「え」

 そうこぼした自分の声が掠れていた。
 びしゃ、と顔を叩きつけた液体のぬるりとした感触に手を這わせて、べったりとついた赤い色と、今頃になって鼻を貫いた錆臭さ。
 今の今まで俺のことを愛していた人の体がぐらりと傾いで俺へと倒れ込んだ。
 の頭があるべき場所から赤い色が流れている。
 首から上が。ない。あるべきものがない。

「え」

 馬鹿みたいに言葉が出てこない。思考が錆びついたように固まっている。
 の、頭が、ない。体は人形みたいにくたっとしたまま動かない。
 なんで。どうして。
 理解ができないまま、から溢れる赤い色がベッドにどんどん色をつけていく。
 、と動かない肌色の体を揺らして、揺らして、返事はないし頭もないし、赤い色は止まらないし、それなのに自分の思考は目の前の現実を理解しようとしていなくて、いつまでたってもベッドの上から動けなかった。の体を抱いたまま動けなかった。
 かろうじて、頭はどこへ行ったんだろうと考えて暗い部屋に視線を這わせ、いつかに見た黒いもやもやした奴が立っていることに気が付いた。USJ襲撃事件の。「これでよろしいですか。死柄木弔」ソイツが声をかけた方に視線をずらすと、いつかにに手を出そうとしていた、最近でいえば雄英襲撃のときにも見かけた、キモチワルイくらいに無数の手をつけた野郎の腕にの。頭。が。
 その頭にキスをして「ああ。これでいい」とぼやくその声に、ぶち、と自分の中の何かが千切れる音がした。

「返せよ」

 動かないを横たえ、盗られた頭へと手を突き出す。「返せ。俺のだ」「違うね。俺のだ」「てめぇ……」右の氷を弾丸のようにしてぶつけたが黒いもやもやした奴に防がれた。そして、突然湧いて出たように、唐突に消えやがった。の頭を持ったまま。
 USJでも見た。ワープ系の個性だ。逃げやがった。
 思わず跳ね起きて舌打ちした俺の耳にどさっと重たい音が響く。肌色の体が赤いシーツごと床に落ちた音。
 頭のない体から流れ続ける赤に、今頃になって唇がわななく。
 裸だ、ってせいだけじゃない。の頭が持ち去られたというだけじゃない。今になって俺は正気に戻って、震える腕での体を抱えている。
 血が流れ出ていくばかりの体はまだあたたかい。

(おかしいな。さっきまで抱き合ってたのに。好きだって、愛してるって、笑ってたのに)

 ガタガタとおかしなくらい震えている体で抱き締めても抱き返されることはなかったし、と呼んでも焦凍と呼ぶ声を聞くことはなかった。
 涙腺が壊れたのかってくらい視界が歪んでいる。ぱたぱたと落ちる涙を止められない。
 ……頭を。の頭を取り戻したとして、もう遅い。人は失くした頭部をくっつけて生き返るようにはできてない。こんなに血を流して息を吹き返すようにはできていない。
 俺のすべてだった人が死んでしまった。

「あ、ああ……ッ」

 ピクリともしない体を抱いて、自分を中心にパキパキと音を立てて凍り付いていくすべてを目にしながら、頭のない愛しい人を抱き締めて、右の手のひらを自分の心臓の上に押し当てる。

 俺のすべてだった人。
 初めから優しかった人。
 焦凍くん、と笑いかけてくれた人。

 轟家のために尽くして、自分の時間のほとんどを使って、ひび割れてボロボロだった俺たち家族を繋いでくれた。
 眼鏡よりコンタクトが似合うと思うと言ったら頑張って替えてくれた。
 あんまり栄養とかないけど蕎麦が好きだとこっそり告げたら、家で他に誰もいないときには冷たい蕎麦を用意してくれた。
 煙草の味がするキスの苦さと甘い香りを憶えている。ゆるりと笑いかけてくれるあの顔を憶えている。初めて自分の中に入った指の細長さも、願掛けをしてるからと伸ばしていた髪のすべらかさも、セックスしたときの熱い夜も、全部憶えている。こんなにも。
 失くして、亡くして、生きていけるわけがないと、自分の右手から生やした氷で左胸を貫く。絶対に死ねるように何度でも貫く。肺に回った血に咳き込みながら、霞んできた意識で最後までのことを考えながら、動かない体を抱き締めながら、氷だらけになった左胸にまた氷を突き刺す。

(しぬのは、こわくない)

 死ぬのも、痛いのも、怖くない。
 暗くなる視界も、寒さも、怖くない。
 俺にとっての恐怖は俺の心を打ち壊した。絶対に成ってほしくなかった現実はあっさりと最愛の人を奪った。
 なら、そんな世界、俺だっていらねぇよ。捨ててやるよ、自分から。
 こんな世界も、こんな俺も、もうどうとでもなれ。