最初の頃よりは世話がかからなくなった弔は、ときおり、夜に俺の部屋に転がり込んでは「痒い」と体を掻きむしった。
 弔はストレスを感じると痒みに繋がるらしいというのはもうわかっているから、ここでの問題は、何をストレスと感じているか、だ。

「……そこで転がってると寒いよ。ほら」

 床に転がって痒い痒いとうるさい弔へと布団を持ち上げてベッドの隣を叩くと、転がり込むように入ってきた。それでまた「痒い」と言うもんだから、そのストレスのもとを除こうと、俺は弔のことをなるべくぎゅっと抱き締めた。「かゆい」「痒くない」「かゆい」「痒くない」「…かゆい」「痒くない。寒くもない。一人でもない。さみしくもない」ぽん、ぽん、と弔の背を叩きながら、自分の方も目を閉じる。
 どれだけ強くて厄介な個性があったって、弔は子供だ。子供が夜一人でいるときに望むものなんて知れている。
 そのうち、目元を引っかいていた弔の指の動きが鈍くなって、ぱたっと止まって、そのまま寝た。
 そうしていると、アトピーとかで皮膚に病があるだけの、普通の子供に見えた。
 それでもその両手は凶器の手で、触れたものを瓦解させる。生き物でも、無機物でも、平等に。

(お前のことはさせないよ。その前に殺してやるから)

 頭に響く余計な声を振り払って、俺も眠ろうと目を閉じた。
 そうやって、何度となく俺の部屋にやってくる弔の面倒を見ているうちに、弔は自分の部屋じゃなく俺の部屋で寝るようになった。一人で眠るということを諦めたのだ。しかもそれはいわゆる思春期と呼ばれる年代になるまで続いた。
 この年齢にまでなれば、先生のもとを離れて一人で生きていくことも可能だった。
 ただ、心理的にそれを不可能にしていたのが、自分の手だった。
 血で汚れた真っ赤な手と、足元の真っ赤な道。
 真っ当に生きるにはこの両手は汚れすぎてしまって、この体は血を浴びすぎてしまって、とてもじゃないが、今更世間に混ざるような資格はなかった。ないと思ってしまっている時点で俺にその道はなくて、だから、今もまだ先生のもとにいて、弔の面倒を見ている。
 その弔が、部屋着であるスウェットの股間を指して言うのだ。

「最近さぁ、俺のちんこ変なんだけど」

 ……弔が知っている者も物も少ない。たいていそばには俺がいた。そうやって思春期にまで突入したわけなので、当然、そういう話の相手もしなきゃならなかった。「はぁ…」思わず溜息も出るってもんだろう。
 あまりにも率直で、あまりにも突っ込んだ話。それでもそんな話の相手もしなきゃならない。
 それが病気じゃないこと、男子として成長していく過程で誰もが経験するものであることを説明して、対処法として実際に勃起している弔のを手のひらを使ってしごいてイかせてやると、なんか、変な顔をしていた。

「今、何思ってイった?」
「あ? なんで」
「誰でもいいけど、その誰かのこと考えながら気持ちいことすればいいんだよ。それだけ」

 弔の精液でべたついた手をティッシュでぞんざいに拭う。
 話のついでだ。ついさっき先生から聞いた話を弔にもしておこう。

「俺、別件で仕事ができたから。週末くらいしか顔出せなくなるよ」
「はあぁ?」
「せんせーの命令」

 ぴ、ときれいに拭った指を向けると弔が口をへの字に曲げた。「なんだよそれ。聞いてない」「今言った。俺もさっき聞いたところ」「仕事って何」「潜入調査だよ。ヴィラン連合、立ち上げるための下準備」先生曰く、もう一息で倒せるというオールマイトという善人。彼にトドメを刺すにふさわしい人材を見繕うため、あとは市場調査なんかも兼ねて、俺は中学生としてやっていかなくてはならないらしい。まったく面倒な話だ。学生なんて。
 俺の戸籍とか履歴とかは先生が誤魔化すんだろうし、童顔だからバレないだろうけど、面倒だなぁ。誓約と仮面を被って過ごす学校生活は……。
 この春からの面倒事を憂いていると、拗ねた顔をしていた弔がずかずかこっちに歩いてきて俺の腕を掴んだ。それで何するのかと思えばベッドに放られるように倒された。いって。
 そのまま覆い被さるようにベッドに上がってきた弔に目を眇める。「何」「さっきのセイツーだろ」「そうなるね」「じゃあセックスできるわけだ」「……はぁ?」何を考えてるのかわからない弔の顔を半眼で睨んで、眉間に寄った皺をもみ解す。気のせいか頭が痛いぞー。
 弔は至極当たり前のことを言うように「セックスしてみたい」とか言う。この俺相手に。

(殺すか?)

 頭の中の声が珍しく怒気を帯びている。
 どうどう、犬にするように声を投げながら、「俺もお前も男だよ」とりあえずそこの確認から入る。弔は馬鹿にするなとばかりにベッドを叩いた。「知ってるっつの。男同士でもできんだろ」「どちらかが受け入れる側になるなら、ね。言っとくけど俺はしない」どうせ弔だって挿れたいってだけなんだろうし、そういうのはオナホ相手にやってもらいたい。
 話はこれでおしまい、おかしなことになってもう一人の俺が短刀を振り回す前に逃げようと思ったら、弔が何か言いかけて顔を俯けた。「…が」「ん?」「お、れが、やる」「……ん?」はて、と首を傾げる。弔は今なんて言った? 俺がやる? 何を。………もしかして、セックスの、受け入れる側を?
 普段は尊大な態度で他人を下に見ることしかしない弔が縋るような目でこっちを見ている。「俺が、する。お前が、抱く。それなら?」……それなら。もう一人の俺がブチ切れることはないだろうけど。さ。
 果たして、俺は弔相手に勃つのか、という問題がある。
 今まで手のかかる面倒な子供として相手をしていた。正直、そういう目で見たことは一度だってない。
 でもたぶん、気合いで勃たせることもできるだろ。じゃないとベッドが藻屑になりそうだし。
 自分の感情を吐露したことがストレスになり、個性を発動しかけている弔の手に手のひらを被せると、びくっと震えたあとに崩壊が治まった。布団の一部に穴が開くことにはなったけどそれですんだ。
 初めてのキスが、ずっと面倒を見ていた子供とだとは。……我ながら、人生、ツいてない。
 かわいいともかわいくないとも言えない弔の白っぽい髪を撫でて、したことはないけど頭の中に補完されている知識を紐解いて、人体が感じる場所というのを指と舌で愛撫していく。
 俺の童貞というのはそうして奪われて、以降、ずっと、奪われ続けている。
 週末、中学生という作業から戻ればセックスをねだられ、抱かされ、気絶するまでシたあとの始末は最近やって来た黒霧という男に任せ、建物の屋上に逃げて、ようやくの自由な時間を煙草を吸って自堕落に過ごす。

(なんで付き合ってやるんだよ。好きでもないのに)

 セックスのことを言ってるんだろう、頭の中の声に別にと淡白に返す。
 俺だって男だ。発散先は必要で、それがオナホかオナニーかセックスか、その違いってやつ。別にどれだって構わない。ただ、抱いてくれって弔が言うから抱くだけ。それで俺もスッキリするならウィンウィン。じゃあそれでいいだろう。性欲なんてさ。
 白い煙を吐き出していると、かわいそうになぁ、と頭の中で声がする。オレだけはお前を愛してやるからな、と声がする。
 別に、自分に愛されても嬉しくない。虚しいだけだ。

「……はぁ」

 屋上の欄干にごつんと額をぶつけ、銜えた煙草からぽろりと落ちた灰を見つめる。
 愛のないセックス。肺を黒く染めるだけの煙草。増え続けるヴィラン。一度は敗北したとはいえ諦めの悪い先生。その次の駒になりつつある弔……。
 世界は醜い。
 救いがない。報いがない。そういう言葉だけが存在して一人歩きしているだけ。
 唇の端をつり上げて自嘲気味に笑う。
 ああ、なんてくだらない世界。