目を開けると、憶えのある海の底だった。暗くて昏い。またここか。
 遥か頭上、遠くで揺れる現実の水面では、先生と思われる人影が俺から離れたところだった。
 ……妙に冷静な頭が静かに思考する。
 さっきの話を信じるなら。先生は俺にやってほしいことがある。そのために俺を利用したいなら、さっきの注射で殺すってことはないはずだけど、どうかな。俺はあの人のことはよく知らないから………。

「あ? お前またか」

 落ちた声に顔を向けると、制服姿の髪の長い俺が不機嫌そうな顔をしていた。「なんでそうここに来るんだよ」「ああ。うん。たぶん、デザイナーベビーだから」体にガタがきているから。だからよく死にかけるんだと思う。
 そう言った俺に相手はピタッと動きを止めて、不機嫌な顔で頭上の水面を睨みつけた。
 このよくわからないもう一人の俺について、先生の話を聞いて、なんとなく、察しはついている。
 だからコイツは俺の話を否定しない。すいっと泳いで俺に寄ってきて「体見せろ」と勝手に病院着をめくりはするけど、そんな馬鹿なことあるわけないだろなんて誤魔化したりはしない。
 ぺたぺた俺の体に触れていた相手は腕組みした。「腐ってもセンセーだな。創ったんだから修繕もできる、ってか」そう気に入らなさそうに吐き捨てる。
 つまり、先生の注射は、俺の体を治すためのもので。どういう仕組みと効能になってるのかは謎だけど、あれは俺にとって良いもん。ってことか。
 俺の体調が崩れてからすぐに姿を見せなかったのは。セントラル病院をもってしても、俺の体を治すことは難しくて。自分ならそれができるって、思い知らせるため。
 つまり。俺に。選択肢はない。
 生きたいと思うなら。先生に従って、弔をタルタロスから出す手助けをするよりほかにない……。
 それは、ヴィランに戻る、ってことだ。あの先生の命令に従うってことはそういうことだ。
 それに、たぶん。絶対。弔には酷い目にあわされるだろうな。

(焦凍に会って、手を引かれて、好きになって……一人前の人間みたいに、振舞ってたけど。そうじゃなかった………)

 先生の都合で生まれて。先生の都合で死ぬ。俺はそういう存在だった。
 こぼれた涙は海水と交わることなく浮いて、頼りなく揺れながら、水面に向かって進んでいく。
 俺の隣でチッと舌打ちしたもう一人の俺が指を弾くと、映画のスクリーンのように、よく知っている轟の家が映し出された。
 焦凍と俺の部屋、その縁側で、見知った紅白頭が一つ、ぼんやりと月を見上げている。
 俺が病室から慰みにしていた月は、焦凍にとってもそうらしい。ぼやっとした顔は心ここにあらず、だ。テスト勉強なんて二の次で、入院してる俺のことを考えてるに違いない。
 俺も、お前も、お互いのことばっかり考えてる。他のことはどうでもいいんだ。たとえば、自分のことでさえ。

「その気持ちも、先生の作りモンだと思うか」
「……………」
「アイツが好きなんだろ」
「うん」
「じゃあ生きろよ。這いつくばってでも。泣いてでも、納得できる幸福を目指せ」

 ふわふわ浮いていく涙を指で払って、瞬きしたとき、もう海はなかった。もう一人の俺もいなかった。
 先生に注射された跡のある腕をさすって起き上がり、大きく息を吸い、吐く。
 深呼吸。それで軋む胸はない。
 うん。体のどこもおかしくない。それが逆におかしいと感じるくらいに。
 最近は調子が悪い日ばっかりだったし、久しぶりに健康に動く体ってものを味わう。ベッドから起き上がるのも億劫じゃないし、ハンガーに吊り下げられているカーディガンを羽織るのも苦じゃない。
 これだと病院側は困るだろうなってわかっていたけど、病室から飛び出して、見回りの看護師さんに見つからないよう注意して夜の病院を抜け出す。
 もう電車は動いていなかったから、轟家目指してただ走った。
 今すぐ焦凍に会って抱き締めたかった。キスをしたかった。抱き合いたかった。
 先生に注射を打たれるまでボロクソだった体はすぐに悲鳴を上げたけど、気合いで動かし続けて、轟、と書かれたゴツい造りの門を抜ける。
 掠れた息で焦凍のことを呼びながら縁側に行くと、その焦凍がサンダルを引っかけて駆けてきたところだった。泣いてる。お互いに。
 膝が笑ってて、もう歩くこともしんどくて砂利に膝をつくと、俺を追って膝をついた焦凍に苦しいくらいに抱き締められた。そんなことが嬉しい、と感じる。
 ……この体はもうどうしようもないかもしれないけど、心までそうはならない。なってやらない。

「なんで、いるんだよ。病院のはずだろ」
「治った。から」
「嘘言うな」
「ほんと。ここまで、走って、きたんだ。すごいだろ。おかげで、へろへろ、だけど」

 病院着だし、汗まるけだし、今の俺ってなかなかに酷いんじゃないかなと思いながら、涙で蕩けた顔の焦凍とキスをした。汗のしょっぱさと涙のしょっぱさが混じった味のキスだった。
 唇の感覚がなくなるくらいキスをして、手を引っぱられるままに歩いて焦凍の部屋に転がり込んで、走って着崩れてる病院着を脱がされた。そのまま汗の目立つ肌を舐められる。しょっぱいだけでおいしくないのに。
 俺の上に乗った焦凍はもう勃起していて、自分のを俺に擦りつけるようにしてる。エロい。

「ほんとにいいのか。体」
「うん。疲れてるけど、平気。しょーとこそ、明日、テスト。だろ」
「どうせまた一番だ。そんなことよりセックスしてぇ」

 欲望に正直だなぁ。まぁ、俺もだけど。
 最近は俺の体がダメダメだったから、満足にセックスできてなかったもんな。溜まってるよな。俺もだよ。
 ………先生がどういう注射をしたのかは知らないけど、効果は実感してる。
 だから、俺に、選択肢はないけど。一人で行くのか、二人で行くのかは、選ぶことができる。
 寝間着の短パンを脱ぎ捨てた焦凍がローションとゴムを持ってきた。「俺がするから、寝てろ」自分で後ろの孔を解し始めた焦凍を見上げながら、考える。走り疲れてぼんやりしてる頭でそれでも息をする。
 ……先生の都合のいいように遺伝子個性因子その他を改造されて、生まれたのが俺だった。
 細胞単位で体が書き換えられている、その負荷が症状として出始めたのが最近で。
 それはつまり、寿命が近い、ってことだ。
 俺は黄泉への道に片足をついている。

「ふぅ、ふ、ン…っ」

 俺に跨って夢中で腰を振ってる焦凍を見上げる。気持ちいいんだろう、涙と涎を堪えきれてない。「きもち、か、」「うん」「おれ、も。きも、ちぃ」自分で加減して気持ちいとこ擦るのは、それはそれで気持ちいいんだろうと思うけど、さ。俺はもう少し奥までいきたいな。
 手を伸ばして焦凍の腰を掴んで、奥までいかないようにって加減をしてるのを、腰を打ち付けてぶち壊す。「あッ!」中学生になって精通を終えた焦凍のちんこから白い体液が飛び散る。
 これ、苦しいから好きじゃないって言ってたもんな。奥まで入っちゃうって。
 加えて言うなら、セックス自体が久しぶりだし。それなのに奥突かれたら、おかしくなっちゃうって、そういうことだろ。
 浅い呼吸を繰り返す焦凍の腹をなぞる。
 今この中に俺のが入ってるんだって、考えるだけで興奮する。
 体液っていう体液でぐちゃぐちゃになった焦凍が見たいけど、我慢、ガマン。
 俺がちょっと体を揺らしただけで焦凍はいやいやと首を横を振る。「ゃ、だ、これ、やだ」子供みたいな顔されると余計に興奮するんだけどな。この体勢で突いちゃうと焦凍の奥に入って泣き叫ぶことになるから、今日はやめとこ。我慢、我慢。
 俺の息も整ったし、焦凍も腰振るのに疲れてきただろう。
 さっきまで俺が寝転んでたから、場所を交代。焦凍に寝てもらって足を抱えさせる。

「声は我慢。ね」
「……じゃあ、キスしてくれ」

 望まれるままに焦凍の口を俺の口で塞いで、快楽への期待で揺れている腰を掴んで、俺の熱を埋めていく。
 その夜は体力が尽きるまで抱き合って、気付いたら寝ていた。冬美ちゃんの「くん!?」という悲鳴のような声で目を覚ますまで、夢も見ないで爆睡していた。
 焦凍を起こしに来たのに、病院で入院してるはずの俺が焦凍と素っ裸で寝てたら、そりゃあ驚くだろう。顔赤くして背中を向けるのも当然だ。「な、な、なんでここに!?」「元気になったから、抜け出してきちゃった。ごめんなさい」笑った俺の横でのそりと焦凍が動いて俺の腰に腕を回して抱きついてくる。「ねみ…」まだ半分寝てる。
 その朝はドタバタと騒がしく(俺が病院を抜け出したせいなんだけど)、炎司さんにもたっぷり怒られた。
 炎司さんは苦い顔をしながらセントラル病院に俺を連行。担当の医師による検査その他もろもろを見守り、話し合って、本当の本当に俺に異常がないってことがわかると溜息を吐いた。「すみません…」俺が大きな病気で、悪性の腫瘍があって、それを手術で取れば治る。そんなわかりやすい病気だったなら、病院通いなんて迷惑かけずにすんだんだけど。
 炎司さんは口をへの字にしながら携帯を取り出すと「仕事だ。俺は行くが、一人で戻れるな」「はい」ほんと、忙しいな、この人も。ナンバーツーって大変だ。

「体調にはくれぐれも気をつけろ。異変を感じたら救急車だ」
「はい」
「それから、昨日のようなことは控えろ。病院に迷惑がかかる。元気になったからといって勝手に抜け出すな」
「はい。すみませんでした」
「焦凍とも……いや。なんでもない」

 たぶん今朝のことを言いたいんだろうってことは苦い顔を見てればわかった。
 でも言葉を呑み込んだわけだから、炎司さんも大人になったと思う。いや、もとから大人の体格の人ではあるんだけど。なんていうのかな。精神面が。って本人に言ったら殴られそう。
 病院の入り口まで迎えに来た黒塗りの車に乗り込んだ炎司さんを見送り、正常な体を祝して、病院から少し歩いたところにあるラーメン屋に入る。
 正常そのものの胃には、昼飯にラーメンなんて塩分過多のものを入れても大丈夫だった。
 久しぶりだ、こういう食事は。
 豚骨ラーメンと餃子を堪能したら、腹ごなしがてら、街を歩いて、普通に動く体ってものを味わった。
 普通の人にとってはこれが当たり前。二本足で苦も無く歩いて、呼吸して、買い物したり、コンビニ寄ったりする。
 震えた携帯を確認すると電話が来ていた。焦凍だ。そっか、今日はテストだから早く終わったのか。「お疲れさま」『今どこだ』「えーっと、病院を出て適当に歩いてるけど」目印になるものを探して「フクロウって雑貨屋さんの前」動物ものを扱った雑貨屋の名前を言うと、焦凍は『行くから待ってろ』とすぐに通話を切ってしまった。
 そういうことになったから、ガードレールに腰かけて焦凍のことをぼんやりと待つという、体が普通だからこそ苦でない時間を過ごす。
 ……今まで、できて当たり前だったことが、こんなに幸せに思えるなんてな。
 寿命が近いこの体が好きになったわけじゃあないけど。これはこれで、今に感謝はできる。

!」
「、」

 ぼやっとしていたところから顔を向けると、中学生の黒い制服姿の焦凍が長い髪を揺らしながら走ってくる。全力疾走だ。「ちょ、ま、」そのままの勢いで抱き締められて危うく転ぶところだった。びっくりした。
 肩で息をしている焦凍の乱れまくった髪に手櫛を入れて、首の後ろで三つ編みにし直す。「テストどうだった?」「別に。普通」「そう」「お前の方は。体は」「なんともなかったよ」じっとこっちを見上げる顔に一つキスをして、すぐそこのスターバックスを指す。

「大事な話があるんだ。俺の体の話」
「……ん」
「お昼まだだろ。食べながら、聞いてほしい」

 目を逸らしたところでなくならないのなら、受け入れて、その上で選ぶしかない。この先にある短い人生をどう過ごすのかを。