世界が残酷だなんてことは一度目の人生のときから気がついていた。
 ただ、そのときの自分には『大切なもの』も『大切な人』もいなくて、だから、世界が残酷なことに思うところはあれど、憎んだり悲しんだりするような心はなかった。
 世界は残酷だ。
 今はその事実がどうしようもなく憎い。
 どうして、と。そう思わずにはいられない。
 世界には七十億、それよりもっと人間が住んでいて、生きていて、その中にはどうしようもなく高慢で傲慢な、人類の恥みたいな奴らだっている。
 どうせ死ぬなら、どうせ苦しむなら、そういう奴にしてくれ。なんでこの人なんだ。が一体何をしたっていうんだよ。

「そんなに見とらんでも、おかしなことなんてせんよ」
「……………」

 爺の声に視線だけ投げ、俺には何かよくわからない機械の前でキーボードを叩いている相手を睨む。
 生まれた理由も、死んでいく理由も、全部がかわいそうなは、今は裸で円柱型の水槽の中に入っている。SF映画とかによくでてきそうなアレだ。薄い緑の液体に満たされたその中で、酸素を取り込むためのマスクをつけて、色んな管もつけられて、寝てるのか、さっきからピクリともしない。
 その横で忙しなくキーボードを叩いてる爺はヴィラン連合の一員だ。を生み出したことに一役も二役も買ってる、先生、と呼ばれている男の右腕のような存在。
 ついでにいえば今は脳無を研究中で、ズラリと並ぶ水槽の中には様々な外見の脳無が浮かんでいる。
 一度目の人生のとき。USJ襲撃のときにオールマイトがなんとか撃退した脳無が、まだ未完成とはいえ、こんなにも数がいる。
 ヴィラン連合は本気だ。限りなく本気で、オールマイトやヒーロー社会を潰す気でいる………。
 死柄木弔をタルタロスにぶち込んだくらいじゃ、コイツらは諦めなかった。
 寒気を感じて右腕をさする。左の体温を上げる。「いつ終わるんだ」「三十分前に調整に入ったばかりじゃろ…」「早くしてくれ」「せっかちじゃの〜」俺の唯一無二である人が入っている水槽を手のひらで撫でる。生暖かい液体の温度がガラス越しに伝わってくる。

(この男だけでも殺せば。少なくとも、脳無の研究はストップする)

 チラリと頭をよぎったことに、白衣の爺の背中に視線をやるが、すぐに逸らす。
 殺すことは捕らえるよりも簡単だろう。俺の炎で焼くなり氷で貫くなりすればいいだけだ。簡単だ。
 でも、それをしたら、を治す奴がいなくなる。セントラル病院でも治せなかったを生かすための唯一の方法がなくなる。だからできない。殺せない。捕まえられない。のために、それはできない。
 ………のためなら。これから脳無によって起こる可能性のすべてを、天秤にかけて、以外を切って捨てる。
 俺はこの人がいなくちゃ生きていけない。
 だから、何もできない。ヴィラン連合の連中がしていることに見て見ぬフリをするしかない。
 脳無を造り出すための人体実験も、死体を分解してあさるような行為も、裏社会に横流しされている銃火器のことも。全部、何も見なかった。そういうことにするしかない。
 水槽に寄り掛かったままぼんやり考え事をしていると、あの人のことを思い出した。一度目の人生で出会ったあの人。何もかもどうでもよさそうな生き方をしていたあの人が諦めたような生き方をしていたのはこのせいかもしれない。生まれた理由のろくでもなさ。死んでいく理由のどうしようもないこと。それら全部をわかってて、だから、あんなふうだったのかも。
 俺も、生まれた理由は最低だ。超えられないオールマイトという壁を超えるため、個性を掛け合わせて生まれた子供。『最高傑作』だなんてまるで物みたいな扱い方もされてきた。
 でも、あなたほどじゃなかった。上には上がいるっていうけど、本当にその通りだった。
 円柱の水槽。そのガラスの向こう、薄い緑の液体の中で揺れているアッシュブルーの髪をぼんやりと眺める。

(俺、諦めたくなんてないよ。あなたとのこと。この人生の未来のこと)

 だけど。さっきから考えてるのに、考えすぎてるくらいなのに。全然、明るい未来が見えないんだよ。
 こんなこと思ってもしょうがないのに、幸せだった頃の記憶ばかりが輝いて、眩しいんだ。
 もう戻れない日々が、優しかった昨日が眩しくて、暮れていく空の向こう。未来を見るのがこわい。
 俺は。を失うことが、喪うことが、どうしようもなく、こわい。
 逆を言うなら、のためなら、俺はなんだってできる。
 のためだ。だからこれはしょうがないことなんだ。
 そう言い訳しながら人を殺した。
 炎で焼いた。
 氷で刺した。
 指示された通りの時間、方法を守って、個性を使うだけでいい。
 俺のしたことは事件にすらならず、ヴィラン連合にとって邪魔な人間がある日を境にふっと消える。そういう手伝いを淡々とこなす。

「焦凍」

 麻痺した心が息をできるのは、と触れ合うときだけ。
 どこか悲しそうに笑うに口付けるときだけは幸せだ。服を脱がしていく細長い指の温度を感じるときだけは幸せだ。熱くて硬い熱が俺の中に押し入って、気持ちがいいところをもっと良くしてくれる、そのときだけは、幸せだ。
 一緒に笑っている。そのときだけは、幸福、だ。

「焦凍」
「ん」
「好きだよ。愛してる」

 何よりも嬉しいはずのその言葉が、最近は『さようなら』と言われてるように感じて、素直に喜べない自分がいる。「俺も、好きだ。愛してる」愛に愛を返しながら、どうしてか泣いている。
 さようなら。
 何度も何度も、言い聞かせるように、好きだと、愛してると、さようならと、言われて。俺は泣いている。遠くないうちに来る別れの日を思って泣いている。
 そんな俺に優しく笑うは、近く、死ぬのだ。
 ………今ならわかる。先輩だったあの人が言っていた、真っ赤だから見てほしくない、って言ってた絵のこと。
 絵を描く俺の手も真っ赤なら、手にする絵具も赤い色ばかり。最初の頃に描いていたような色取り取りの絵はもう描けそうにない。
 同じ『笑顔』でも、今とあの頃じゃ、何もかもが違いすぎる。

(幸せな、絵を)

 体のどこかしらが痛むのか、苦しいのか。少し眉根を寄せた寝顔の愛しい人の眉間を指でなぞる。
 誰もが羨むような。誰もが微笑むような。
 そんな絵は。この手じゃ、もう、描けそうにない。