自分をエンデヴァーの失敗作で人殺しだと言ってみせた子供の白い手から逃げた。あの夜から数年が経過した。
 あの夜以降、俺は蔵に近づかず、ただその存在を意識しては自分の慰めにした。『アイツよりはマシだ』と思うことを生きる糧としたのだ。
 思えば最低な数年だった。
 自分よりも不幸な誰かを見て安堵しながら、アイツよりはマシだと思いながら生きることは、肥溜めに浸かってるような最悪な気分だった。
 俺は知っている。この家の庭に閉じ込められている子供の存在を。
 知っているのに、救おうと動いていない。
 俺は俺自身を救う道筋を探すのにせいいっぱいであり、他人を気にかける余裕なんてものは皆無だった。
 ヒーローになる。その目標が薄れ、クソ親父への復讐心だけに囚われ、小学校を卒業し、中学に入り、一人自主練を重ねては親父の打倒を目指す毎日。
 クソ親父と鉢合わせして言い合いをしたことが忘れられず、このままじゃ寝れねぇと割り切って一人庭を走っていると、声がした。すすり泣くような声だった。
 思わず足を止めると、そこには長い間近づくことがなかったあの蔵があって、くすんだ色で夜の中にひっそりと建っていた。
 あの夜以降近づくことのなかった、ひっそりと生きる糧にしていた、かわいそうな奴がいる場所。
 泣くことを堪えている。そういう声がする。

(俺は、何を、してんだ)

 ぱた、と額から汗が落ちた。
 頭の中に合ったムカつく炎と顔がスッと消える。酸欠で追い込んでなくそうと思っていた嫌な顔が消えていく。
 それとなく聞いてみたが、この蔵のことは兄も姉も知らなかった。
 限られた人間しか、世話をするよう命じられた奴しか知らないんだ。
 俺はたまたま知っちまって、だが知らないフリをした。自分のことで手いっぱいだ。目の前の憎い相手と、それに支配される自分のことだけで手いっぱいで、自分よりかわいそうな奴のことを見捨てた…。

(一人でずっとこの蔵にいて、誰とも会わず、ただ息をする生活を繰り返す。泣いて当然だ。そんな相手に、俺は、何を)

 自分を人殺しだといい、差し出された手は、確かに子供の小ささで。それなのに俺は『人殺しの手』だと言われただけでその手を避けた。救いを求めたのかもしれないその手から遠ざかってずっと見ないフリをしてきた…。
 ぐっと拳を握って蔵に歩み寄る。足音を隠さなかったから、相手は引きつるような息をして涙を殺している。

「ひでぇことをしてた。悪い」
「…………」
「焦凍だ。憶えてるか」
「……………」

 相手は答えなかった。それも仕方がないだろう。逃げた俺を酷い野郎だと思ったに違いない。
 そんで、その酷さは、エンデヴァーのソレだ。
 俺はアイツとは違う。
 泣く子供を叩くような野郎にはなりたくない。人の涙を見てみぬフリをする奴にもなりたくない。
 俺はヒーローになるんだ。なりたいんだ。だったら今ここで、手の届く場所で泣いてる奴に、この腕を伸ばす。
 憶えのある差し出し口に手を入れる。前はここから逃げた。お前の手から逃げた。「もう逃げない」「………」ジャラリ、と重い鎖の音と、素足で歩く音が続く。

「しょう、と」

 女の声がして、ひんやりとした震えた手が俺の手を握った。
 お前は自分のことを人殺しだと言ったけど、なんてことはない、歳相応の手だ。俺が握り込めちまうくらいには小さい手。「どうして、また、来たの。来てはだめなのに」「…お前が泣いてるからだよ」鉄の扉に寄りかかってゴンと軽く叩く。
 女が泣いてるのを知ってようやく目が醒めるとか、俺もなかなかに最低だ。