なぜ。こんなことになってしまったのか。
 今現在俺がいるのはとにかく立派なお屋敷で、目の前にはプロヒーローナンバーツーであるエンデヴァーが私服姿で腕組みしている。
 その圧に屈して正座して小さくなっていることしかできない俺の前には、俺を庇うようにエンデヴァーとの間に立つ轟焦凍という少年がいる。左右で髪と瞳の色が違うこと、顔の左側に真新しい火傷の痕がある子だ。

「何を拾ってきているんだ焦凍」

 それで、圧、を感じる声が降ってきて、拾ってきている、と表現された俺は心の中だけでいや違いますけどと反論した。
 現実の俺はといえば、畳に視線を落としたままうんともすんとも言えなかった。
 さすがナンバーツーヒーロー。鍛えてる体は威圧感がすごいし、知られてる性格も相まって、俺みたいなガキでは目を合わせることすら躊躇う。これがオールマイトに次ぐヒーローか。
 そんな威圧的な相手に、俺よりもずっと小さい少年が言う。「家がないって言うから」「え」思わず声をこぼして視線を上げてしまってから口を噤む。
 家。
 ヴィラン連合のアジト、は、あるけど。そこを家とすることに俺は抵抗があるし、アジトの場所を言うわけにもいかない。それならいっそ家なんて呼べるものはない方がいいか。
 ここに来るまでにとっさの判断で携帯を川に捨てた自分は我ながらナイスだったと思う。最悪、そこから辿られていたかもしれないし。
 なんとかそこまで考えて、「ないんだろ」とこっちを覗き込んでくる焦凍にこくこくと頷いてちょっとのけぞる。ちっか。
 オフでも顔の火を消さないのか、俺って人間を警戒してるのか、あるいはその両方か。エンデヴァーはギロリとした目つきで俺のことを睨んでいる。「貴様、焦凍にどう取り入った」いや取り入ってませんけど。どちらかといえば息子さんに無理矢理連れてこられた口ですけど。なんて、言えるはずもない。
 俺の個性は実に大したことがないものだ。俯瞰風景、上からの視点で周囲を観察する、ただそれだけ。エンデヴァーみたいな強個性の持ち主に対抗できるようなもんじゃない。
 弱者が強者に抗うことは、生存戦略として、賢いことじゃない。ここで反論することは賢い選択じゃない。

「えっと……轟、焦凍くん、とは」

 だがしかし、適当な言い訳も思いつかない。本当についさっき出会ったばかりの子供なんだ。なんでかここまで連れてこられたけど、その理由は俺にもわからない。
 ………泣きそうだったから。
 いや。雨に紛れて、泣いていたから。火傷の痕が痛そうだったから。一人にしておいてはいけないと、なんとなく、そんなことを思った。
 仮にもヴィラン連合の一員が、雨に濡れそぼった子供一人に手を引っぱられたくらいで、何をしてるのかと。自分でも思う。
 俺はどうしてここまでついてきてしまったのか。大した抵抗もせず、小さな手を振り払うことができなかったのか。
 そこで、焦凍がくしっとくしゃみをした。そういや濡れたまんまだったと気付いて自分のパーカーを脱いで焦凍に被せる。「風邪引くよ」「うん…」素直にこぼした焦凍が大きな瞳を細くして父親たる人を睨みつけ、俺のことを指して、「俺の世話係にする」ちょっと待てなんかさらっととんでもないこと言い出したぞこの子。

「そうしたら、あんたが望むように、炎も使って個性特訓する。オールマイトを超えられるようになってやる」
「……気は確かか焦凍」
「それをあんたに言われたくない」
「どこの馬の骨とも知れんだろう」
「お母さんがいないんだ。五歳の俺には、世話をする人が必要だ」

 どんどんと進んでいく会話に口を挟めないままでいると、エンデヴァーが深く息を吐いた。それから俺を睨むと「焦凍を風呂に入れて来い」と言う。
 いや、そんなこと言われても、俺はこの家の勝手も知らないんですが。

(っていうか本人の了承は? え、ないの?)

 手を引っぱる焦凍に連れられるままに畳の部屋を出て廊下を歩いて、広いな、と思う家の中を見回す。さすがナンバーツーの家。金あるんだろうなぁ。
 焦凍が引き戸を開けると、ガランとした脱衣所が現れた。その向こうにある曇りガラスの戸を開けてみると、大人が数人余裕で入れそうな広いお風呂がある。個人宅とは思えない広さ。


「はいはい」
「ん」

 ばんざいして脱がせろと言う焦凍の世話を焼いてしまってからはっとする。弔の世話を焼くことに慣れてるせいか違和感が仕事しなかった。
 今更だけど、俺は難しい顔を作って「あのさ、俺はいいって言ってないんだけど。君の世話役とか?」言いながらも手は焦凍の濡れた服を脱がせている。早くあたたまらないとマジで風邪引く。俺のせい? なのかわからないけど、エンデヴァー怖いし、風邪引かせることは避けたい。
 焦凍が手を引っぱるから仕方なく俺も脱いで、今までの人生イチで広くて贅沢なんじゃないだろうか、と思う風呂に入る。余裕で足を伸ばせる。
 広くてあたたかい風呂に脱力していると、隣から視線を感じた。じっと色の違う瞳でこっちを見つめる焦凍と目が合う。「あー……」いや、風呂なんかで懐柔されてはいないぞ。だって俺はヴィラン連合の一員なんだ。まぁ下っ端だけど。顎でいいように使われる雑用係なんだけど。それでも一応ヴィランやってるんだ。と。思う。主にやってるのって弔の世話だけど……。

(あれ。それって俺でなくてもいいんじゃないか?)

 ふとそんなことに気付いて顎に手を当てて考える。
 弔の個性が怖くて、顎で使われるまま買い出し行ったり、夜通し見張りをしたりしてたけど。弔を、先生を凌ぐような個性を持った誰かの懐に入れるなら、もうそれでいいんじゃないか?
 もともと俺にはヴィランだとかヒーローだとかのこだわりはない。
 先生に拾われて、両親がいなくてガキだった自分にはあの人しかいなかったから従ってきただけ。
 あの人以外に頼れる大人や存在があるなら、なんて、何度だって考えて、実際問題そんな人はいないんだからと諦めてきた。

「……なんで、俺?」

 たった一つ残った疑問をぼやくと、焦凍が細い腕を伸ばして俺の首に絡ませて体を寄せてきた。細くて小さな子供の体。「なんでも」「ええ…?」それはまた、不安だな。犬猫じゃないんだから、欲しいって言って拾って、世話が大変だからやっぱりいらない、なんて捨てるのはダメなんだぞ。そうされたら俺が困るし。
 小さな手のひらが俺の両の頬を挟んだ。
 顔が近い。色の違う両目が子供らしく大きい。
 距離感、なんて思ってる間にちゅ、と音を立てて口にキスされた。それで焦凍が言うことといえば「好きになったから」……本当に五歳かこの子。あんな怖い父親と臆さず話すし、人のこと、誑かすし?
 閉口した俺は、くっついてくる焦凍の細い体を緩く抱いて、俺と同じもんついてるよなぁ、なんて考えてる。
 いや、五歳児の戯言を何間に受けてるんだよ。馬鹿なのか俺。

(ああ、でも、誰かから好きって言われたの、初めて。かも)
 それからの俺の日常は、焦凍を中心に据えた怒涛のごとき轟家との日々だった。
 焦凍が顔に火傷を負ったことを含め、どうやら俺が想像してるよりもエンデヴァーの家ってのは面倒で複雑な家庭事情があるらしい。

「焦凍、お母さんは?」
「病院」

 まず、轟家には母親である人がいない。焦凍によれば『入院』している。
 五歳の子供を残して入院しなきゃならないような理由は大病しているか精神的にマズいかってのが適当なところだろうから、ここについては深くはツッコめなかった。
 次に、燈矢という兄弟が一人、亡くなっている。
 これも、轟家の傷になっているだろうことを考えると深くは訊けなかった。
 そういう色々がこじれているんだろう、轟家というのは家族間の関係がかなりぎこちなく、みんながみんなエンデヴァーこと炎司さんを避けている節がある。ただ一人、立ち向かっていく焦凍を除いて。
 これはある意味弔の世話を焼くよりも大変かも……なんて思いながら、本日も夏くんと冬美ちゃんに白い目で見られながら焦凍の部屋の布団を干して、広くて大きい轟家の家事全般をしにやって来る家事代行の人の技を見学しながら仕事をメモして、お手伝いさんが作ってくれた食事にむっつり不機嫌顔の焦凍にご飯を食べさせるのに苦労した。
 そのくせ、部屋に戻ったら俺に甘えて「膝に座りたい」ってねだってくる焦凍に閉口して、諦めて、畳の上に胡坐をかく。そこに座り込んで小学校の教科書を広げる焦凍の紅白色の頭を眺める。
 焦凍は頭がいいらしく、まだ五歳だって聞いたけど、開いてる教科書は一年生のじゃなかった。三年生くらいの内容かな。
 焦凍は頭が良くて賢い。だからエンデヴァーとも言い合える。
 その頭の良さが、今新たな問題を呼んでいるわけだけど。
 ……轟家にとって俺はどこの誰とも知れない素性不明の人間だ。そんな奴が急に家の中に上がり込んで生活を始めたら、普通は戸惑うと思うし、疑って当然だと思う。
 ただ、それとは別の問題から、俺は轟家の人間から白い目で見られている。

「学校、行かないの」
「行かない」

 きっぱりとした声に迷いはない。
 最初はそのことを『火傷の痕を見られるのが嫌だからかな』なんて解釈してたけど。「なんで?」まぁ、同じく学校行ってない俺が言えることでもないんだけど、訊くだけはタダ。
 焦凍は教科書から顔を上げると丸い瞳で俺のことを見上げた。「一緒にいる時間が減る」「え?」じ、とこっちを見つめる瞳に合点した。「ああ、俺と……」そりゃまぁそうですけど。

「でもさ、学校って大事な場所だろう。友達作ったりとか」
「いらない」

 取り付く島もない即答だ。
 こういう、焦凍が俺にべったりなことも相まって、俺を見る白い目は止まないわけである。
 困ったな、と思いながら、炎司さんがすごく怖い顔で置いていった紙袋の中に入っていた本を引っぱり寄せて広げる。
 中身は、食事の栄養についてとか、なんか家庭的なことが書いてあるものだ。『焦凍の面倒をみるのならこれくらい読み込め』と言われたやつ。
 焦凍が勉強するなら俺も勉強しようと、畳の上に広げた本のページを一つめくる。
 ………家事代行の人が作る料理も、こういう本の内容に習って、栄養とか考えられてると思うんだけど。焦凍はいつもそれを不機嫌そうな顔で最低限しか口にしない。それを見かねた、ってことなんだろう。焦凍は俺のすることに嫌とは言わないから、この家にいるつもりならゆくゆくは焦凍の食事の面倒もみろって、そういうことだ。
 俺だってまだガキだし、調理なんて最低限しかしたことがない。そんな俺が料理してみたところでうまいものができるとも思えないのに。「俺の作ったもんなら食べるの?」「うん」ぼやいた声に即答された。……なんだかなぁ。
 カラーでわかりやすく料理の基本、包丁の握り方とか調味料のいろはとか、調理のNG集とか、そういうのを写真つきで解説している本のページをめくる。

(この子、なんで俺のことこんなに信頼? してるんだろう。素性の知れない俺なんて人間、自分ちに上げてさ。焦凍ってよくわからないな)