世の中に人を愛することが溢れているように、同じくらい、それ以上に、世の中には人を呪うことが溢れている。
 人を褒めるより、人をけなすことの方が簡単なように。人を庇うより、人を虐めるのがありふれているように。嘘を吐かない人生が難しいように。世の中っていうのは小さくて細かい呪いで溢れ返っている。
 そんな呪いの世界から生まれる化け物がいて、ほとんどの人間は呪いに好き勝手にされる。
 自ら生んだ業にいたぶられて殺されるというわけだから、その点についてはわりと自業自得なんじゃないか? と俺なんかは思うけど。そういった私情は省略するとして。
 そんな『呪い』という化け物に対抗するには、同じ『呪い』しかない。そう定めて形づくられたのが呪術界、呪術師。
 その特異で狭い社会の中で、狗巻家というのはさらに特異な家だ。
 呪術で成功したたいていの家系が辿る道……呪術師を生み出す名家としての約束された場所を、狗巻家は放棄した。いや、放棄することを選んだ。理由は知らない。
 ただ、そんな家の方針に反するように、生まれついての呪言師であった棘のことを厳しい目で見ていたのを憶えている。

「ツナツナ」

 ぺち、と頭を叩かれて薄く目を開けると、棘がいた。その指が自主練で打ち合うパンダと真希を指している。参加しろ、ってことらしい。「ええーめんどくさいな」ぼやいて返すと隣に座り込んだ棘が「おかか」と首を横に振る。真面目にやれ、と。
 棘は俺の双子の兄弟だ。どっちが兄でどっちが弟かは忘れた。
 外見も瓜二つの俺たち兄弟の見分け方は、言葉を聞けば簡単だ。普通に喋る方が俺で、おにぎりの具材しか口にしないのが棘。
 俺には呪言師の才能はなかった。家がそう望んだように。
 頑張ってやろうと思えば低級の呪霊くらいならなんとかなるけど、俺の場合、才能のない呪言よりも呪具を叩き込んだ方が早い。
 俺の戦闘スタイルは真希に近い。だからこそ練習しろ、って言ってるんだろうけど。

「おいサボリ、交代しろ。パンダ飽きた」
「ヒドイ!」

 大げさに嘆いてみせるパンダがとぼとぼ歩いてくるから、仕方なく立ち上がってパンダの肩を叩いてすれ違う。
 鍛錬が嫌いってわけじゃない。ただ面倒くさいだけで。
 動かなければ体はなまる。呪具を使って戦う場合は体の方が資本で呪力はまぁ二の次。体が動かなければ何事もついてこない。鍛錬に励む理由は明白だ。呪術師として野垂れ死にしないように、生き残れるように。
 けど、俺は呪術師として生きたいと思ってここにいるわけじゃあない。
 長物を自分の手足のように器用に操る真希の攻めの手が髪を掠るくらいのギリギリで回避しつつ、靴の底で地面をなぞる。バク転で避けるときに砂利に触れる。呪力を流す。
 真希は呪力を持たない。呪いも見えない。つまるところ呪力の感知も眼鏡で見えている部分だけ。死角をつければ俺でも一本は取れる。
 問題は、その死角が生まれるまで、隙が生まれるまで、俺の回避がもつのかって話。
 喋ったら舌噛むな、と思う攻防の中、視界の端で、じっとこっちを見つめている菫の瞳と目が合う。

(イイトコ見せたいなとか今更だし。無様じゃなければもうそれでいい)

 右手の人差し指と親指を伸ばして銃の形を作り、バーン、と口の中で呟くと、地面で大人しくしていた砂粒がいっせいに真希目掛けて突撃。「だぁてめっ」長物を器用に回転させて防いでるようだけど、細かくて全部は無理だろう。
 一瞬生まれた隙を広げるために、靴の底でなぞっておいた地面に動けと命じ、砂の礫を叩き落としている真希の足元をぬかるみに変える。
 崩れた体勢に、次の一手を束の間悩むその横顔を平手で吹っ飛ばす。

「はぁー」

 詰めていた息を吐き出すと、「畜生が!」と悪態吐いた真希が殴ったほっぺを擦りながらもう起き上がっている。「もう一本!」「ええ……」たじろいだ俺に長物を突きつけて「勝ち逃げは許さねぇ」とか、それもう俺が転がされるまでやるやつじゃん。もー。
 その日は午前中が鍛錬という名の自主練(五条先生は仕事らしい)、午後は入った任務で棘と一緒に現場を三か所回って、学校の寮に戻った頃にはすっかり夜だった。

「人使いが荒いよなぁ」
「しゃけ。すじこ」
「っていうか、この人手不足、なんとかならないもんかな」
「しゃけしゃけ」

 頷く棘を連れて寮に帰還。他に誰の姿もなかったから台所を借りて手を洗い、冷蔵庫を覗く。「棘何食べるー?」「ツナマヨ」俺と同じ指が冷蔵庫の中のひき肉を指した。賞味期限今日までじゃん。あとは卵と、チーズと。「ハンバーグでいい?」こっくり頷かれたから、今日はハンバーグのご飯にする。
 俺がハンバーグ作りを担当して、棘がサラダとスープ作り。ご飯は冷凍でチン。
 高専に来てすっかり調理にも慣れたな、なんて思いつつ二人で夕飯を食べ、片付けをし、残ったハンバーグはラップして『お好きにどうぞ』と書いて冷蔵庫へ。火を通したし明日くらいまでなら食べてもセーフのはず。
 部屋に戻って制服を脱いで、すぐに風呂に入るだろう棘を思ってシャワーは我慢。今日の仕事のレポートを先に書いてしまうことにする。と言っても俺がしたのは棘のサポートであってそれ以上ではないんだけど。
 今日回った三件それぞれの事件をイマドキ紙の用紙にまとめていると、こん、と控えめなノックの音がした。「はいはい」そのノックがお風呂開いたって意味だと理解してる俺は適当に返事をして、まずはレポートを書き上げてしまうことにする。
 ドアの前に立ってるだろう無防備な棘の姿を脳内から追い出し、無心、を心掛けていると、ガチャ、とドアが開いた。
 つい止まりそうになる手をなんとか動かし続ける。
 顔を上げたら駄目だ。絶対にレポート手につかなくなる。

「何?」

 声を投げたけど、返事はなかった。
 いくら双子の兄弟といえど、顔も見ず、声も聞かずじゃ、棘の考えていることはわからない。



 瞬間、キーン、と耳鳴りに似たものが脳に響いた。手からペンが落ちて床へと転がる。
 ………棘は呪言師だ。言葉に呪力が宿る。そのために普段はおにぎりの具材名だけ口にする。不用意に誰かを傷つけたり、その行動に影響を及ぼさないように注意を払ってる。
 今、棘は、自分の言葉の威力をわかってて、それでも俺の名前を音にしたのだ。
 耳鳴りの続く頭に手をやって、棘が俺の名を口にしたのはそういうことだと視線を上げると、だぼだぼした大きなTシャツ一枚だけを着てるように見える棘が部屋のドアを閉めたところだった。
 カチン、と鍵がかかる音がやけに大きく響く。
 振り返った棘の白っぽい髪は濡れていたけど、菫の瞳はそれ以上に濡れているように見える。



 キーン、とまた耳鳴りに似た感覚が耳から脳へ突き抜ける。意識を、理性を揺さぶるような音。
 ただ俺の名前を呼んだだけに聞こえるその声は、肌を撫でて、心臓を掴んで、瞳に口付けて、俺の弱いところに一通り触れていく。

「……棘はさ。誘うときさ。凶暴だよ」

 呪い、というより、愛、がこもった言葉はひたすら甘く俺の脳内を揺さぶってくる。
 呪術師としては棘の方が俺より上だ。だから、そうしようと思えば、棘は俺に行動を強制できる。レポート用紙とペンを放り出せ、なんて朝飯前だ。
 ベッドに上がった棘はころんと無防備に転がった。Tシャツ一枚に見えたけど下に短パン履いてた。よかった。
 よかった、なんて思いながら自分と同じに見える体に指を這わせる。
 母の胎内で同じように作られ、同じように生まれて、だけど棘は生まれついての呪言師で、俺にその力は僅かにしかなかった。
 同じように育って、勉強して、戦って、この高専まで、俺たちはずっと隣り合って生きてきた。ほとんどが同じ。でもやっぱり違う人間同士。この時間はそれを実感する。
 本当に同じモノだったなら、こうして触れ合うこともできなかった。
 僅かにしか力のなかった俺には刻まれなかった呪印のある顔は、それ以外まったく同じだ。髪の色も、髪型も、瞳の色も、声も、全部が同じ。
 だけどこんなにも違うと、いつも思う。
 瞬きもせずに至近距離で視線をぶつからせて、まったく同じタイミングで瞬きをして、それが合図だったみたいに唇を重ねてキスを、

「お邪魔しまーす」
「、」

 はた、と我に返って顔を上げると、いつからいたのか、つい今来たのか、目隠しをしてることがトレードマークの五条先生がすぐそこに立っていた。図ったようなタイミングだった。「ごめんねーお取込み中。仕事入ったよ」「……はぁ」脱力した俺はベッドにもたれかかって棘に背を向けたけど、諦めてないのか、棘は俺のことを背中側からぎゅうぎゅう抱き締めてくる。続きがしたいとばかりに。
 この規格外呪術師、五条悟という男には、毎度のように棘とのことを邪魔される。今日は仕事で出てるんだしいけると思ったのにな。
 棘も俺も薄くわかっていることだったけど、「せんせー、ウチに何か言われてるんですか」こうも毎度邪魔されると確認だってしたくなってくる。
 先生はいつものおふざけぐあいでニパッと笑って「うん!」……まぁ、この人が正直なところを話してくれてるかと言ったらどうかなぁってなるし。この肯定も信じていいのかどうか。
 棘が俺の肩に顎を乗っけた。「」耳元で呼ぶ声に脳を揺さぶられてぞわっと背筋が粟立つ。目の前に五条先生がいるのに煽ってくるとか、棘も相当キてるな。
 頬にかかった手に抗えないまま、肩に顎を乗っけている棘とキスをした。先生の前で。「自重しないねぇ……」先生は俺たちに呆れたように口をへの字にしている。

「僕は伝えたからね? 三十分後にいつもの場所から出発。いいね」

 口を開けた棘が覗かせた舌を吸って、呪印が刻まれている場所をなぞる。
 俺にはないもの。これを刻まれたとき、痛かったろうか。そんなことを思いながらこっちを覗き込んで「分かったかなー?」とうるさい先生に少しだけ口を離して「わかりました」「しゃけ」二人で返して、すぐにまたキスをする。お互いの口を塞ぐ、息苦しくなるようなキスを。
 先生は肩を竦めてみせると、現れたとき同様急にいなくなった。規格外だからなせる所業に呆れながら、自分からシャツを脱ぎ始めた棘の短パンに手をかける。
 三十分後、超特急でスることシて時間ぴったりに現れた俺たちに伊地知さんが驚いてた。「なんですか、その顔」「こんぶ」揃って首を捻った俺たちにガチャッと車の後部座席のドアを開けながら「あっいえ、お二人は遅れるだろうと聞いてたもので。なんだ、時間ぴったり。おかげで私の胃は穏やかです」苦労してそうな伊地知に棘と顔を見合わせて同じタイミングで首を竦める。どうせ五条先生がいらない気を回したんだろう。振り回されて、伊地知は大変だな。
 後部座席に二人で乗り込んで、任務地に向かう道すがら、棘と緩く手を繋ぐ。

(この温度の持ち主と同じときに生まれたように。同じときに死ねたらいい。同じ場所で、同じ死に方で、同じ苦しみに溺れて死ねるといい)

 そんなことを思った自分が我ながら愚かしいと思う。
 それは、呪いにも似た執着。
 この執着を祈りに昇華できるようにと自分と同じ大きさの手を握り締めると、同じ強さで握り返される。「任務の概要はご存知ですか」「いえ。今から」スマホを引っぱり出して片手で操作して棘との間に置いて二人で覗き込む。おおよそいつも通りの呪霊退治の内容には面白みの欠片もない。

(こういう何の変哲もない日々を、俺たちは、あとどのくらい過ごせるだろうか)