世界に『保証』なんてない。
 未来があるという保証も、今度こそ大丈夫だろうという保証も、何一つだってありはしない。
 二度目の人生で再び弔に出会ってそのことを痛感した俺は、もう完成していた黒霧と、完成が近いだろう脳無のことを思いながら、思い出せる限りの過去を紙にまとめることにした。
 先生のこと。博士のこと。弔のこと。知っている限りのヴィラン関係者。これから連合に入る奴ら。
 たとえば、もう一人の俺が望んだように大人しく生きていたとして。このままいけばヴィランは活気づき、雄英とオールマイトは狙われ、ヒーローを目指す焦凍も巻き込まれる。
 最悪、先生の手によってヒーロー社会は崩壊するだろう。
 今から動くには遅すぎるかもしれない。それでも、何もしないで後悔するよりは、何かをして後悔したい。

(何にもしないで終わるのは、もうたくさんだ)

 轟家の使用人としての仕事が終わってからの時間は一応俺の時間ってことになってるから、焦凍が来ない日は机に向かってペンを動かした。遠く感じる己の一度目の人生という過去を、過ちしかない日々を掘り起こし、憑りつかれたようにひたすらに文字を綴り続けた。
 イマドキなんで紙とペンなのかといえば、先生のチート級の個性を思ったからだ。
 先生がそういった個性を持っていないとも限らない。電子の海に情報が洩れるかもしれない端末は使うべきじゃない。原始的に、紙に文字を綴って、自分の部屋の金庫に保管した方がまだ安全だ。
 そんな作業がひと段落した休日の午前中、ふと我に返った。
 たとえばこれを炎司さんに渡したとしよう。
 あの人のことだから、この中身について俺に問い質すだろう。それに無難に答えたとしよう。それで、どうなる。どれだけのヒーローが動いてくれる?
 あの夜に会っただけの異様な外見をしたヴィラン風の二人組。焦凍が証言を手伝ってくれたとしてそこ止まり。俺たちに見えないところで被害者が出ているなんてこと、訴えたところで……。

「…時間が……」

 書き出した文字を眺めていると、時間がないな、ということを実感した。
 轟焦凍という人間を原動力としてここまでやって来た俺だけど、一度目の人生を終えた時は刻々と迫っている。
 一度目とは違う人生を生きた。だからきっと未来も変わる。死に方も、死に時も。……そう思いたいだけかもしれないけど。
 まとまらない思考に、顔でも洗って目を覚まそうと洗面台の前に立って、そこで初めて自分の顔色に気が付いた。我ながら酷いな。そりゃあ最近こっちを窺う視線が多くなるし、炎司さんにさえ声をかけられるはずだ。
 顔をきれいにしてからキッチンに行くと、宿題してたらしい焦凍がぱっと顔を上げた。「」椅子を蹴飛ばして立ち上がった焦凍がぎゅっと抱きついてくるのがかわいい。「大丈夫か」中学生のまだ丸い瞳で見上げられてぐっとくる。
 ……ああ、最近、そういう心の余裕もなかったな。そんなことを思いながら笑う。
 未来に猶予がないかもしれないと思い知って焦凍のことを抱いた。正直、急かされていた、と思う。それでもできるだけ大切に、丁寧にしたつもりだけど。
 大丈夫かという言葉にお世辞でも大丈夫と返せない自分が弱い。
 俺にはもう力がない。ただ俯瞰風景を視る個性しかない。
 未来を知っているのに、それに抗うだけの力がない。
 たとえば今から炎司さんに鍛えてもらったとして、それでヴィラン連合と渡り合えるのかも怪しい。
 ………もしかしたら、この人生も駄目かもしれない。そんな仄暗い気持ちを自分の奥底に沈める。
 せめて焦凍の前でだけは笑っていたい。年上らしく頼れる人でありたい。

「コーヒー淹れるけど、飲む?」

 こっくり頷いた焦凍が離れないから、引っ付いてくる焦凍を連れてコンロの前へ行き、やかんに水を入れて火にかけ、左右で色の違う髪を指で梳く。やわらかくてさらさらしてる。「なんか、勉強。終わったのか」俺がずっと書き物をしてることを気にしてた焦凍にはそういう言い訳をしてたんだったっけ。「うん、おかげさまで。寂しかった?」少し意地悪するつもりで小さい唇にちょんと指を当てると、ぱく、と食べられた。ちゅうちゅう吸いながらこくりと一つ頷く焦凍にまたぐっとくる。
 後輩だった焦凍もかわいいところはあったけど、まなじ距離感が近いだけに、今の焦凍は色々と心臓に悪い。
 左右色の違う髪を梳いて、じっとこっちを見上げている瞳と目を合わせて、気がすむまでキスをしたいところだけど。そういうわけにもいかない。焦凍は午後から炎司さんといつもの個性特訓がある。あの人も家にいる。これだけくっついてるのだって本当はアウトなんだ。これ以上はできない。
 二人分のカップを用意してコーヒーを二杯分入れ、焦凍のにはあたためた牛乳をたっぷり加える。「はい」「…ん」俺の手に手のひらを被せてカップを持った焦凍がそのままずずっと中身をすすって上目遣いでこっちを見てくるのが。ぐっとくる。この感覚今日何度目だ。

「昼、親父が寿司の出前にした」
「え」
「……お前、ずっと部屋だし。アレでも気ィ遣ったんだろ」

 ぼそっとした声に参ったなと指で頬をかく。今からご飯を作るつもりが……。
 というか、俺、傍から見てそんなに根詰めてる感じだったのかな。ちょっと反省だ。
 炎司さんが気を利かせて頼んでくれたお寿司の出前を、夏は部屋で食べるといって自分の分を持って行ってしまったから、俺と焦凍と冬美さんと炎司さんの四人でいただいた。
 午後、焦凍が俺のことを気にしながらも炎司さんとの個性特訓に向かったから、冬美さんと二人でキッチンで後片付けをする。

くん、もう大丈夫?」
「……なんか、すいません。みんなに気を遣わせてしまって。大丈夫です」

 彼女の気遣いに俺は苦笑いで応じた。この分だと夏もなんだかんだと気にしてそうだな。
 気づかわしげな視線と目が合うと「そりゃあそうだよ。家族でしょ」と言われた。一度は恋人になってほしいと告白された人から。
 その言葉に深い意味は、あるのか、ないのか。
 あったとして、俺は気付かないフリをしなくちゃいけない。焦凍の手を取った以上どんな好意にも応えることはできないし、希望も、持たせちゃいけないと思うから。
 轟家で過ごすのもそろそろ五年目になる。そういう意味では俺も『家族』と言って差し支えない人間にはなれたのかもしれない。少なくとも『赤の他人』ではないと思う。
 ありがとうございます、と笑いながら出前寿司の容器をきれいにして布巾で拭い、返却のための袋に入れて門前に出しておく。あとで勝手に持って行ってくれるだろう。

(牛乳が切れそうだったな。ハーブ系もなくなりそうだし、ちょっと買い出しに行こうかな……)

 冷蔵庫を覗いて食材や調味料をチェックしてメモする。
 そこまで買わないし、今回はネットスーパーじゃなくてもいいか。
 最近ずっと部屋にこもっていたし、気分転換に外へ買い出しに行こう。
 二月になって、新年ムードも落ち着いたところでやって来る大きなイベントといえばやっぱりバレンタインだろう。
 どこへ行ってもハートマークとチョコレートを見かける季節になったなぁ、なんてしみじみしながらポケットに手を突っ込んで歩き、電車に乗ってデパ地下へ。
 メモした食材をカゴに入れながら、チョコレートの特設コーナーに目を向ける。
 デパートだから手作り品のコーナーはあまりなくて、一箱千円くらいの無難な値段のチョコレートからゴディバまで、色々取り揃えている。
 炎司さんはイベントごとには全然こだわらない人だし、夏はもらいはしてもあげるとは考えてないし、冬美さんは、毎年のように家族分用意するんだろう。
 焦凍は……どうかな。去年は俺が作ったガトーショコラを複雑そうな顔で食べてたもんだけど。焦凍は何かくれるのかな。くれたら嬉しいけど、受験を控えた中学生なわけだし、あまり期待はしないでおこう。
 去年は轟家の人全員にガトーショコラを配った。今年はどうしようか、と考えながらデパ地下内を練り歩いて買い物をすませ、ちょっと休憩でお茶していくくらい許されるだろうと、移動販売車のカフェメニューからエスプレッソを注文。あたたかい紙コップをもらって、ずず、と一口すすった。熱い。
 まだ寒い二月始め、天気は曇り。
 今日が休日で、街がどれだけハートマークとチョコレートで着飾ってても寒いものは寒い。
 道行く人が足早に通り過ぎる中、一人エスプレッソをすする。目が冴えるくらい苦いや。
 景色に視線を逃がしながら、鞄にキーホルダーとしてついてる防犯ブザーを指で転がす。
 何かあったら押せと言われたボタンのついてるキーホルダーは焦凍に持たされた。弔と出会うことになったあの邂逅のあと、どうにも顔色の悪い俺を心配して、ないよりはいいだろうとこんなものを用意したらしい。
 かわいいことするよな、と思いながらキーホルダーを指で転がす。
 最近のは男がつけても変じゃないようオシャレなデザインをしてる。木目で肌触りもよくて、パッと見ただのキーホルダーにしか見えない。
 仮に弔とまた遭遇したとして、こんなブザー程度じゃ全然、意味ないだろうけど。なんにもないよりはいいのかもしれない。

「よォ」
「、」

 そんなことを思っていたからだろうか。聞きたくない幻聴まで聞こえてしまった。
 上げた視線の先。今日は無数のあの手をつけてない、冬らしいコートを羽織った弔が首をぽりぽり掻きながらそこに立っているのを見た俺は、キーホルダーのボタンを押した。ブザーのような音は何も鳴らなかった。あ、そういえばこれの使い方とか聞いてないし、試しに使うこともしていなかった。しまったな。
 今更なことを思いながらエスプレッソのコップを脇に置く。
 死柄木弔という人間を、俺はよく知っている。
 あの日。二度目の人生で邂逅してしまったとき。なるべくその記憶に残らないよう振舞ったつもりだったけど、俺か、焦凍か、どちらかの何かが弔の中に残ってしまったらしい。だから今そこで首を掻きながら立っている。人混みを鬱陶しいと感じながら、それよりも気になること、あるいは気に入らないことがあるから、確かめて、最終的には壊すために立っている。

「俺にもなんかくれよ」
「……そこのでいいなら買うけど。何がいいの」
「苦くないやつ」

 とりあえず、弔の機嫌を損ねないよう言われるままに飲み物、ホットのカフェラテを注文。俺と弔が友達か何かだと思っているんだろう、にこにこ笑顔のお姉さんから紙コップを受け取る。
 急に灰にされることはないだろうけど、その手と触れ合わないよう注意しながらコップを渡す。
 一口中身をすすった弔はべっと舌を出した。ああ、そういえば猫舌だっけ。「あちィ」「…蓋開けてれば。すぐ冷める」仕方なく蓋を取ってやると、弔の赤い目がこっちを見ていることに気付いた。
 しまった。前の癖でつい自然と手を出してしまっていた。今ここにいる弔にとって俺は初対面同然の相手なのに。馴れ馴れしいの、弔は大嫌いのはずだ。
 蓋を握ったまま手を引っ込め、自分のエスプレッソをすする。……弔の視線はまだ俺の横顔に突き刺さっている。「お前さぁ」「ん」「なんで驚かないわけ」それは、何に対してだろう。お前が俺を探し当てたことにか。それとも、お前の移動手段について?
 俺のことなんて先生がその気になればすぐわかっただろうし、移動についてなら黒霧のワープの個性だ。俺はそれを知っているし、言われるまでもなくわかっている。普通なら疑問に思うべきところを納得してしまう。思ったより、ボロが出てる。
 これ以上ボロが出る前に弔の前から逃げたい。それが叶うような状況じゃないけど。
 俺が足元に置いてる紙袋に今頃目をやった弔がそれを蹴倒した。牛乳、生のハーブが入ったパック、果物、茶葉なんかが散らばる。「へぇ。いいもんばっかじゃん」「……そう思うなら蹴るなよ」転がった食材に手を伸ばして紙袋の中にしまい直す、その手に、弔の骨ばった手が重なった。瞬間、この寒いのにじわっと手のひらに汗が滲む。
 弔がそうしようと思えば、俺は灰になる。
 前の人生なら、そんな心配はしなくてよかった。それくらい弔にとって俺がいることは日常だったし、欠けたら困る存在だった。だけど今は違うんだ。最悪、弔の気紛れで灰になる。
 背中にまで冷や汗を感じてきた俺を弔が覗き込んでくる。面白いオモチャを見つけた子供みたいな顔で。

「なァ、何固まってんだよ。拾えば」

 ………試されている。
 弔の気紛れがどう出るか、わからない。わからないけど、弔の個性を知っていないフリで動かなくては、弔はこのまま俺を連れて行くだろう。新しいオモチャとして。
 覚悟を決めて唾を飲み込んだとき、「伏せろ!」と知っている声が降って来た。反射で頭を下げた俺と、距離を取った弔の間に氷のつららが降ってきてコンクリートの地面に突き刺さる。
 空から降って来たのは焦凍だった。
 俺じゃ無理なこと。地上と空の境界線を簡単に超えて現れた姿が冬の澄んだ空に輝いていて、状況も忘れてその姿に見惚れた。
 左の、絶対に使わないと言っていた炎を使って空を飛んでここまで来た焦凍は、不慣れながらも着地を決めると俺の腕を掴んでその場を跳んで、飛んだ。「わっ」飛びはしてるけど慣れてないみたいで、炎の出力も速度も安定してない。
 振り返った視界の先では、拾い損ねた紙袋と、もう遠くて小さい弔がこっちを見上げているだろう姿がある。
 俯瞰の視点でその表情を確認するまでもない。

(ああ、これで、弔はまた俺に執着するな)

 駅一つ分離れたビルの屋上に転がるような着地をした焦凍に、俺はといえば見事に転んだ。カッコ悪くずっこけた。空を飛ぶのも初めてだし、鍛えてない俺に着地なんて決めようがない。「いへ…」手とか擦りむいた。痛い。
 不慣れ故だろう、顔の左側から炎を出していた焦凍が左手で顔や髪を拭って、ようやく火は消えた。
 はぁ、と息を吐いたと思ったらがしっと俺の両肩を掴んで、擦りむいた手以外に怪我はないかと忙しなくあちこちに視線をやる。

「大丈夫か。変なことされてねぇか。すぐ飛んできたつもりだけど」
「ああ、うん、セーフ。だと思う」
「そうか……」

 よかった、とこぼした焦凍が肩の力を抜いて俺のことをぎゅうっと抱き締めた。少し震えてるその体を緩く抱き返す。「なんであの場所が?」「渡したやつ。ボタン押したらGPSがオンになって、俺の携帯に連絡来るように設定してあったから」マジか。それは聞いてなかったな。どおりで音が鳴らないわけだ。
 よかった、ともう一度呟いた焦凍が唇を押しつけてくる。
 安心する温度としばらく唇を重ねて、外だし、と顔を離して、代わりにおでこ同士をくっつける。

「炎。使うことにしたんだ」

 気になったことをぼやいてみると、焦凍の目が泳いだ。何度か口を開いては閉じてる間に焦凍の左手に緩く指を絡める。
 お前のお父さんの教育方針は、決して褒められたものじゃない。個性婚の事実も、決して褒められたものじゃないけど。お前がそれを乗り越えていけるだろうってことは一度目の人生で知ってる。ただ、それってもう少し先のことだったはず……。
 意を決した、という真剣な顔で俺のことを見つめた色の違う両目がきれいな色をしている。キラキラ、光、に溢れてる。

「前に訊いたろ。自分が死にそうになってても炎は使わないのか、って。
 答えはすぐ出た。……大嫌いな親父からの個性でも、使う。を守れるならなんだってやる」

 俺はお前を守りたいと言う焦凍の瞳がとてもきれいで、なぜだか涙がこぼれた。
 ………前の人生で。俺はお前を幸せにしてやることができなかった。
 今度は、幸せに。してやれるだろうか。幸せに、なれるだろうか。