その後も、先輩とは週に一度のペースで体育館の裏で出くわすことになった。
 別に、どちらかが何かを言い出したというわけじゃなく、先輩は週末そこで一人煙草を吸うことを決めていて、そこに俺がなんとなく立ち寄って時間を過ごす。ただそれだけの、先輩と後輩とも呼べない、微妙な関係。
 枯草が完全に萎れて地面と同化し、木の葉が完全に落ちて裸になった木々が等間隔に並ぶだけの淋しい場所。そこで白い煙を吐き出して鉛色の冬の空を見上げる横顔をなんとなく眺める、それだけの時間。
 そんなことがひと月ほど続いたある日。

「吸う?」

 最初に訊かれたこととまったく同じ言葉を、まったく同じ、気怠そうな表情で言われて、あのときは断った煙草を指でつまんで受け取った。 「うまいんですか?」「さぁ」「さぁって」「人によるし。俺のは初心者でも吸いやすいってヤツだけど」へぇ、とぼやいて先輩がさっきまで口をつけていた場所を見つめて、見様見真似で銜えてみる。……もうそれだけで苦い。
 顔に出てたんだろう、先輩が吹き出して笑って、俺の口から煙草をさらった。「銜えただけでそれじゃあ無理だな。轟にはまだ早い」「…………」苦い味のする唇を袖でこする。香りは甘いくせに、甘い成分なんてどこにもなかった……。
 煙を吸い込んだ先輩が煙草から口を離して、俺の制服の襟首を掴んだ。
 何をするのか、とか、言いかけたんだと思うけど。気付くと俺の視界は先輩の顔というか目というかでいっぱいになっていて、何か言いかけていた唇からは苦い味の生ぬるい温度が流れ込んできて、体が強張った。
 初めての感触だった。初めてのキスだった。苦くて苦くて、香りばっかりが甘い、どうしようもなく苦いキスだった。
 苦い煙も苦い唾液も寄越してきた先輩が顔を離して、何事もなかったみたいにまた煙草を吸うから、咳き込みながらすまし顔を睨みつける。何すんだこの人は。

「轟はさぁ」
「………なんですか」
「望まなくても、お前の描く人生って絵は色んな人が見る。たとえば親父さんとか、たとえばおふくろさんとか。だからお前は適当に生きられない。それって辛いよね」
「……そういうふうに考えたことは、なかった。ので」
「そ。じゃあ俺がその可能性を提示しておくよ。少しの人生の先輩として、逃げる、って道もあるってね。
 何が一番大事か、間違えないようにね、轟」

 はぁ、と曖昧な返事をしながら唇を袖でこする。まだ苦い。
 二年先に生きているだけのはずの先輩は、こんなふうに、 気が向くと人生の先輩として抽象的な話をしてくる。
 それでたまに俺に煙草を勧めては、遠慮すると、キスで無理矢理煙と唾液でその苦さを甘い香りと一緒に押し付けてくる。
 それが嫌なら、もう体育館裏に行かなければいいだけだ。それでこのよくわからない関係は終わる。
 それなのに、週末になれば、俺は体育館裏に行って、甘い香りのする苦いキスをする。
 俺と先輩は、そういう、よくわからない、曖昧な関係だった。
 秋が終わり、冬が来て、そうすればあっという間に春が来る。
 三年生の先輩にとっては卒業式のある三月。
 その日はまだ肌寒く、桜も咲いていない、そんな淋しい日だった。
 制服のボタンやベルトや色んなものを女子に根こそぎ持っていかれたその人は、どこかボロボロになりながら俺のところにやって来て、「あげる」と煙草の吸殻を寄越してきた。「ゴミですけど?」半眼で睨んだ俺にははと笑って「でも俺の唾液つき」「いりません」「えー。女の子なら喜んでもらってくれるのに」「男ですから」それでも先輩が吸殻を押し付けてくるもんだから、灰まみれのそれを、俺は結局受け取ってしまった。
 先輩の願掛けは卒業まで続いたらしく、また少し長くなった紺の髪を押さえながら、あの人は優男らしく俺に微笑みかける。

「大事な話があるんだ。轟」

 女子を誑かすことに長けた甘い声に大事な話だと言われると、男の俺まで背中がムズ痒くなった。「…ここじゃあ、ちょっと」内容がどうであれ、人目がある場所は嫌だと、暗にそう示した俺に、先輩が選んだ場所はやっぱり体育館裏。俺たちがそれなりに長く時間を過ごした場所。
 先輩はそこで、ナイショ話するみたいに俺に顔を寄せて、キスできるくらいに近い距離で、

「俺さ。ヴィランなんだ」

 そう、信じられない言葉を口にした。

「………は?」
「だから、轟とはここでさようなら」
「は? 何言って、」

 話はおしまいだとばかりに歩いて行こうとする腕を掴んで止める。「ヴィランって、どういう意味ですか」「だから、ヴィラン。ヒーローの敵。お前は雄英高校に行ってヒーロー目指すんだろう? 俺たちは敵同士ってこと」「はぁ?」俺は頭は良いはずなのに、このときばかりは思考力のすべてが錆びついてしまったみたいにちっとも動かなかった。思考の歯車はいつまでたっても嚙み合わず、先輩は俺の手をゆるりと解いて、行ってしまう。

「お前はまだ選べる。道を選べる場所にいる。だから、よく考えて、生きなさい。轟焦凍くん」

 ばいばい、と後ろ手を振った先輩が、視界から消えた。文字通りに。瞬きの瞬間にあの人の姿は木枯らしの中に消えて、そこにはもう誰もいなかった。最初から誰もいなかったみたいに。
 俺は体育館裏で一人突っ立って、握らされた吸い殻を馬鹿みたいに見つめていた。
 二年後。雄英高校の推薦枠を勝ち取った俺は、何も問題なく雄英のヒーロー科に入学した。
 そこで信じられないものを見た。
 長い紺の髪に、男子生徒の普通科の制服。女子に囲まれて黄色い声を上げられてる、あの姿は。
 間違えるはずがない。
 だって二年探していた。通学路で、どこかへ出かける度に、あの髪の持ち主を探していた。
 マンモス校であるが故に人でごった返す登下校の坂道で、人混みを避け、ときにはかき分け、風に揺れる紺の髪の持ち主の肩を掴んだ。「ん?」とこっちを振り返った先輩がきょとんとし、次に不思議そうに首を傾げる。「え、やだイケメン」「誰? 知り合い?」周りの黄色い声を無視して「先輩」信じられない思いで声を絞り出した俺に、先輩は何かに納得したように手を叩いた。

「あ、そうか、もう二年経ったのか。雄英にようこそ轟」
「なんでここに……あんたはヴぃ、」

 言いかけて口を噤む。人前で言っていいことじゃない。
 ちょっと来い、とその腕を掴んで引っぱって女子から引き剥がし、「ごめんねまたあとでね〜」と優男の面を崩さない先輩を歩道そばの茂みの向こうに連れ込むと、途端に気怠そうなあの顔になった。俺の前でだけする顔だ。「時が経つのは早い…。もう二年かぁ」それでうなだれる先輩は、先輩だった。どうしようもなく。
 二年前の中学の卒業式。さようならだと言って俺の前から消えてみせたから、自分はヴィランだとか言うから、もう二度と会えないもんだと思ってたのに。こんなところで再会するなんて。

「俺は、」

 何かを言いかけた口が、何を言おうとしたのかを忘れる。
 ん? と首を傾げる先輩は今にも煙草を取り出しそうなあの頃の気怠さを纏ったまま。死にたがりの、生きたがらない、先輩のまま。

「俺は、先輩の人生の絵、見たいです」

 空っぽの頭が、いつかに先輩が言っていたことを思い出して、自分の答えを出していた。
 それは、考えてはいなかったけど、あの日から意識はしていたことだった。
 俺の人生は望む望まずに限らず大勢に見られるだろう。エンデヴァーの息子。ハイブリッドの個性持ち。その人生模様は讃えられたり、嗤われたり、指さされたりするだろう。
 対して先輩は、俺の人生は誰にも見られないから頑張る意味がないと、だから自堕落に生きて自堕落に死ぬのだ、と笑ってみせた。
 俺はそれが、ずっと、かなしかった。

「俺は、あんたの人生が見たい」

 ぽかんとした顔の先輩の両肩を掴んで、思っているよりも細いその肩に額を押し付けると、制服からは甘くて苦いあの香りがした。煙草の香り。まだ吸ってるんだ。なんか、懐かしい。
 この人と過ごした時間なんて、中学一年の秋から、先輩が卒業してしまう春までの週末、放課後の少しの時間だけ。それ以外にはない。
 けど、俺には友達なんていなかったし、この人以外に先輩と呼べるような人もいなかったから。あんな短い時間でも、その積み重ねでしかなくても、俺にはあんたがたった一人の先輩だったんだ。
 ……卒業式のときにもらった吸い殻。まだ取ってあるんだって言ったら、この人はどんな顔をするだろう。
 俺がヒーロー科志望で鍛えてたからってこともあるけど、それにしたって先輩は細かった。ちゃんと食ってるのか不安になる。生きることにも死ぬことにも頓着がないようなぼんやりした人だから。

  「………今更。そんなこと言われても」

 ぼやく声のあと、俺からすれば女子みたいに細い腕に思いのほか強い力で突き飛ばされて、背後の木に背中をぶつけた。いてぇ。
 痛みで顰めた視界に、自分の両手を見つめる先輩が映っている。「今更、そんなこと、言われてもな」表情も、温度もない。ただ困ったような顔をして唇を歪めて笑って自分の両の手のひらを見つめている。
 自分をヴィランだと言い切ってみせた人だ。ヒーローに知られたら捕まるようなことの一つや二つ、十や二十、してきたのかもしれない。
 けど、それだって、自分から罪を告白すれば罪状は軽くなる。間に合わないなんてことはない。今からでもヴィランとは違う道に行ける。
 あんたが言ったんだ。よく考えて生きろ、って。道を選べ、って。

(あれ。でも、あのとき先輩は)

 俺は、まだ、選べると。そういう言い方をした。自分のことには触れなかった。それは。
 先輩は両の手のひらでぐっと拳を握ると、俺の目でも追えないように速さで俺の首を掴み上げた。その細腕からは想像もできないような怪力。「…ッ」喉仏に指がかかっている。潰される。
 氷でも、炎でも、どっちでもいいから抗わなければ。そう思うのに、歪んだ表情の先輩を見ていると、右手も左手も動かなかった。
 泣きたいのか、怒りたいのか、その両方か。
 あんたでもそういう感情に満ちた顔をするんだなと、酸素不足でぼんやりしてきた意識で考える。

(まぁ、いいか。先輩に殺されるならそれでも)

 そんなことを思ったとき、ぱっと首を離された。どさっと落ちて尻餅をついて、咳き込みながら首をさする。
 先輩はまた自分の両手を見つめていた。俺の首を絞めた手を。その瞳が不安定に揺れている。

「ごめん、轟」
「………だい、じょうぶ。です」

 危うく死にかけたわけだが、怒りは感じなかった。
 俺に合わせて膝をついた先輩が「ごめんよ」と緩く抱き締めてくる。甘くて苦いあの香りに包まれる。……二年探していた香り。
 煙草の煙が見える。気怠そうなあの顔が。煙草を指でつまんでこっちに顔を寄せて煙と唾液を流し込むキスをしてくる先輩を思い出す。

「キス、してくれたら、水に流します」

 あのキスの味を思い出したくてそうこぼすと、先輩はとくに躊躇うことなく唇を寄せてきた。
 そのキスは、煙草の味のしないキスだった。
 先輩とのキスは、いつも煙草を吸ってるときだったけど。今は煙草を吸ってないから苦くない。
 薄く口を開くと、二年前、煙草の煙と唾液を押し付けてきた舌が歯列をなぞってくる。
 俺は何をしてるんだろうなと、自分のことをどこか他人事のように考えながら、先輩の舌と自分の舌を絡める。
 それは、甘くて苦い香りのする………ただただ甘ったるい、そう感じるキスだった。