体が、沈む。
 深い場所まで。
 海の底まで。
 瞼を押し上げると、遥か遠くにゆらゆらと揺れる光が見えた。
 遠くて、遠くて、手を伸ばしたくらいじゃ届きそうにない。

(俺。死んだのかな)

 さっきまで焦凍たちと夕飯を食べてた。いつもの風景だった。いつもの、いつも通りの、幸せな家のかたちだったのに。
 なんか急に、吐き気、がきて。我慢できなくて吐き出したら、赤い色だった。吐血とか、初めてだ。

「またか」

 誰もいない。何もない。そう思っていた場所に落ちた声に視線を彷徨わせると、すぐそばに俺が立っていた。
 いや、俺、に似ている誰か。か。俺はあんな制服着たことはないし、髪だって長くない。
 俺そっくりの誰かがぺたぺたと俺の体に触れていく。「肺が駄目か。呼吸に支障……胃もか。小さな穴があいてきてる」ブツブツ言いながらその誰かが自分の胸に、腕を、突き込んだ。そのことに俺の方がぎょっとした。
 とくに感慨もなく自分の胸からブチブチと肺と胃を取り出した相手に眩暈がする。

「取り換えるぞ」
「は、ぁ?」
「壊れた肺と胃なんていらないだろ。オレに任せろ。でもグロいからな、目ぇ閉じてろよ」

 俺の胸に手を当てた相手に、自分の胸が切開されるところなんて見たくない、と大人しく目を閉じる。
 体、なんか動かないし。誰かもわからない相手に体を弄られるとか遠慮したいけど、逃げることもできない。なら大人しくしているしかない。痛いのは、嫌だけど。
 ぐぢゅぐぢゅと、肉とか色々弄られる耐え難い音が響く中、頑張って目を閉じ続けて………「終わった」ぽん、と落ちた声に薄目を開けると、俺の顔をした誰かが上から覗き込んでいる。「気分は」「わ、るくは、ない」なんか、痛くもなかったし。というかこれは感覚がないのか、俺は。「じき馴染む」「はぁ。それは、ありが、とぅ」状況がよくわからないながらもお礼を言うと、相手は笑った。その顔はやっぱり俺だった。どうしようもなく。

「だれ?」
「オレか? まぁ、誰だっていいだろ」

 俺の命の恩人は、どうやら自分のことはあまり喋りたくないらしい。それなら無理に訊くことはしないけどさ。
 ご飯食べてるときに倒れちゃったから、焦凍も、冬美ちゃんも、夏くんも、心配してるだろうな。早く帰って安心させてやらないと。って、そういえば。「……ここどこ?」暗くて深い海の底みたいだけど。
 俺だけど俺じゃない誰かはその辺に視線を逃がした。「あー。そうだな。あの世とこの世の境目、って感じか」「…俺、死にかけた?」「ああ。今生かしたから、現実に反映されたら目が覚める」「はぁ。へぇ……」どこか霞む視界で上の方を眺める。そこに誰か。紅白色の髪の。あれは、焦凍、かな。

「なぁ」
「ん」
「お前、今、幸せか」

 今。っていうのは、この場所のことじゃなく、俺が生きている場所のことか。
 焦凍がいて、冬美ちゃんがいて、夏くんがいて、苦い顔をしてる炎司さんがいて。焦凍に紹介してもらう約束をしてる冷さんがいて。轟家の中で、轟の名前をもらった俺が、馴染んで、笑ってる。

「しあわせだよ」

 笑った俺に、相手はなんともいえない苦い顔をした。
 そこで、目が覚めた。「……?」シュー、という音のする口元に手をやると、呼吸を助けるためのマスクがつけられていた。逆に息苦しい。
 勝手に外したら怒られるかな、と思いながらマスクを外して視線を彷徨わせると、病院の個室で、ソファで毛布にくるまっている焦凍を見つけた。「し、」カラカラに渇いた喉で咳き込むと、その音で目を覚ました焦凍が跳ね起きてベッドに駆け寄る。「っ」「ん。みず、ほし」ベッドサイドの水差しを持ってきた焦凍の手は震えていて、その手に手を添えて水を一口飲む。…うん、大丈夫。なんともない。
 ナースコールを押した焦凍の泣きそうな顔をなんとかしたかったけど、超スピードでやってきた看護師の人たちに囲まれてしまったから、焦凍の手は取れなかった。
 あれやこれやと機械で調べられた挙句、白衣の先生は困惑顔で「どこにも異常は見当たりませんね……。肺と胃が問題だったはずなんですが」肺と。胃。俺じゃない俺が治していたところだ。
 そっか。本当にそこが悪かったのか。
 自分の胸と腹をさすって、言おうか迷って、やめた。
 だって夢だ。あの世とこの世の境目で助けてもらって、健康になって帰ってきました、なんて、誰が聞いたって笑う。
 念のため明日もう一度検査をして、それでも異常がなければ、退院してもらって結構です。今夜は良く眠ってください、と残して先生たちが病室を出ていくと、俺と焦凍の二人きりになった。

「炎司さんは」
「さっきまで、いた。けど。仕事だって」
「そっか」

 ベッドに腰かけた焦凍を緩く抱き寄せると、よく知っている体温がした。
 ああ、生きている。
 よかった。……よかった。
 焦凍がぱたぱたと涙を落としながら俺にキスをした。「心配したんだ」「うん。ごめん、ビックリさせて」「ビックリどころじゃねぇ」「うん。ごめんよ」子供みたいにぽろぽろ泣く焦凍のことを緩く抱き寄せてベッドに招き入れ、一人用だから狭いベッドで二人で横になって、お互いの体温を感じながら、その日は眠った。
 結局俺の吐血騒ぎは『原因不明』ということになったので、今まで以上に健康に気をつける、一ヶ月に一度健康診断をする、ということで轟家の中で話はまとまった。
 そこから。
 少しずつ、少しずつ、
 俺の体は壊れていった。
 まるでそういう時限爆弾が仕掛けられていて、内臓に寿命が設定されているかのようだった。
 月に一度の健康診断で体のどこかしらに異常が見つかり、投薬の治療をしたり、酷いときは入院生活。
 原因はやっぱり不明。最先端の医療が受けられるセントラル病院をもってしても俺の体の急激な変化にはうまい答えが出せないみたいで、治療法もその度に二転三転して、そういう生活は、一言で言うなら、ただ、苦しかった。
 その夜も、ずぅんと重く痛む胸を抱えて、掠れた呼吸を繰り返すだけ。苦しくて眠ることなんてできやしない。
 ただ、病室の窓の外に丸い月があって、静かに俺のことを慰めていた。それだけが救いだった。
 今日は焦凍はいない。いつもはそばにいるってきかないけど、明日は期末テストがあるからって、炎司さんが無理矢理連れて帰ったのだ。だから今日の慰みは月だけ。
 焦凍がいたら。泣きそうに心配してる顔でも、心は、軽くなるのに。一人じゃないな、って。
「苦しいかい」
「……、」
「いや、言わずともわかっているさ。苦しいだろう。それはそうだ。君の体は限界がきているからねぇ」
 月からソファの方へと視線をずらすと、いつの間にかそこに誰かが座っていた。
 顔が。潰れていて。呼吸器をつけてるスーツ姿の男、だった。知らない相手だ。ただ、この声、どこかで聞き覚えがある……。
 相手はない顔で、口元だけでニッと笑ってみせる。「弔の件ではやってくれたね。おかげで彼は今もまだタルタロスさ」その台詞で、思い出した。いつもスーツを着ている男。この声。弔が先生と呼んでいた。
 震える手でナースコールに手を伸ばしたけど、なんでか届かない。このへんにあるはずなのに。「まぁまぁ、落ち着けよ。僕は話をしにきただけだ。それも、君の体の話だ。聞く価値はあると思うよ」「…………」ナースコールには、手が届かない。人を呼ぼうにも声なんて出ない。くそ。
 ぱたっと手を落とした俺に、相手は深く頷いた。それでいいとばかりに。

「君はねぇ、デザイナーベビーなんだよ」
「で……ざ…?」

 デザイナーベビー。って、なんだ。
 一段と重くなった胸の苦しさに眉根を寄せた俺に、相手はおどける道化のように両腕を広げて解説する。潰れた顔の口元が引きつりそうなほどに笑みを浮かべている。

「僕が望む遺伝子を受精卵の段階から操作し、デザインした子供、ということだ。それが君だ」

 ぴ、と指さされて、言葉が出てこなかった。「君はねぇ、僕の実験体の一人だったのさ」実験体。「たぁくさんいた実験体の一人で、一言で言うなら、失敗作だ」……何を言ってるんだこの人は。口から出まかせか?

「僕は弔を次の僕とした。君でもわかりやすいふうに言うと、後継者を育てたわけだ。
 でもさ、考えてみてくれ。僕の顔はこんなふうに潰れてしまったし、肉体だって歳を取ったけど、若いままの自分のスペアがズラリとそこに並んでいて、今の体が役に立たなくなったら新しいものに乗り換える。その方が後継者を育てるより簡単だろう?」

 何を。言っているんだ、この人は。「デザイナーベビー計画はその一環さ。僕が理想とする器、魂を受け入れる器は果たして創造できるのか? 肉体の個性因子はどの程度弄って問題がないのか? そういうもろもろの実験を含めて、僕は人間を創っていた。その一人であり、失敗作が、君だ」立ち上がった先生が俺の肩を叩く。それだけで今の体には響いて咳が出る。
 先生は楽しそうだった。苦しんでいる俺を見てるのが心から楽しいって顔だ。

「君は強い個性を持つわけでもなければ、僕が望むような妄執を抱くでもない失敗作ではあったが、幸運だったんだぜ? 廃棄処分にならずにすんだんだから。
 弔が君を気に入ってねぇ。子供から玩具を取り上げるのもかわいそうだし、仕方がないから弔の世話係にして、生かすことにしたんだ。
 だが、君は弔を売り、ヒーロー側についた。そして、体にガタがきた」

 わかるかい。これは罰なんだよ。
 そう囁く先生の声がうるさい。耳に蓋をしたいのに、耳には瞼がない。目のように閉ざすことはできない。

「君が大人しく弔の世話をしていたら、こちらも君を生かすために手を施していただろうに」

 聞きたくなんてないのに、先生の声は容赦なく俺を責める。「彼の愛憎を、君は他人を抱くことで自覚させたわけだ。なかなかに最低な方法だ。彼ねぇ、泣いてたよ。だからあの日、罠だって警告したのに、君の旅行先まで一人で行ってしまったんだ」……そんなつもりはなかった。弔が俺を好きだなんて知らなかった。
 いや。知ってたとして。俺にはもう、好きな人がいる。好きになった子がいる。どのみち、この結果にはなっていた………。

「どうだろう。協力しないかい?」
「……は?」

 掠れた声をこぼした俺に、先生はニッと笑う。潰れた顔で、狂気すら感じる顔で、笑ってみせる。「僕は弔をタルタロスから出してやりたい。君は、そのどうしようもない体をどうにかしたい。お互いに欲しいものがある」「……どう、」どうやって。どっちもできっこない。タルタロスは難攻不落の要塞で、脱獄した人間はいないし、俺の体はボロボロだ。そんな簡単にどうこうできるわけがない。
 先生は上機嫌そうに笑うと「まぁ、それはおいおい説明するとしよう。今日はとにかく、僕の話を考えておいてくれ。これはそのお礼さ」俺の腕を取った先生が問答無用で何かの注射を打った。途端に意識がぐらりと揺れて、憶えのある昏い海へと沈んだ。