一ヶ月の家出を終えて家に戻ってからの日々は、幸福、だった。
 親父は物言いたげな目でいちいち見てはくるが、個性特訓や鍛錬、やるべきことをやってれば、たまにネチネチ小言を言うだけ。
 夏兄は俺たちの関係に否定も肯定もしないスタンスで、冬姉だけが、俺たちのことを祝福してくれた。
 別に、誰に何を言われようが、がいればどうだってよかったけど。一度目の人生、誰にもあの人とのことを言えないまま終わったことを思うと、姉さんに認められただけでもなんだか嬉しくて。不覚にも泣いてしまった。
 人目を気にせず家の中でイチャつけて、セックスだけはまぁ気を遣ったけど、それ以外はずっとべったり、と一緒にいられる。
 死柄木弔という障害もなくなった。奴は今もタルタロスで厳重に監視されている。もうの人生を脅かすものはない。
 遊園地でもデートできるし、水族館でもデートできる。一緒に映画を観れるし、どこへだって行ける。もう家に閉じこもっている必要はなくなった。
 手を繋いで、笑って、行く場所行く場所で集めてきた絵の具で、白いキャンバスに絵を描く。俺とあなたが笑い合う人生っていう絵を。
 まだ描いてる途中だけど、語り継がれるくらいに幸せな絵にするんだ。
 そうやって色を集めながら、一年が過ぎた頃のことだ。

「先生、どうする気だろう」

 ふやけた思考に冷水がかけられたのは、テーマパークのベンチに座るの背後から冷たい飲み物を持って近づいて、驚かせてやろう、ってわくわくしてたときだった。「誰のことだ、それ」振り返ったは「あ、口に出てた?」と苦笑いしながら俺の手からコーラを受け取る。
 コーラをすすった相手はなんでもない顔でこう続ける。

「弔の教育をしてた人がいてさ。本名は知らないし、先生、って呼ばれてるところしか見たことがないんだけど。あの人はどうしてるのかな、と思って」
「…………」
「連合は、あの人が首魁だったと言ってもいい。だからあの人を捕まえないと終わらないんだとは思うんだけど」
「親父には」
「話してあるよ。ただ、見つからないみたいだ。あの人はかくれんぼが上手だから」

 肩を竦めてみせるに、目の前がぐらぐらと揺れている。
 過去のこととして遠くなりかけていた一度目の人生の記憶を手繰り寄せ、最後の方。あまり思い出したくもない、この人の最後を知ったテレビの映像を浮かべる。ノイズ混じりのそれに意識を凝らす。

(俺は、先輩とセックスしてただけで。それで保護されただけで。先輩は、死んで。ヴィラン連合は逃げて。だけど一人、首魁と言われた男とオールマイトが戦って、捕まって……)

 戦っていた。映像で見た。顔の潰れた、男だった。
 先輩はヴィラン連合に深く関わっていた。先生と呼ばれた男ともきっと繋がっていたろう。
 ただ、先輩から、その男についてを聞いたことはない。
 思えばなんでもそうだ。先輩は優しかったけど、俺に情報を流すことはしなかった。死柄木のことも、先生って男のことも、何も話してくれなかった。全部一人で抱え込んでいた。抱え切れないって知っていながら。
 オレンジジュースをすすりながらちらりと隣に視線を投げる。「その、せんせーと、仲良かったのか」「俺?」「ん」探りを入れる俺に、また肩を竦める。「先生は弔の教育係。何度か見かけたことはあるけど、俺は弔の使い走りで、それ以上でも以下でもなかったから、直接話したことはないよ」ほ、と息を吐く。
 なんだ、そうか。
 ここではその程度の関係だったというのなら、その男がに何かを仕掛けてくるなんてことは、考えすぎか。
 考えすぎ、だとしても。この世界のヴィランから死柄木が退場したのだとしても。油断はできない。
 雄英ではきっとまた同じことが起こるだろう。
 USJ襲撃事件、夏の合宿。今と謳歌しているこの平和も、いずれは脅かされる………。

(中学は、行くか)

 できることならとずっと一緒にいたかったが、私立の中学に入って、問題なく雄英に入学する必要がある。そうしないとヒーローの世界に貢献ができない。この平和を守れない。
 それに、いいかげん、親父の小言が鬱陶しい。
 オールマイトを超えてやると宣言もした。に家で居心地の悪い思いをさせないためにも、中学からは学校に行こう。
 そうやって十二歳になった俺は、一度目の人生で通っていたのと同じ中学に入学した。
 小学校には通ってなかったが、通信でしっかり卒業資格は取っているし、親父は金だけはある。入学に必要な学力も金も問題はない。
 媚へつらってくる女子が鬱陶しいというのは前の人生と同じだったが、適当にあしらいながら、授業が終わったらまっすぐ家に帰って、出迎えてくれるを抱き締める。

「おかえり」
「ただいま」

 中学に入ってぐんぐんと背が伸び成長した俺は、に抱き上げてもらうことはもう叶わない。けど、同じくらいになった背丈で抱き締め合うことができる、この喜びも好きだ。
 ………でも、ガキだった頃と比べて可愛げがなくなったな、と思う顔を鏡で見る度に複雑な心地になる。
 この人生でも学校へ行けば女子がうるさく付き纏ってくるわけだから、俺はイケメンってことになるんだろうが。そんなものより、可愛い丸い顔のままの方がよかった。そうしたらまだスカートが履けるし、も喜んでくれたのに。
 ヒーローになるためには必要なもの。可愛げのない筋肉とか、体力とか、しなきゃならない筋トレとか、トレーニングとか、そういったものを重ねる度に、心はどこかもやもやと黒ずんだ。
 いくら髪を伸ばしてみても、小さい頃とは違う。スカート履いてフリルのあるシャツを着たとしても、鏡に映る自分は女には見えない。

(かわいい方が、いいだろ)

 鏡に映っている自分は腹筋が割れていて、胸筋もあって、肩も腕もいかつい。可愛げなんて欠片もない。
 先輩だったあの人は、そういうことを一度だって言わなかったけど。胸があってやわらかい女子を抱く方が、あの人だって好きだったんじゃないか。そんなことを考えると夜も眠れなくなる。
 俺のすべてである人は、俺の様子がおかしいとすぐに気がつく。眠そうな顔でパソコンを弄って食材の注文をしてたところから「どうしたの」と優しい声で俺にキスして、手のひらで、唇で、甘やかしてくれる。
 我ながら女々しいと思うことをぽつりぽつりと吐露すると、優しく笑ってこんな俺を肯定してくれる。

「そりゃあ、そういうお前もいいと思うけど。俺は轟焦凍が好きなわけだから」

 つつつ、と細長い指が太ももをなぞっていく。「今のお前も好きだし、昔のお前も好きだし。どんなお前でも好きだよ」指が辿り着いた場所は触れて欲しいという期待でもう膨れている。「たとえばヒーローでも。たとえば、ヴィランでも」肝心な場所には触れないまま腹をなぞって胸まできた指が乳首をこねくり回すのに唾を飲み込む。期待で硬くなってるのが自分でもわかる。

「お前と一緒なら、俺はどこでだって、幸せだよ」

 夢みたいな言葉が、耳を犯して、思考を溶かして、体をふやけさせていく。
 幸せだった。
 の言う『先生』って脅威は未だ健在だったが、幸せだった。
 幸せだった。
 幸せだった。
 幸せ、だった。
 それしかなかった。それが怖いくらいだった。
 だから、が突然咳き込み始めて、血を吐いたとき、思ってしまった。
 ああ、また。俺たちは。幸せには、なれないのか、って。
っ」

 体をくの字に折り曲げて咳き込むがまた血を吐く。「姉さん、救急車」「あ、はいっ」呆然自失状態の姉に命じて、血の混じった夕飯を吐き出して掠れた息を繰り返すの背中を軽く叩く。
 掠れてはいるが息はしてる。吐しゃ物で気道が塞がってる、ってことはなさそうだな。よし。「夏兄、毛布持ってきてくれ」「お、おお」こっちも呆然としていた兄に命じ、掠れた息を繰り返すに自分が着ているカーディガンをかける。
 吐血したときの応急手当は、吐いてる最中は顔を下向きに。背中を軽く叩いて吐き出しを助けて、窒息の原因になるものがないかを確認して。保温のために毛布とかでくるんで。それから。

? 俺の声聞こえるか」

 浅く頷いたの肩を抱く。「もう吐かないなら、横になろう」「ん……」なんとか立ち上がったをリビングのソファにそっと寝かせ、いつ吐いてもいいように布や洗面器を用意する。
 一度目の人生で、短いとはいえ、ヒーロー科でらしいことをしてた。このくらいの応急処置ならすぐに思い浮かぶ。
 顔色の悪いに薄い食塩水でうがいをさせて、外で電話をすませ駆け込んできた姉の「救急車、すぐ来るって」と言う声にほっと息を吐く。
 あるだけの毛布を出してきたんだろう、夏兄が持ってきた毛布を被せてなるべく体温を保つ。
 救急車が到着するまでの間、苦しそうに息をするを見ていることしかできない自分が不甲斐なかった。
 ついさっきまで、絵に描いたように幸せな夕飯の風景だったのに。今日もうまいの飯を食ってたのに。いつもと変わりない日常だったのに。
 中途半端に手がつけられた夕飯は食卓の上で冷え始めている。

(世界は、この人を幸せにする気がないのか)

 一度目でも。二度目だろうと。この人に優しくする気はないのか。
 もういいだろ。放っておいてくれ。人並みの幸福を享受させてくれ。二人で生きていたいだけなんだ。頼むからもう放っておいてくれ。二人で息をさせてくれ。
 俺たちが望むことは、ただ、それだけの……。