平日、帰宅後も炎司さんの都合がつくようなら左の炎の特訓ために時間を費やすようになった焦凍は、中学を卒業する頃には俺の記憶してる焦凍よりも炎を使いこなせるようになっていた。
 今も、轟家の敷地の上で炎司さんと空中戦を繰り広げている、その姿をお茶の準備をしながら俯瞰の視点で見つめる。
 ………この春、焦凍は雄英高校のヒーロー科に入学した。
 一度目の人生。今年の夏で途切れた俺の人生は、その先にあったろう世界を知らない。
 ヴィラン連合があのあとどうしたのかも、オールマイトがどうなったのかも、ヒーロー社会が最終的にどうなったのかも、何も知らない。
 我ながら最悪のタイミングで人生を終えてしまったと思う。
 あのときはあそこで死ぬ以外にないように思ったけど、もう少し弔にへりくだって生きて先を見ていても良かった。死ぬことはいつだってできたんだから。
 弔、といえば。あの日、買い物の帰り道に遭遇して以降、俺は弔に会っていない。というか、会うはずもなかった。
 俺のことを心配した焦凍が炎司さんに『がヴィランに攫われそうになった』と申告してしまって、まぁ当たらずも遠からず……と思ってしまった俺は焦凍の言葉を否定できず。
 轟家から欠けたら痛い使用人となっている俺は一人での外出を禁じられた。買い物はネットオンリー。轟家の敷地から外に出るには炎司さんか焦凍の許可に、同行者がいる。
 その生活が少し、息苦しいといえば息苦しいけど。そこまでしたから俺は今日まで危ない目に遭わずに平和に息をしているとも言えるわけだ。

(時間がないなぁ)

 空を舞う焦凍と炎司さんを見上げながら、またそんなことを考えている。
 ………一度目の人生で俺がやってた役割。ヒーロー社会の情報集めとか潜入工作は誰かがやっているはずだ。俺が欠けたくらいでヴィラン連合はなかったことにはならない。先生と博士と弔がいれば重要な配役は揃っている。
 先生は今頃、俺の役を演じる誰かの雄英への入学を取り付けているだろう。それは俺じゃなくたって成り立つものなのだ。
 今頃誰かが。教師に赴任すると発表したオールマイトのことを嗅ぎ回って、そのスケジュールを把握して、ヴィラン連合に協力している……。

「お茶を淹れました。休憩にしませんか」

 縁側に正座して空に向かって声を張り上げると、炎司さんの攻撃を掻い潜った焦凍が下りてきた。たん、と足音軽く着地すると耐熱仕様なのに焦げてきている練習着を払いながら俺の隣に座り込む。
 その手に湯飲みとお茶菓子を預けて、空を飛び回って乱れてる髪を直してやる。「焦げてきちゃったね」炎司さんの熱でも耐えられる仕様のはずの紺色の練習着を指すと、焦凍が仏頂面になった。「避け切れてねぇってことだろ」俺の目にはそれだけには見えないけど、焦凍の感覚としてはそういうことになってるらしい。
 炎司さんが腕組みしながら縁側にどかっと腰かけたから、焦凍の髪から手を離して湯飲みを持ち上げて差し出すと、無言で受け取られた。炎司さんにとっては一口だろうきんつばを載せた小皿を差し出すと、これも無言でつままれ大口の中に消える。
 焦凍は別に、炎司さんの教育方針を受け入れたわけじゃない。今現在も入院しているお母さんのことも吹っ切れたわけじゃない。つまり、俺を挟んで座ってお茶をすする二人の間に会話はない。
 最初の方はそれが居心地悪くて背中が落ち着かなかったものだけど、今ではこの空気感にも慣れた。
 炎司さんは一口で食べたきんつばを小さく口にした焦凍がこっちを窺うような目を向けてくるのに、気付かないフリでお茶をすする。甘く笑いかけるのは二人でいるときだけ。今は駄目。

「……親父」
「む。なんだ焦凍」

 珍しい。焦凍から声かけた。炎司さんちょっと嬉しそうだ。炎の使い方で聞きたいことができたのかな。
 流れを見守っていると、焦凍が俺のことを指して「お母さんのお見舞いに行ってくる」と言う。
 ただ、その指は、俺も連れて行くってことを言いたいわけで。それで炎司さんの眉が面白いくらいつり上がっているわけで、俺は慌てて首を横に振った。「焦凍くん、俺はいいよ」「よくない。自分の代わりに家族の面倒を見てくれてありがとうって、直接言いたいって言ってた」「でも……」ちら、と炎司さんを窺う。
 焦凍のお母さん、冷さんは心を病んで入院した。そのとき焦凍の顔に火傷ができた。その経緯は聞いてる。炎を使うようになった焦凍がお母さんのお見舞いに行くようになって、だいぶ回復しているらしい、って話も聞いてはいるけど。
 炎司さんは開きかけた口を閉じた。できた間を濁すように湯飲みのお茶を一気に飲むと「好きにしろ」とぼやいて携帯を取り出し、かかってきたらしい電話に出るため「俺だ」と応じながら家の中に上がっていく。
 焦凍は何食わぬ顔できんつばを平らげて、粉のついた指を舐めていた。

「今のは?」
「ほんとのことだ。お母さん、に会いたいって」
「そっかぁ」

 轟家に勤めて長いけど、焦凍のお母さんと会うのは初めましてだな。
 お茶を片付け、仕事が入ったと出て行く炎司さんを見送って、いつも通りにご飯を作って、お風呂の準備をして、もろもろの後片付けをすませる。
 眠る前。次の休日、焦凍と二人で面会に行く予定を自室の紙のカレンダーにメモする。
 ………書き起こした記憶の文字。結局誰に渡すこともなく金庫の中で眠っているその紙片で、まず思い出すのは、雄英にとっては最初の事件ともなるUSJ襲撃のことだ。
 前は俺が焦凍にスケジュールを聞き出してヴィラン連合の計画に組み込んだ。

(今回は誰がどう情報を流したのか知らないけど、事は起こる。先生はそういう人だ)

 否応なく、世界は同じ流れを辿っていて、俺の終わりの刻は近づいていた。
 ヒーロー科の実技授業では怪我をしないよう充分気をつけるように、と言い含めて見送ったその日。起こらなければ理想だったUSJ襲撃事件は起こった。それは『世界の大筋は変わらない』という事実を俺に突きつけていた。
 怪我の一つもせず帰ってきた焦凍のことをめいっぱい抱き締めて、これでもかってくらいにキスをした。
 ……俺の生き方は変わった。だから轟家の使用人として焦凍と生きてきた。
 今のヴィラン連合に『俺』はいない。
 それでも『俺のような誰か』がいる。俺がしていた役割を演じる誰かがいる。
 世界の流れは知っている道を辿るだろう。
 ヒーローとヴィラン、保たれていた境界線を、先生は容赦なく突き崩していく。もとはあった顔で、今は潰れた顔で、管に繋がれながら笑っている。

 焦凍のお母さんのお見舞いに病院を訪れたその日の帰り道。
 少し遅くなるくらいなら疑われやしないからと、帽子を目深に被って顔と髪を隠す焦凍を連れてホテルに入った。どこでもいいと適当に部屋を選び、足早に歩く俺に焦凍がついてくる。
 自分でも急いているというのは自覚してた。それでもはやる気持ちを抑えることができなかった。
 あと何回、俺は焦凍を抱けるだろう。
 あと何回キスをして、あと何回抱き合って、あと何回笑い合えるだろう。
 部屋に連れ込むなりキスを仕掛ける俺に応える焦凍は一生懸命で、俺のコートのボタンを外しにかかっている。
 弔と比べたくなんてないけど、まだ、前の人生で弔を抱いた回数の方が多い気がする。
 白っぽい色の髪と存在を思考から追い出し、ベッドに転がって咲いた紅白色の髪を指で梳いて、唇を寄せてキスをする。

「好きだ」

 左右で色の違う、光を散らせて涙をこぼす瞳に、心からの言葉を贈る。何度も、何度でも。前の人生で我慢した分も含めて、何度でも。

「俺も、好き」

 応えて震える声と笑った顔を絶対に忘れないようにしようと脳裏に焼き付ける。
 シャツのボタンを外しながら、俺の人生の存在意義に指を這わせる。落ち着かなさそうにしている焦凍とキスしながら体のあちこちに触れて感覚を昂らせていく。
 焦凍がいなければ成り立たなくなってしまった俺の人生。一度目は酷いもんだったし、我ながら酷い終わり方だった。
 じゃあ、二度目は?
 本来ならなかったはずの二度目の人生。
 好意で与えられたこの人生で幸せになろうと決めて、そのために生きてきた。
 焦凍を抱いてる今幸せじゃないのかと訊かれたら、幸せだ、と答えるだろう。
 俺を感じて身をよじって快楽から逃げようとしてる、その腰を掴んで自分の熱で抉る瞬間が、たまらないとばかりに上がる悲鳴が好きだ。
 縋って爪を立ててくる指も、噛むようなキスも、快楽に酔いしれて涙と涎をこぼす顔も、全部好きだ。全部を含めて幸せだ。
 幸せだ、と思いながら焦凍の中を汚す。自分の熱で。欲望で。白い色で。「あ…ッ」汗と涎と精液と涙、体液でぐしゃぐしゃになった焦凍を愛する。何度も、何度でも。

「愛してる」

 お前がいないと成り立たないくらいに、お前じゃないと息ができないくらいに、俺の中はお前ばっかりだ。
 我ながら重たいな。いい年齢した大人なのにな、なんて自嘲気味に笑った俺の頬を焦凍の両の手が挟む。
 前の人生では知りようがなかった、本当の笑顔で笑う焦凍が「おれも、あいしてる」と言う、その顔をカーテンの合間から射した少しの光が帯となって照らす。
 光が射したその顔がとても綺麗で、美しくて、その美しさを思うままに汚すことができる自分の手を焦凍の手に被せて、笑う。

(俺は幸せだよ)

 俺に人生を与える代わりに昏い底へと沈んでいったもう一人の自分。名前すら知らない、ないのかもしれない、俺のことを好きだと言って笑ってみせた俺のことを思う。
 今もどこかで俺のことを見ているかな。見てくれているかな。そうだといいな、と思いながら焦凍の火傷の痕に口付けて、
 意識が、飛んだ。