これはいけないこと。許されないこと。赦されないこと。
そうわかっているのに、毎晩来てくれる彼を待つわたしは、学ばない子供だ。
夜も更けた時間に「
」と呼ぶ声がして、普段食事を入れられるだけの場所から彼の手が差し出される。鍛えている男の子の手。エンデヴァーの息子、最高傑作だと言われた人の手だ。
出来損ないで失敗作になったわたしとは大違いの手。
わたしとは関わってはいけないのに、だからここは隠されているのに。毎日来てくれる彼に縋ってその手を握ってしまう。
拒絶しなきゃ。否定しなきゃ。それが彼のためでわたしのため。頭ではそう思うのに、失敗するのは、これで何度目だろう。
わたしよりも大きな手のひらに指をのせて、わたしよりも細長い指と絡め合う。人殺しのわたしの手を握ってくれる。
なんて、あたたかい。
「親父に掛け合ってみようと思う」
「…え?」
「お前のこと。このままにはしておけねぇから」
彼は、こんなわたしに優しくしてくれた。言葉でもそうだし、手でもそうだ。個性を封じられているわたしの体温が冷たいからと左手を熱くして包んでくれている。「…やめた方が、いいよ」優しい彼に、わたしはなんとか言葉を絞り出す。
一瞬だけ見えた希望、光の中にいる自分を闇の中に突き落とし、わたしがいるにふさわしい蔵の梁を見上げる。
埃。暗闇。沈んで澱んだ空気。限られた光。
誰かを殺すことのない、誰もいない場所。人殺しにふさわしい、緩やかな終焉に続く闇。
「エンデヴァーは、わたしを認めない。失敗作を、人殺しを、そんな自分の子供を、認めない」
「だから何をしたっていいってことにはならねぇ。テメェの子供だろうが、こんな仕打ちはおかしい」
ゴン、と鉄の扉を叩く彼に小さく笑む。
あなたが優しいのは嬉しい。とても嬉しい。一度はわたしを捨て置いたあなたが、こうして戻ってきてくれて、嬉しい。
でも。それはいけないことなんだよ。
わたしは、あなたが来てくれて、こうして話をしてくれるだけで充分。こうして手を握ってくれるだけで充分。
逃げないでいてくれるだけで嬉しい。これ以上を望むのは身に余る。どうしたらそのことをわかってくれるだろう。
わたしの冷えた指を滑る、わたしよりも細長い指を見つめる。
わたしの、人を殺したときの、話をすれば。彼はきっとこの手を引く。以前のように。
明確に、くっきりと、目の前にその情景が浮かぶように話をすれば。彼も理解するはず。わたしはここにいるべきで、あなたはここにいるべきじゃないって。
「焦凍」
「ん」
「わたしの、話。聞いてくれる?」
だから、わたしは、話すことにした。わたしの罪を。
だから、わたしは、離すことにした。あなたの手を。
わたしの母は美しい炎を操ることができる個性持ちだったけど、その力でヒーローになるなんて思想はなかったようで、自分の力を手品師程度のこととしか捉えていない人だった。
やろうと思えば色々できるのに、楽をしたいから、という理由で手を抜いた炎しか扱わなかった母。
そんな母の炎を見て、自らの炎の力をさらに強力にしてはどうか、と目論んだエンデヴァー。
彼の資産につられて子を孕んだ。それが母で、生まれたのがわたし。
母の炎、エンデヴァーの炎を足されたわたしは、それなりに幸せに過ごしていた。
母はわたしを愛していなかったし、わたしを育てるのはエンデヴァーからお金をもらうためだけで、それ以上ではなかったけど、それでも時折優しくしてくれる瞬間だけで幸せだった。
わたしがエンデヴァーに認められて、お金を稼げるくらい個性を使いこなせるようになれば、愛してもらえる。子供らしく、いじらしく、そんなことすら考えていた。
わたしの未来図が壊れたのは5歳の頃。
なぜかというと、轟焦凍。あなたが自分の理想とする個性持ちだと判明したから。
なかなか自分の理想とする個性持ちが生まれないことに焦って、家庭の外にまで手を伸ばして愛人を作ったエンデヴァーは、焦凍の個性の発現と同時にすべての愛人を切り捨てた。もちろん、わたしも、母も。
エンデヴァーはナンバー2のヒーロー。きっと毎月たくさんのお金をもらっていたんだろう。それに慣れ、豪遊癖がついていた母は、エンデヴァーが縁を切るために振り込んだ大金を一年足らずで使い切ってしまった。
そうなれば、わたしはただのお荷物だ。自分の人生という道にある重たいだけの邪魔な荷物。
母はただのお荷物となったわたしという子供を憎んだ。
それでもわたしには母しかいなかったから、なんとか機嫌を取ろうとした。家事を手伝ってみたり、父たる人が振り返ってくれるような炎を扱えるようにと一人練習してみたりした。
でも、それがいけなかったらしい。
こんな力さえなければと、母は炎を操るわたしを叩いた。蹴った。殴った。最後には首を両手で絞め上げてきた。
誰にも望まれない子供。父にも、母にも、いらない、と言われる子供。
息ができず、苦しみに意識が濁る。生が遠のく。指先が冷たくなっていく。
それなのに、胸に内には炎が宿っている。父の炎。母の炎。合わさった炎は強力で、わたしの手に余る。
(母に憎まれ、父に捨てられた。それなのにどうしてこの炎は消えないの)
気が付くと、わたしの目の前で母が燃えていた。生きたまま燃えていた。
絶叫し、机や椅子を倒しながら燃える母を見て、自分の手を掲げると、燃えていた。熱くはなかった。ただ、その手を見て、自分がやったのだ、と悟った。母の気が済むままに死んでいればよかったのに、この手は、この力は、自分を殺めようとする母に火をつけた…。
呆然としている間に母は床に倒れたまま静かになり、声は途絶えて、やがて家にも火がついた。
どんどんと炎の色に飲まれていく家の中で、このまま燃えてなくなれたらいいのにと膝を抱えた。
母の手が食い込んだ首がヒリヒリと痛む。
わたしが死ねばよかったのに。そうすれば父も母も満足だったのに。わたしは母を殺して生き残って、エンデヴァーの隠し子は、愛人の子は、その力で人を殺めた。
わたしは出来損ない。
わたしは、人殺しだ。
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