺は自分の気持ちに蓋をしなくちゃ。優しいあの人を困らせないように。 (には好きな奴がいる。思うだけで胸が苦しくて、甘くて溶けそうだって思う相手がいる。それは、俺じゃない) ……あの人が言っていたことの意味が今頃になって理解できた。 のことを考えるだけで息苦しい。あの人に好かれてる奴のことを殺したくなってくる。それが俺であってほしいと苦しいほどに願う。 あの人が笑いかけてくれるだけで、頭のどこかがふやけて、ネジが外れて、溶けそうだ、と思う。このまま溶けてしまいたい、と思う。そういう気持ちを顔に出さないようにするのに苦労する。 そうやって息苦しい生活を送っていたある日。「あのね、くん」と姉の声がして、喉が渇いたからとキッチンに入ろうとしていた足が止まった。 あれ。姉さんて、のこと名前で呼んでいたっけ。 なんとなく隠れて様子を窺うと、キッチンではいつものようにが夕飯の下ごしらえをしていて、その隣に姉さんがいた。今日は先生の仕事が早く終わったのか、の炊事を手伝ってるようだった。 二人の距離がお互いの肘が触れ合うくらい近いことに、なんだか胸がムカムカしてくる。 姉さんとなのに。家族が二人、並んでるだけなのに。 「考えて、くれた?」 「はい。お気持ちは嬉しいですけど……俺には応えられません」 「どうして? 父さんが怖いから?」 「あの人は、怖い人ではありますが。そういうことではなくて」 聞こえてくる会話にぎゅっと強く両の拳を握る。 俺が黙っていれば、それで今までどおり。そんなふうに思ってたけど、違った。こんなに近くにのことを想ってる人がいた……。 ここからじゃの背中しか見えないけど、きっと優しい顔をしてるんだろうってことは簡単に想像できる。「俺にも、好きな人がいて」「えっ」「いるんです。だから、冬美さんのお気持ちには応えられません」俺がいつもそうやって誰かの告白を断るみたいに、は姉さんの気持ちをやんわりとした言葉で、でもはっきりと、断った。 渇いた喉のまま自室に逃げて、今聞いてしまった会話を反芻しながら畳の上に座り込む。 (知らなかった。姉さん、のこと好きだったんだ) いや、まぁ、そうか。普通に考えれば、轟家に偏見の目を持たずここまで仕事をしてきてくれた男のことを好きになるのは普通か。親父に屈せず、いつだって優しくて、いつだって応援してくれて、いつだって支えてくれた。一度も俺たちを裏切らなかった。そんな人を好きになるのは、普通か。 じゃあ、普通なのかな。俺のコレも。 あの人とキスしたいって思うのも、触れてほしいって思うのも、普通かな。普通なのかな。 あの人のことばっかり考えて勃起しちまうのも、普通なのかな。 「くそ」 ぼやいて、部屋着のジャージを見下ろす。デカくなっちまった。ムズムズするしちょっと痛ぇ。 これに触って抜いたら負けだと、そのうち治まるからと、ずっと無視してきたけど。もうそれも無理かもしれない……。 その日、何も知らない聞いてないって顔で夕飯に顔を出すと、いつも通りのといつも通りの姉がいて、二人とも本当にいつも通りで、なんでもないことで笑い合っていて、さっきあんな会話をしてたなんてことは微塵も感じさせなかった。 二人とも大人だな、なんて思いながら自主練に励んで自分の気持ちを誤魔化して、風呂に入って早くに眠ったその日。夢を見た。 夢の中で、俺はあの人とキスしてて、触ってほしいと思う場所を長い指が弄んでいて、それを気持ちがいいと感じてる自分がいた。 夢中でキスをして、舌と舌を絡めて、何回でも吐き出すのに何回でも勃起する俺にえっちだなぁと囁く甘い声。 ぞわりと背筋が粟立って、目が醒めた。「はっ、は、」荒くなってる息で布団を跳ねのけると、白くて粘っこいモノでアンダーが汚れていた。 ぐしゃ、と前髪を握り潰して、思う。 (もう、無理だ) |