どぼん、と水の中に落ちる音に薄く目を開けると、水面の上の方に病院の屋上が見えた。そこから落ちて地面に激突した自分の左胸に、トドメとばかりに突き刺さっている氷も見えた。 ああ、俺、やっと死ねたんだな。そんなことを思いながら安堵で息を吐き出すとごぼごぼと気泡が上がっていく。 水の中。そう感じるのに苦しくない。 病院の景色も、地面に激突して赤い色を咲かせた自分もみるみるうちに遠ざかって、俺の意識はどんどんと暗い場所へ沈んでいく。 背中が底に触れたときには辺りは静かで、物音一つしなくて、安心した。 シン、と静まり返った静寂。なんの気配もしない、動くもののない、死んだ世界。 俺はやっと死ねたのだ。あの人がいない世界にさよならできたのだ。 一度死に損なって、監視がついて、二度目の自殺にはだいぶ時間がかかったが、今度こそ死んだ。死ねた。 ああ、よかった、と瞼を閉ざせば、暗闇。 こうやって人は死んで、暗闇に溶けて、消えて行くのだ。それが死ぬということなんだ。たぶん。きっと。あの人もこの先にいる………。 「バカだなぁお前」 「……、」 知っている声に、閉じた瞼を押し上げて視界を彷徨わせる。 暗いそこは海底みたいに静かで、何もなくて、病院の景色を見せていた水面は遥か遠く、世界がそれだけ遠いことを示すように上の方でチラチラとした光として揺れている。 暗いばかりのそこに、もう聞くこともないと思っていた声の主が俺を見下ろして立っていた。 。ヴィラン、だった人。俺の先輩でもあった人。 「せ、ぱぃ」 カラカラに渇いた喉で声を押し出して、死んでようやく会えたんだと思った心にわずかな引っかかりが生まれる。 (違う) 紺色の髪も、アッシュブルーの瞳も、気怠そうに着崩した制服も、一見すれば先輩だ。あの人にしか見えない。だけど違う、と感じる。うまく言えねぇけど。 ポケットに手を突っ込んで俺を見下ろしていた相手はハァーと深く息を吐いて指を鳴らした。 目を逸らすことを許さないかのように、眼前いっぱいに映画館みたいなスクリーン映像が流れて、笑ってた先輩の、頭が、なくなる。あるべきものを失くしたその首から血が噴き出す。そういう映像を流されて冷たかった体にざわりと熱い血が流れて騒いだ。 死んだ。だから冷たいし、全然動かないし、俺のものではないみたいに他人行儀だった体がドクドクと鼓動を始める。 (違う) 俺の知ってる先輩は、自分で自分の頭を切り刻んで死んだ。似てるけど、頭ごとなくなるような死に方じゃない。 それなのに、頭を失くして赤い色を流し続ける体を抱き締める自分がいる。紅白色の髪と顔に火傷のある人物はどう見ても俺で、俺以外には見えない。 とめどなく涙を流しながら、左胸に押し当てた右手から突き出した氷で自らを貫く、その死に方をよく知っていた。一度、俺はそうやって死のうとしている。失敗したけど。 頭を失くした先輩を抱いたまま、その俺は絶命したんだろう。映像は灰色になってそこで止まった。 「なんなんだ。揃いも揃ってまた同じ死に方しやがって」 先輩の姿をしてる誰かはそう吐き捨てながら一つ舌打ちし、灰色の映像を煩わしそうに押しのけた。それからじろりと俺を睨みつけると指さしてくる。「いいか。オレはお前が嫌いだ」「………」先輩の見た目をしてるが、相手は先輩じゃない。そうわかっているのに先輩の顔と声で嫌いだと言われると、心が。否応なしに痛くなる。ドクドクと鼓動を始めた胸がじわりと痛む。 ……先輩はどうだったろう。俺のこと、好きだったろうか。俺はあなたのことが好きだったけど。 「けど、アイツはお前が好きだった。お前の言うセンパイのことだ」 「…………、」 「お互い好き合ってるくせに言わないとかバカだろ。心で生きてる生き物のくせに蔑ろにするからこうなるんだ」 目の前の相手は苛立たしそうに吐き出しながらまた一つ舌打ちをする。 それで見せられたのは、俺と先輩。そう見える二人の幸せそうな風景だった。 一緒に食事を食べて、手を繋いで、ときには眠って、ときには体を繋いで。 胸を張って恋人だとは言えずとも、静かに、確かに、時間を積み重ねていく。俺が憧れていた生き方をしている二人だった。 (ああ、いいな。俺もあんなふうに、先輩と、笑い合いたかったな) 屈託なく笑う自分を眺めながら、終わった俺は、それを他人事だとしか思えなかった。 手を伸ばしても届かない映像は遠く、届いたとして、すり抜ける。 ……小説とかによくある。パラレルワールドとか、別の次元の自分とか、そういうヤツ。俺は詳しくないから細かいことはわからないが、これはそういうモノなんだろう。アレは俺であって俺じゃないし、あの人も、先輩であって、先輩でない。 すっと目尻をこぼれ落ちた涙は周囲の水に溶け込まずに浮いて、頼りなくフラつきながら水面へ向かっていく。 ………俺は死んだのだから。どんなに後悔したってもう遅い。 もっとなりふり構わずあの人を求めていればよかったとか、ヒーローなんて諦めていればよかったんだとか、今頃思ったってもう遅い。 「轟焦凍」 「………なんだ」 「お前、絵を描き直す気はあるか。お前の人生って絵だ」 聞き憶えのある言葉に、幸せそうな二人の映像から視線をずらすと、無表情の先輩もどきが俺を見下ろしている。 「絵………」 先輩が、言っていた。俺の絵は真っ赤だから、見てほしくない、って笑っていた。お前は間違えるなよって、言っていた……。 あのとき、俺は自分のことで手いっぱいで、先輩の顔を見る余裕すらなかったけど。声は笑っていたけど。もしかしてあのときの先輩は泣きそうだったんじゃないか。ふとそんなことを思う。 「描き、直せる、のか」 「お前にその気があるなら手伝ってやる。癪だけどな」 ぐ、と腕に力を入れて、底に手をつく。長く動かしていない、そんなふうにぎこちない体で起き上がり、ふやけてるように頼りない足腰に力を入れて、失敗して転びながらでも、ゆっくりとでも、自分の意志で立ち上がる。 目の前にはあの人と自分が幸せそうに笑っているセピア色のスクリーンがある。 ………あの人との未来を。人生を。描き直せるなら。いくらだって起き上がるし、何度だって立ち上がるし、左の炎も右の氷も、全部使う。俺の全部を使ってやる。 生きることが、気怠いと。面倒だと。そういう笑い方をしていたあの人を、変えたい。 酒と煙草とジャンクフードで自分を潰すことを厭わなかったあの人のことを、変えたい。 望まず手を汚したあの人を。真っ赤な手を隠して繕って笑っていたあの人の未来を、変えて、守りたい。幸せにしたい。 ちゃんと、笑っていてほしい。 「やる。俺が、あの人を、守る。幸せに、する。そういう、絵を、描く」 いつかのセックスのとき、轟はきれいだねと俺の手に指を絡めてゆるりと笑ったあの人のことを、憶えている。 思えばあの顔は、自分に手に入らないものを羨んで、眩しいものを見つめる目だった。 ………俺は一番に優先すべきものをはき違えてしまった。そのせいで自分まで死ぬしかなくなった。 今度は絶対に間違えるものかと両の拳を固く握り締めると、右の拳は氷、左の拳は炎に包まれた。 曖昧だった足で暗い底を踏みつけ、遠くで揺れている世界の水面を睨みつける。 思い返せば簡単なことだったんだ。 あの人が幸せなら、笑っているなら、俺だって幸せだったんだ。 そんなことに今頃気がついて、本当、自分はガキだったと思う。 いつでも自分のことばっかりで、それで手いっぱいで、いつも俺のことを考えていたあの人の優しさには遠く及ばない。 俺のことばっかり考えて。俺のことばっかり優先して。あなたは崖から飛び下りることも首をくくることも厭わなかった。そういう、命をかけた愛だったのだと、俺は今更あの人のことを噛みしめている。 こんなガキの俺なんかにはもったいないくらいの愛だった。 同じくらいの愛を返せるか、わからないけど、この愛に俺も命をかけるよ。あなたみたいに。 「今度は道半ばで死ぬなよ」 「ああ」 光を睨みつけたまま答えると、ち、と舌打ちした先輩もどきが両手を上へと掲げて、ぱん、と手を打ち鳴らす。 痛み、と、熱さ、ではっと意識の焦点を合わせると、母が俺の顔の左側を冷やしながら泣いていた。「焦凍ごめんなさい、わたし、なんてことを。なんてことを…ッ」その言葉に憶えがあった。この状況にも憶えがあった。母が俺に煮え湯を浴びせたあのときだ。五歳のガキのときの。 ついさっきまで俺は海の底みたいな世界にいて、先輩もどきと話をしてたはずだけど。 火傷の痛みと熱が酷くて、逆に冷えているように感じる頭に手をやる。 ……この熱さは二度目だ。だから大丈夫だ。そんなに泣かなくたって大丈夫なんだよ、母さん。 「大丈夫だよ、お母さん。俺は大丈夫」 一度目、笑えなかった場面で笑うと、母はくしゃりと顔を歪ませて余計に泣いた。 父が母を病院送りにするという現実は変わらなかったが、強制連行される母と父に詰め寄る姉と兄を尻目に、包帯を巻いた顔で外へと飛び出すと、雨が降っていた。 知っている流れを辿る世界で、本来なら知らないはずの温度を探して街をさまよう。 橋の下を、公園を、廃ビルを、体力のない子供の足と、まだ使い始めたばかりの炎で飛びながら捜す。探す。たった一人を。 弱くなるどころか土砂降り模様の雨の中、ガス欠になった左手から炎が消えて、地面に落ちた。右の氷で滑り台を作って激突の衝撃は避けたが、無様にコンクリートの地面を転がる破目になった。 五歳のガキっていうのはとにかく体力がなくて、個性も安定して使えないし、笑っちまうくらいに何もできない。たった一人を探すことも、満足にできやしない。 濡れそぼったコンクリートに手をついて、水を吸った包帯が垂れ下がってきて邪魔だったから剥ぎ取って、遅い歩みでも、世界が泣いているような日でも、先へと進む。 今の俺には、自分のことより優先したい人がいる。負ったばかりの火傷の痛みを無視してでも見つけたい人がいる。 たとえ、ここにいるはずのあの人が、俺のことを知らないのだとしても。俺にくれた言葉を何一つ憶えていないとしても。それでも構わない。 「はぁ? アイス追加って……今さっきコンビニを出たところ………」 ざあざあとうるさい雨の音に、声、が届いた。 バケツをひっくり返したような大雨の中、コンクリートジャングルの中に傘が一つ咲いている。透明なビニール傘。煩わしそうに一つにくくっている紺色の髪に、どくん、と大きく心臓が脈打つ。 ああ。やっと見つけた。「わかったって。買って帰ればいいんだろ。はいはい」携帯の通話を切ったらしい相手がはぁと息を吐いて手にしているビニール袋を揺らしてこっちを振り返る、そのアッシュブルーの瞳とぱちりと目が合う。 うるさかった雨の音が止まって、雨粒の動きさえ止まって、世界が静止する。そんな錯覚を覚える。 俺は、俺の存在意義たる人をやっと見つけることができたと、雨に紛れて泣いて、笑う。 (絵を描くよ。あなたと俺が笑い合う人生っていう絵。完成させて、額縁に飾って、語り継がれるくらいに幸せな絵にする) そのためならなんでもする。なんだってする。 ずぶ濡れで近寄って来た俺に、相手は怯んだような迷ったような視線を彷徨わせたあと、「風邪引くよ」とビニール傘を半分俺にかざした。それから今気が付いたという顔で俺の顔の左側、上半分の真新しい火傷の痕に触れる。 触れた指先が伝えてくるピリッとした痛みは、これが現実であるということを告げていた。 一度は死んだ俺が、生きて、今ここにいて、先輩を前にしている、その理由はわからない。先輩もどきが何かしたんだろうってことくらいしか知らない、けど。 俺に触れるその手を掴んで握り締めて、絶対に離すものか、と思う。 もう二度と離さない。 一人で飛び下りることも首をくくることも許さない。 俺のためだと死ぬことなんて、絶対に、ゆるさない。 |