ある秋の日、体育館の裏で煙草を銜えている奴を見つけて、女子が鬱陶しいからと人目を避ける道を歩いていた足が止まった。
 相手の顔は知っている。
 いわゆる優男の先輩。名前は確か、、だっけ。
 その人の特徴はわかりやすく、間違えようがない、長い髪だ。男のくせに女顔負けのサラッとした長い紺の髪をしている。
 誰にでも優しいと評判で、女子から逃げ続けてる俺を少し楽にしてくれた。アイツのおかげで俺を追っかけてくる女子の数は少なめですんでいる。
 そんな先輩が体育館の裏で一人煙草を吸っている。ぼんやりした顔で空を見上げて、何もかもどうでもよさそうな、怠惰そのものの空気を纏って。
 秋になって枯れ始めた草原がそう見せるのか、植えられた木からぱらぱらと落ちる枯れ色の葉がそう見せるのか。風に長い髪を遊ばせる先輩そのものも枯れ果てそうな雰囲気があった。
 ………煙草は成人してから吸うものだ。そんなこと中学生でも知ってる。
 不良グループが吸ってるならまだしも、誰にでも愛想よく笑うあの先輩が銜え煙草なんて、正直、似合ってない。
 普段学校で目にする姿と今目にしている姿が同一人物と思えなくて、止めた足をそのままに、じっと制服姿を見つめる。
 そんなに凝視していたつもりはなかったが、相手は俺に気が付いたらしく、気怠そうな顔のままちょいちょいと手招きされた。
 このまま立ち去ってもよかったが、なんとなく寄っていくと、煙の甘いにおいがした。そういう煙草らしい。香水かと思ってたがたまにすれ違っては香ってたのは煙草だったのか。

「吸う?」

 何気なく差し出された煙草を凝視して、「いりません」と視線を外す。
 煙草って肺に悪いんだろ。今のこれも受動喫煙だ。ヒーロー目指す奴が肺に問題あったら駄目だろ。
 相手は苦く笑うと煙草を銜え直した。それでいて「見られちゃったなぁ」と器用に喋る。
 中学生が喫煙なんて褒められたもんじゃない。とくに三年生は、先生の耳に届けば、進路にも響くだろう。
 相手が枯れた草の上に腰を下ろしたから、なんとなく真似してそうすると、風が吹いて、甘くて苦いにおいで胸がいっぱいになった。

「先輩は、そういうことする奴には見えませんでした」
「そ? まぁこれでもストレスの多い環境にいて」
「へぇ」
「あ、興味なさそ」
「ないですから」
「でも敬語使うんだね。偉いね」
「……煙草吸ってようが、一応、先輩なんで」
「そういう線引きできるのって大事。えーと、轟、焦凍くん?」

 俺は色々な意味で有名人だから、三年生が名前を知っててもとくに疑問は持たなかった。
 先輩と二人、何をするでもなく枯草と枯れ葉の舞う景色を眺め続ける。ただそれだけの時間がゆっくりと過ぎる。
 風で流れてきた長い髪を掴まえて「なんで伸ばしてるんですか」とくに興味はなかったけど訊いてみると、相手は苦く笑った。「願掛け」「はぁ」「古いって? ま、どうせ叶わないからいいんだ。おまじないなんてそんなもんだし」じゃあしなきゃいいのに、と思いながら、風にさらわれて指から逃げた髪から意識を外す。
 白っぽい煙が風に吹かれて空へと消えていくのを眺め続けて……先輩が煙草を吸い終わった。
 ぱん、と制服のズボンをはたいて立ち上がると「黙っててくれると嬉しいけど、チクってもいいよ。じゃーね轟」ばいばい、と手を振られたそのときには、相手は俺の知っている優男の先輩に戻っていた。
 それからちょうど一週間。
 体育館裏を通るコースで女子から逃れながらの帰り道、また煙草を吸っている先輩と遭遇した。「よ」軽く手を挙げられて「どうも」と軽く頭を下げて返し、そのまま通り過ぎればいいのに、俺は先輩の横に腰を下ろして、先週より枯れているなと思う草と葉を落として裸になりつつある木を見るともなく眺めた。
 隣の先輩が煙草を吸っているから、肺は甘くて苦い香りでいっぱいだ。
 これは受動喫煙で、体に良いことじゃないのに、俺はこの時間と香りが嫌いじゃなかった。
 ただぼうっと何かを眺めるだけ。何も考えない。それが許される。そんな時間勉学のために通う学校にはないし、家にもない。体育館裏という寂れたこの場所でだけ、俺は空っぽになれる。

「轟はさぁ」
「はい」
「エンデヴァーのこと嫌いだろ?」

 親父のことを言われて、一瞬で平穏な心が搔き乱された。心の中を炎の龍が踊り狂うのを右の拳を握って耐える。「嫌いですよ」吐き出しながら、右手を凍らせる。
 絶対に使ってやらないと誓った左側の個性。それを封じ込めるために右の拳にさらに力を込め、外に出たいと暴れる龍を黙らせる。
 先輩は興味がなさそうに俺の凍った拳を眺めていたけど、口から煙草を離すと「じゃあヴィランになればいいのに」と、これもまた興味がなさそうな言葉を煙と一緒に吐いた。
 一瞬、何を言われたのかわからず、思考が停止した。あまりにも思考が停止したことで個性も停止した。氷で覆われた右手からパラパラと氷片が落ちる。「ヴィラン?」「そー」煙を吐き終えるとまた煙草を銜えた先輩が目を閉じて体育館のコンクリートの壁に頭をぶつける。

「だってさ、嫌いなんだろ。嫌いなのに同じモノ目指すなんて変じゃない?」
「……俺は、親父の力は使わないで、それで親父を超えるって決めてるんです。絶対に見返す、って」
「へぇ。偉いけど、苦しい道だ」

 一本目を吸い終わった先輩は二本目に手をつけた。ライターで煙草の先端に火をつけて銜え、煙を吸う、その火が、アイツに見えてくる。憎いアイツの炎。お母さんや俺を不幸にしてきた炎。
 俺はその炎を否定したい。だから右の氷の力だけで先へ進む。親父を超えるヒーローになる。ずっとそう思ってきた。
 そう、思ってきたけど。
 先輩は興味がなさそうに、手にした煙草で空に何かを描く。おそらくなんでもない何かを。

「人生なんて、絵巻物や絵画みたいなもんでさ。たとえばゴッホや北斎なんかの有名人のはみんなこぞって見たがるけど、無名で、とくに見どころのない人のモンなんて、誰も見ないんだ」
「……はぁ」
「だからさ、頑張って綺麗な絵っていう人生を描いても、俺なんかは無意味なんだよ。だって誰も見ようともしないからね。そんなことはするだけ無駄。
 泥水すすって正しいことして、醜い世界に抗ったって、無意味なんだよ。一円の得にもならない。だから俺はそういうことはしないって決めてる。
 自堕落に生きて、自堕落に死ぬ。それが人生。それが一番」

 ね、と煙草を揺らして笑う先輩に、何を言えばいいのか、言葉が出てこない。
 たった二年だ。二年先を生きているだけの人。その二年が途方もなく遠いと思ったのはそれが初めてだった。
 右手を覆っていた氷が砕けてバラバラと足元に散らばる。

「………先輩は」
「ん」
「死にたいんですか?」

 ヴィランになりたいんですか、と訊くつもりが、気付くとそんな言葉を口走っていた。
 あ、と口を手で塞ぐももう遅い。先輩はきょとんとした顔でこちらを見ている。それで煙草を手のひらでもみ消して「死。死かぁ。どうかなぁ。まぁ、当たらずも遠からずかな? 生きるのって面倒くさいしね」なんて言いながら腰を上げて立ち上がると、いつもの柔和な顔を作って「じゃあね轟」ばいばい、と小さく手を振りながら体育館の裏側から表の道へと出ていく、その背中を眺める。
 甘くて苦いあの人の香りは、秋の風にさらわれてすぐにかき消えてしまった。