あんまり目をつけられない方向で、うまくやれ。
 もう一人の俺が言っていたことを守って『余分なこと』はしてこなかった俺だけど、ときどき、ヴィランであったときの夢を見る。世話をさせられ続けた弔のこととか、邪悪そのものだった先生のこととか、ろくでもない研究を続けてた博士のこととか。
 そういう夢を見たあとは、時間のない朝であろうと決まって煙草を吸ってしまう。
 ライターで火をつけた煙草を銜え、轟家の敷地の隅っこで白い煙を吐き出す。
 ………俺って人間がいなくなっても、代わりはいくらでもいるだろう。
 先生の悪意は止まらないだろうし、弔はあの道を進んでいる。たくさんの手をつけて、今もどこかで誰かを灰にしている……。
 あんまり、考えないようにはしてるけど。この世界でもヴィラン連合は結成されるし、雄英の一年生は狙われるんだろう。
 焦凍にそれとなく進路について訊いたらやっぱり雄英で、推薦枠を狙ってたし。俺の人生が変わっただけで、世界の大筋は前と同じように進むんだと思う。
 あんまり目をつけられない方向で生きるのなら、ヴィラン連合に対して、俺は行動を起こすべきじゃない。
 先生によってどれだけの個性が奪われどれだけの人間が死んでいるか。博士によって死人から脳が取り出され利用されているか。知っているからこそ、見ないフリはなかなかに堪える。……そのせいでこうやって夢を見たりするんだろうけど。
 俺は手を下してない。だけど見殺しにはしているわけだ。

「はぁ」

 煙を吐き出して携帯灰皿に吸殻を押し込むと、ざりざりとサンダルが砂を踏む音がして、紅白頭の焦凍がやって来た。眠そうに目を擦っている。「、ご飯」「はい。ごめん、用意する」慌てて立ち上がる俺をぎこちなく見上げた焦凍が色の違う両目を眇める。「なんか、あったのか」と。
 あの夜から俺に対してさらにぎこちない態度になりながらも、こうして細かいことに気付く焦凍は、俺のことをよく見てる。「何も」笑って返しながらやっぱりデカいなと思う家まで走り、急いでキッチンへ。
 その朝はいつもよりバタバタっとしながらも、無事全員のお見送りを終了。今朝も仕事した。
 食器を洗ってきれいにしたあとは、ゆっくり吸えなかったし、と縁側で本日二本目になる煙草を味わって吸う。
 昔は体駄目にするまで吸い続けたけど、今は一日の最大本数を決めてる。同じ轍は踏まない。
 今日も晴れてる冬空に向かって白い煙を吐き出したとき、ガラガラ、と玄関の引き戸が開く音がした。「ん」宅配のピンポンはなかったし、鍵はさっき閉めたはず。焦凍が忘れ物でもしたのかな。
 まさか、この轟家に限って泥棒ってことはないだろう。雄英みたいに資格を持ってないと警備システムが鳴る仕組みにはなってるし。
 焦凍だろうな。忘れ物でもしたのかな、と思いつつ煙草を吸ってると、とたとたと足音。



 思ったとおりの焦凍の声に視線を上げると、なんかお腹を押さえている。「痛いの?」慌てて煙草をもみ消して携帯灰皿に突っ込む。「いたい」「あー、まずはトイレ行っておいで。学校には俺から電話しておくから」携帯で時刻を確認しながら焦凍の中学校の電話番号を呼び出す。

(今朝変なものは出してないし食べてないはずだけど。そういう胃痛じゃないとしたら、ストレス、的なものかな。お年頃だし、そういうことだってあるよな)

 深くは考えずに学校に電話し、話が早いから熱があるってことにしておいて休みを確保。
 中学生だもん、焦凍にだって学校サボりたいときはあるさ。
 とりあえず、痛いなら冷やさないようにあったかくした方がいいか。焦凍は自分の個性でなんとかできそうだけど、視覚的にもあったかい方がいいだろうし。
 大きいブランケットを用意して、やかんでお湯を沸かして白湯にする。
 トイレから戻ってきた焦凍をブランケットで包んで白湯の入ったカップを渡すと、大人しく中身をすすり出した。「まだ痛い?」両手でマグカップを包んでちらりとこっちを見上げてこくんと頷く姿がくそかわ。じゃなくて。
 俺が抱き締めたところでマシにはならないだろうけど、と思いつつ、放っておくこともできなくて、背中側から焦凍のことを緩く抱き締める。

「学校は休みにしてもらったから、今日はゆっくりしなさい」
「……
「ん」

「ん? 聞いてるよ」

 片手でお腹の方をゆるーくさすって、もう片手で紅白の髪を梳くと、たっぷりした間のあと何か言われた。でも小さな声すぎて聞こえなかった。「ごめん、なんて?」焦凍の口に耳を寄せると吐息がかかって、それだけでちょっと背筋がムズムズする俺は落ち着くといい。

「今日、一緒にいてくれ」

 囁く声にごくりと生唾を飲み込む。
 体調が悪いからか、素直だな。おかげで俺は背筋のムズムズが治まらないけど。
 理性を総動員していつもの顔でもちろんと答えて、今日の家事は最低限にシフト。したはいいんだけど。なぜ焦凍は俺の膝枕をねだって、あまつ、こっちを見上げているのか。
 せめて俯瞰視点で轟家の修繕ポイントとか見つけておこうって思ってたのに、全然集中できない。俺の未熟者。
 焦凍は何も言わない。ただじっと俺のことを見てる。
 ………こんなに見つめ合ったことって、あったかな。なかった気がするな。
 やっぱりきれいな目をしてるな、焦凍は。
 左右で色の違う両目から視線を剥がせない。
 焦凍の唇が薄く開いて、伸びた手が俺の頬を撫でた。「今朝、変だった」「……俺のこと?」「ん」頬に添えられた手に手のひらを重ねる。出会ったときは俺の方が大きかったのに、すっかり同じ大きさだな。
 今朝の夢。俺がヴィランだった頃の悪夢を思うと、苦く笑うことしかできない。「夢見が悪かったんだ。嫌な夢だった」今もどこかで蠢いている悪意。それを知っているのに何もしていない自分。そのことへの罪悪感。
 焦凍がのそりと起き上がって、起きたかと思えば俺に顔を寄せて、キス、してきた。そのままぎゅっと抱き締められて思考が固まったまま動かない。

「俺がいる。

 耳元で囁く声に体中がぞわっとした。
 名前。そういえば呼ばれたことなかったな。いつも、先輩、先輩ってそればっかりで。
 呆然としている俺に焦凍が不器用なキスをしてくる。何度も、何度も。慰めじゃなく、好意がなきゃここまでできないだろってくらいに何度でも。
 首筋に埋まった唇が鎖骨をなぞるのがこそばゆい。

(待て、ちょっと待て。頭、動け)

 焦凍の手がなんでか俺の仕事着のシャツのボタンを外している。「ちょ、と、待った。焦凍」どう考えても脱がそうとしている焦凍の手を掴んで、その手が微かに震えていることに気付いた。それに勃起してる。
 ここまでくれば俺にも察することができた。
 中学二年生だっていうのに、焦凍は俺を誘ってるのだ。不器用ながらもせいいっぱいに。

「他の奴じゃなくて、俺のこと、見てくれ」

 ……どういう思考でその考えに至ったのかはわかんないけど。焦凍に涙目で請われて我慢できるほど、俺は大人じゃないらしい。
 だいたい俺はお前のこと以外見てないし。轟家のことを考えることはあっても、根っこにはいつもお前がいて、結局お前のことしか考えてないようなもんなのに。
 初だな、かわいいな、なんて思いながら一生懸命な焦凍にキスをする。「じゃあ、お腹痛いのはもういいんだね」「……口実だから」痛くないならよかった。
 このままだと手ぇ出しちゃうな、と思いながら焦凍のことを畳に倒して、中学生だって証の制服に手をかけた、ところでガラッと勢いよく玄関の引き戸が開く音がしてぴゃっと飛び上がる。この開け方は。

はいるか」
「、はいっ」

 炎司さんの声に玄関に飛ぶように駆けて行けば、ヒーロースーツを着たエンデヴァーがいた。なんか機嫌が悪そうだというのは雰囲気でわかる。「何かありましたか」つい今しがた焦凍に手を出そうとしていた俺の心臓はもうドッキドキである。
 しかし、炎司さんがそこまで知る由はなく。家に寄ったのは別件だった。「貴様、仮免を持っていたな」「はい」去年、何度か落ちてようやく取った。資格は取るだけ取っておこうと思って。「俯瞰の視点での視察で間違っていないな」「はい」「よし。ならば来い。お前の個性が必要だ」有無を言わせずくるりと背を向け歩いていく姿に、冬だからコートだけはと部屋に取って返し、拗ねた顔で膝を抱えてる焦凍に「ごめんね、行ってくる」とだけ声をかけて轟家を飛び出す。
 ……正直、これ以上ないタイミングで割って入った炎司さんにはちょっとだけ感謝だ。おかげで中学生に手を出さずにすんだ。