小学校に入るべき年齢になっても学校を拒んだ焦凍の勉学は『自宅学習』という形になった。
 内容は、パソコンで定期的に提出物を出して、半年に一度指定の会場でテストを受けて、本人が存在してることと学力が問題ないのを確かめて……という感じ。
 そのことに炎司さんはすっごい苦い顔をしていたけど、それで学力に問題がないのだから、絶対に家から出るものかとばかりに俺の服を掴んで離さない焦凍を外に放り出せるはずもない。
 それじゃあ体力方面はどうしたのかというと、あの自分にも他人にも厳しいヒーローエンデヴァーの息子だ。登校して体育とか受けなきゃ体力つかないんじゃ、なんて心配は杞憂だった。むしろその厳しい特訓に焦凍の体力が尽きるのを心配しなきゃならないくらいだった。

「あと五周!」

 今日は仕事が休みらしい炎司さんが着物の私服姿で声を張り上げる先には焦凍がいて、体力の基礎作りだとかで、轟家の広い庭をさっきから走らされている。
 これはちょっとキツいんじゃ。そんなことを思いながら、水分補給のポカリや怪我をしたときの救急箱を傍らに自分の勉強を続ける俺である。そうでないと怒られるからさ。
 なし崩し的に轟家に滞在するようになって、これで一年。
 家事代行の人の仕事ぶりを見ながら真似をするようになって、とりあえず一番にマスターしたのは食事だ。炎司さんに料理の味やら出来栄えについて怒られながら、家事代行の人にアドバイスをもらいながら、最近はなんとか形になるようになってきた。
 今晩のメニューは昼までいたお手伝いさんに教えてもらっているし、下ごしらえもしてある。やることは難しくない。今日こそは炎司さんに怒られない出来になるといいけど。
 考えながら本に目を通していると、ずしゃ、と音がした。「立て焦凍!」炎司さんの怒鳴り声に、庭へ出るためのつっかけサンダルに足を突っ込んで駆け寄ると、げほ、と咳き込んだ焦凍がなんとか起き上がったところだった。膝、擦りむいてる。「焦凍」「…、」縋るように伸ばされた小さな手を掴んで、走りすぎて震えている体を抱き上げる。

「怪我をしてますし、少しだけ休憩しましょう」

 勇気を振り絞って炎司さん、と呼ぶと、怖い顔をした炎司さんが一つ舌打ちした。「三分だ」たった三分だけどないよりはいい。
 どかっと縁側に腰を下ろしたあの人から距離を取った場所に焦凍を座らせて、肩で息をしている焦凍の顔を伝う汗をタオルで拭って、その手に蓋を開けたポカリを渡す。「飲んで」「……ん」大人しくポカリを呷る焦凍の膝を濡らしてきたガーゼできれいにして、念のため、救急箱から取り出した消毒液で傷口を消毒してから絆創膏を貼る。
 俺から見たって厳しいなと思う特訓内容に、焦凍は弱音一つ吐かない。怪我をしたって泣かない。苦しそうにはするし、辛そうにもしてるけど、それでも挫けてはいない。まだ六歳なのにどこからその精神力が湧いてくるんだって年上の俺が感心するくらい。

「大丈夫?」
「ん……」

 俺に寄りかかってくる小さな背中をそっとさすると、甘えるように胸に顔を寄せてくる焦凍がいて、最近は、そんな焦凍にちょっとぐっときてる自分がいる。
 俺と一緒にいたいから。
 嘘かほんとか、そんな理由で学校に行かず家で勉強することを選んで、俺が作ったものだったら焦げててもおいしくなくても全部食べる。
 一緒に風呂に入りたい、一緒に寝たい。そうやって全力でぶつかってくる存在にキスされて、なびかない奴がいるなら会ってみたい。



 その夜も、うつらうつら眠りかけていたらキスされた。頬じゃなくて唇に。「こら……」今日も炎司さんに個性特訓を課されて疲れてるはずなのに、焦凍は丸くて大きな瞳でこっちを見つめている。明かりも落としたし、布団にも入ってるのに。「寝なさい」「眠くない」「うそぉ…」慣れない掃除を頑張っていただけの俺の方が眠いとか、そんな馬鹿な。
 ちう、と二度目のキスをされて、ぬるりとした温度に唇を舐められた。「こら」くっついてくる焦凍の肩を押して小さな体を押しやってみるけど、一つしかない布団だからそんなに距離ができるわけでもない。



 好き、とこぼす幼い声にぐっと唇を噛む。
 いやいや。六歳児の戯言に絆されてるようじゃ駄目だろ。これは子供の戯れ、子供の戯れ。
 そうやって念じながら黙っていると、炎司さんの個性特訓で無理難題を課されても泣かない焦凍の大きな瞳からほろりと涙がこぼれた。
 ……そうこられると俺はいつも折れてしまう。
 あの怖い炎司さんにどれだけ言われても泣かない焦凍が、こんなときにだけ涙をこぼす。それがまるで、俺じゃないと駄目なんだと言われてるようで、結局最後には焦凍の小さな体を抱き寄せてしまう自分がいる。
 お前の代わりなんていくらでもいる。弔にはいつもそう言われてた。だから捨てられないようにできることをやれよと、いつも顎で使われてた。


「うん」
「好き」
「……うん」

 首に腕を回して縋りついてくる焦凍の小さな背中を手のひらで撫でる。
 大きな瞳からほろほろと涙をこぼしている至近距離の顔にキスをして、こぼれそうだな、と思う大きな目から伝う涙を舌で拭う。
 そんなふうにして日々を過ごしている俺なので、必然的に、俺の思考というのは焦凍中心に回っていくものへと変化した。
 飯も、風呂も、七歳になったばかりの焦凍には人の手があった方がいい。
 眠るのも、一人じゃできないっていうなら、俺が子守歌代わりにキスしてやった方がいい。

「おかわり」

 それなりに様になるようになってきた俺の晩御飯。今日は中華なおかずを口いっぱいに頬張ってお茶碗を突き出す焦凍にしゃもじ一杯のご飯をよそって、お茶もおかわりを注ぐ。
 この頃になると、焦凍が気紛れで俺を拾ったんじゃないということを実感したのか、諦めたのか。夏くんも冬美ちゃんも俺の飯を食ってくれるようになったし、ときどき話しかけてくれるようになった。少なくとも最初の頃のように遠巻きに見られたり白い目で見られることはなくなった。最近それが少し嬉しい。なんか、認められたみたいで。
 機嫌よく洗い物に励む俺に、キッチンまでノートパソコンを持ってきた焦凍がシンクの上で提出物の課題をやり始めた。水が飛んでかかりそうで危ない。

「あっちでやりなさい」
「やだ」

 焦凍は頑なで、動きそうにない。
 仕方ないから俺が水しぶきに気を遣いながら、少し時間をかけて洗い物をすませる。
 育ち盛りの焦凍のために牛乳でミロを作ってカップを渡し、ついでに自分の分も作って、リビングダイニングにあるテレビを見るともなく眺める。
 …………平和だ。弔に顎で使われてたことなんて遠い昔話みたいに。
 思えば、あの頃は、いつ捨てられるのか、いつ路上生活者になるのかって、いっつも怯えてた。
 そんなことまでして生きていくのはしんどいし、そうなったらもう死んじゃおうかなって、思ってたっけ。
 テレビから視線をずらすと、シンクから食卓の上に移動させたノートパソコンを前に焦凍が無表情にキーを叩いている。
 俺の視線に気が付くとこっちに顔を向けて僅かに首を傾げた。それで、伸ばすんだ、と言っていた紅白色の髪がさらりと揺れる。

「髪、なんで伸ばすの?」

 ミロをすすりながら訊いてみると、焦凍は少し黙ったあとに「願掛け」とこぼして自分の髪に指を絡ませた。
 願掛け。そんな古典的なことしてまで叶えたい願いがあるのか。焦凍の家は金はあるわけだし、焦凍自身個性だって強いわけだから、やろうと思えばなんだって叶いそうなもんだけど。
 へぇ、とぼやいてミロをすする俺を見上げる丸い瞳は変わらない。
 左右違う色をした瞳はいつも逸らされることなく、じっと俺を見つめていて、そういう個性で俺の心を見透かしているんじゃないか、なんて、思ったりする。
 たとえば、お前に毎晩のように好きだと言われ続けて、好きだと返してしまった俺の本心とか。満足そうに微笑んだお前の笑顔が突き刺さってることとか。そういうことも実は全部わかってるんじゃないか、なんて考える。
 ミロを飲み終えたあとは焦凍の部屋に戻って、風呂の順番待ち。
 その間にうざったくなってきた自分の髪にハサミを入れて切り落としていると、焦凍がじっとこっちを見ていた。「何?」「…なんにも」俺がうざったいからと髪を切ってると、焦凍はいつも見てくる。何か異議でもありそうに口をもごもごさせて、結局いつも何も言わない。
 まさか、俺にまで伸ばしてくれなんて言わないよな。そんなことを思いながらシャキンと前髪を切り落とした。

 轟家に来て三年がたった、その日は雪だった。白くて頼りないものが轟家の広い庭にふわふわと落ちては消えている。

「寒いと思ったら……」

 障子戸を引き開けたそばからぴしゃっと閉じて、もこもことした部屋着の上からブランケットを被る俺に焦凍が「寒い」とくっついてくる。
 大きくなってきた体を頑張って抱き上げると、左側がぬくかった。個性を使って体温を上げてるんだろう。

(こんな雪の日だっていうのに、今日は外に出なくちゃならないのか)

 今年で八歳になった焦凍は、相変わらず学校には行っていない。
 基本的に通信の授業と提出物を出してればOKな在宅学習システムだけど、テストだけはそうもいかない。この日だけは指定された会場に赴き『自分はちゃんといます』『勉強もできます』ってことを示さないとならない。
 そんなわけなので、半年に一度あるこのテストのときだけが、付き添いとして俺が外出を許可される唯一の日だった。
 と言っても、テストが行われる会場までは送迎の車がついてるし、焦凍がテストを受けてる間俺は待機してるだけだから、外出って言えるのか微妙なところなんだけど。轟家の外に出るという意味では外出に当てはまると思う。
 焦凍が風邪を引かないように首元までしっかり防寒した格好をさせて、自分もヒートテックやらマフラーやらでしっかり寒さを防御。「行こっか」「ん」当たり前のように差し出される手を取って、敷地の外で待機している黒塗りの車に乗り込む。
 焦凍の願掛けは続いてるらしく、紅白色の髪はだいぶ伸びた。俺が櫛を入れて結んでやらないといけないくらいには。

「切らないの」
「切らない」

 そうですか。横で見てると邪魔そうだなって思うんだけど。
 そんなに叶えたい願いっていうのがあるのかな、なんて思いながら首の後ろ辺りで緩くお団子にして一つにまとめてやって、テストの邪魔にならないようにする。
 ぱらぱらと人の姿がある会場の前で車を降りて、「二時間後にお願いします」と声をかけると、運転手の人は黙って車を走らせ行ってしまった。
 家との連絡用に持てと炎司さんから渡された携帯で時間を確認しつつ、焦凍の手を引いて会場入りする。
 本当なら成人してて父親である炎司さんが付き添った方が自然なんだけど、あの人は今日も仕事だから仕方がない。

「轟焦凍と、付き添いの者です」

 炎司さんから預かって来た紙片を渡しながら受付をすませ、未成年だけど俺が焦凍の付添人って形で教室に入る。
 様々な問題を抱えて『登校することはできない』ってなった子たちがやって来る場所だ。虐めにあったせいで学校不信になった子もいれば、親の教育方針の違いから行かなかった子まで、教室には幅広い子供たちが親に付き添われている。
 焦凍は退屈そうな顔で受付でもらった番号の書いてある席に腰かけ、肩掛け鞄から筆記用具を取り出した。「じゃあ、待ってるよ」ちら、と俺を見上げた焦凍がぎゅっとコートの袖を握ってきて、離す。
 家では焦凍といない時間がトイレのときくらいしかない俺は、久しぶりの一人の時間に、暖房が入れられた教室、保護者の控室でマフラーを外した。コートも脱いで脇に抱え、暇つぶしのために持ってきた『掃除と片付けのテクニック100選』という本を開く。まだ片付けとか掃除に苦手意識がある俺に家事代行のおばちゃんがくれた本だ。
 ところどころカラーの本を斜め読みしながら、浮いてるな、と思った。
 ちらちらと寄せられる視線とひっそりと交わされる声は、未成年、むしろ俺も学校に行ってなきゃって年齢の子供なのになぜこんな場所にいるのか、と言ってるに違いない。
 まぁ、いいんだけど。その通りだし。
 人の視線をあまり気にしないようにしながら本を斜め読みし続け……半分くらいで休憩がてら廊下の自販機のところまで行ってあたたかいカフェオレのボタンをピッと押す。ボタンを押してから紙カップに飲み物が入るタイプのやつだ。
 吐く息は白くはないものの、今日は雪が舞うような空模様だ。ちょっと買うだけだからってコート着てこなかったけど着ればよかったな。寒い。
 寒い、と思いながら出来上がったカフェオレを自販機の扉から取り出したときだった。隣に人が立っていることに今頃気がついた。
 順番待ちか、気付かなかったな、と隣に視線をやって、危うくカップを落とすところだった。

「よォ」
「………弔……」
「お前、何してんだよ。こんなとこで」

 この冬でも寒そうな薄着で隣に立っていたのは弔だった。ぼりぼりと首を引っかいている。
 ごくり、と無意識に生唾を飲み込んで、視線を手にしているカップへと逃がす。
 俺の手はみっともなく震えていた。
 弔の強個性。いや、凶個性と言ってもいい、あの崩壊の威力を思い出して、その手が俺をバラバラにできることを思い出して、恐怖していた。
 俺なんて大したことない個性持ちがいなくなったところで、弔は気にしないだろうし、代わりの誰かを顎で使って満足してるだろうと思ってた。
 ……それは、嘘だ。俺がそう思いたかっただけ。
 こいつはなんでか俺に執着している。

「なァ」

 ごく、と唾を飲み込んでカップを握って顔を上げる。弔はダルそうな顔で俺のことを眺めている。「学校でも行きたくなったわけ」「そういうんじゃ、ないけど」弔の手が伸びて、無造作に教室の一つを指す。今焦凍が、多くの子供がテストを受けてる教室を。「壊してやろうか?」唇をつり上げて笑う弔は変わってない。俺が知ってる傍若無人なままだ。
 自分から悪事に手を染めることを選んだ大人が死ぬなら、いい。自業自得だ。
 でもここにいる子供たちは違う。何もしてない。未来に何かをするんだとして、まだ、何もしてない。成ってない。
 このままじゃ、気分屋な弔に、未来ある子供が奪われるかもしれない。そんな予感に背中が寒くなった。
 あそこには焦凍だっているんだ。弔を行かせちゃいけない。絶対に。

「……悪かったよ。おつかい、長くなって」

 いつか、最後に言いつけられた買い物のことを持ち出すと、弔の興味が教室の子供たちから俺に戻った。赤い瞳が細くなって俺のことを捉える。「憶えてんじゃん」「アイスだろ。買ってくからさ。もう行こう」それくらいしか、この場所から弔を遠ざける方法が思いつかなかった。
 観念してうなだれる俺の手から紙カップをさらって中身をすする弔は上機嫌だ。「そうそう、最初からそうしてればいいんだよ。お前は俺の椅子してりゃいい」「…うん」「さみー日にこたつでアイスってのもいいもんだぜ。ぜーたく」気のせいか寒気がする腕をさする。
 せっかく轟家に馴染んできたところだったのに、俺はまたヴィランに戻るんだな。顎で使われるあの日々に戻るんだ。……残念だ。
 ごめんな、焦凍、と胸のうちで謝りながら一歩踏み出した俺と、弔の間に、バキンと音を立てて氷のつららが突き立った。「っ、」思わず一歩二歩引く。
 氷。まさか。

「失せろヴィラン」

 静かな声に振り返ると、教室から出てきた焦凍が右手をかざしていた。右側に霜がおりている。
 と呼ばれるままふらふら歩いて行って焦凍のそばに行くと、舌打ちのあとに氷がバラバラと分解されて散って行った。「焦凍、あいつは」……弔の崩壊の個性について、口にすべきか考える。言ってしまったら俺はヴィラン連合の情報を漏らした野郎になって、もう見逃してはもらえないだろう。
 焦凍の大きな瞳が爛々と輝いて、静かに燃えていて、ただ一点、崩壊の個性で氷を塵にした弔のことを見ている。
 俺は、決めなくちゃいけない。今この場で。どちらかを。
 ヴィラン連合の雑用係に戻るのか。
 それとも、焦凍の手を取り続けるのか。

「………あいつには、氷じゃ駄目なんだ」

 弔の烈火のような赤い目に睨まれて、もう後戻りできないな、と思った。
 炎司さん譲りの左側、自分に炎を灯した焦凍が「わかった」とこぼして左手をかざしてふうと息を吹くと、細かな炎が礫のように弔へと飛散した。弔はそれを器用に避けたけど、いくつかが服を掠って、その度に後退した。「クソガキが」吐き捨てた弔の上にあるスプリンクラーが熱を察知して人工の雨を降らせる。
 焦凍の炎の熱を探知してジリリリリと鳴り響く音に、驚いた子供たちの泣く声に、控室にいた大人が何事かと廊下に出てくる。その様子を見てちっと舌打ちした弔が窓を開け放って外へと飛び出して、消えた。
 人工の雨を浴びながら、自分が選んだ道に、そこに立っている焦凍の手を緩く握る。
 強く握り返される手はまだ小さく、幼くて、俺が守らないとならない立場なのに、守ってもらったのは俺の方。

「あり、がとう」
「怪我してないか」
「大丈夫」

 ぎゅっと抱き締めてくる焦凍を緩く抱き返して、スプリンクラーの雨に濡れてしまった髪を撫でつけると、「俺が絶対に守ってやるから」と言われた。大きくてまっすぐな丸い瞳に「絶対に守るから」と言われて、年上なのに立つ瀬がないなぁ、なんて、笑う。