「ルーク」
 静かな声に閉じていた瞼を押し上げて視界を確保すれば、そこは真っ白な雪の積もる公園だった。それで今自分がケテルブルクにいるのだという事を思い出して、それから声のした方を振り返る。雪の白に溶け込むような白い白い人がそこに立っている。
 風が吹いて雪が舞った。相手の深緑の髪も風に弄ばれて揺れる。
「何だ?イオン」
 随分遅れた返事だと思いつつもそう返せば、相手は薄く微笑んで俺の隣に並んで手を握ってきた。気温が低い事も手伝って相手の手は冷たい。息を吐き出せば白かった。
 子供達が雪合戦をしている声が遠く聞こえる。
「ルーク」
 呼ばれて隣へと顔を向ける。深緑の瞳と目が合って、その瞳がどこか心配そうに細められていたから俺は笑った。少しだけ笑った。大丈夫だと、そういう意味を込めて笑った。
「俺は、平気だよ」
 言葉にしてみて改めて実感する。繋いでいる手をぎゅっと握り締めた。
 俺は弱いなと、改めて思い知る。
 誰かがいないと怖くなる。一人きりだとあの悪夢に負けそうになって怖くなる。
 赤い景色の中、崩れていく大地の中、落ちていく人が俺に手を伸ばして言ってくるのだ。お前も落ちればいいと。何人もの人が手を伸ばして俺の足を腕を髪を身体中を掴みながら言うのだ。お前が落ちればいいと。
 忘れるはずもない、その罪。
 押し潰されそうになる。壊れてしまいそうになる。耳を塞いで目を閉じて、落ちてしまいそうになる。
 だけどそんな俺に手を伸ばしてくれている人がいるんだ。この世界でただ一人きりだけど、それでも俺を見捨てずに見守り続けてくれる人がいるんだ。
 だからこそ俺は、まだ壊れずにここにいるのだけど。
(本当は怖い。誰も彼も信じられない)
 頭を抱えて丸くなって、どこかで冬眠でもできたらいいのにと本気で思う。そうすれば俺の意識は消えてもう苦しむ事はきっとない。
 悪夢を見るかもしれない。それでも一度落ちてしまえばあとはきっと楽なはずだ。
 そうやって悪い方向に考えを巡らせているときに限ってルークと呼ばれる。何度も何度もやわらかいその声でルークと呼ばれる。意識を揺り起こされる。
 本当はルークは俺の名前じゃなくてあいつの名前なのだけど、それでもルークと呼ばれると自分の事だと思うのは、きっとおこがましい事なのだろうと思うのだけど。
(でも、イオンにルークって呼ばれるのは好きだ)
 そんな事を考えながら二人で白い景色の中を歩く。ざくざくさくさくと雪を踏み締めながら歩く。
 会話はなかった。いやする必要がなかったというのが正しいのだろう。何せ明日何が待ち受けているのかは俺も相手も知っていて、だからこそ言葉を交わす必要性は感じなかったのだ。ただこうして相手の体温を感じていられればそれだけで充分だった。
 だけど相手の表情が気になってちらりと隣を盗み見る。俯き加減に足元を見つめる瞳はどこか憂いに満ち、それでいてどこか楽しげに細められていた。一体どっちなんだろうと内心首を傾げる。
「ルークは、」
 視線は足元に向けたまま相手がそう言って言葉を切った。さくりと雪を踏む音がやけに大きく聞こえる。
 言葉を待っていたら、相手が何かに気付いたように歩みを止めた。つられて俺も足を止めて前方に目を向ける。
 行き止まりだった。住宅街を適当に歩いて回っていたから当然かもしれないけど、別の場所へ行くなら引き返すしかないだろう。だからくるりと回れ右して来た道を戻ろうしたら、くん、と腕を引っぱられる感覚。振り返れば繋いだ手を引っぱってイオンが何か言いたそうな目をしていた。首を傾げる。何が言いたいのか分からない。
 風が吹いて深緑の髪が揺れる。舞い上がった粉雪が視界を白くする。
「…ルークは、死んだりしませんよね?」
 小さな声にぱちりと瞬きして、どこか不安そうに揺れている瞳に見つめられて視線を逸らしてしまった。
 何をどう返せばいいのかがよく分からなかった。ただ、死なないよ、とそれだけを言えばいい話だと言うのに。
 死なない自信なんてなかった。だって相手は師匠だ。今まで剣を教えてくれていた俺の師匠だ。少し前まで俺の全てだった師匠だ。そんな人に簡単に勝てるだなんて思ってない。
 だから言えない。死なない、とは口にできない。
 不安げに揺れるその瞳になんて返そうかと思って、結局思いついたのは一言だった。
「……ごめん」
 自分でも情けないと思うような声しか出せなかった。イオンの瞳が少し見開かれてそ、れから何か思いつめたような覚悟を秘めた色に変わってそうして視界が、暗転して、
 どさりというよりぼすりという感じに雪に背中が埋まった。何が起きたのか頭が理解する前に今の状況だけが視界から脳に伝達されていく。
 馬乗りをされているというか、つまりは押し倒されているというか。自分が相手の下にいる状況。
 深緑の瞳には不安と覚悟と俺の知らない何かがあった。
「ルーク」
 いつものやわらかい声に少し緊張の混じった、そんな声で名前を呼ばれる。雪が冷たいと思いながらも「なんだ?」と返せばイオンがなんだか悲しそうに笑った。
「僕は貴方が好きです」
 繋がれている片手はそのままにもう片方の手が伸びてきて、その白い指が俺の頬に触れる。冷たい体温が届く。
 言われた事を頭が反芻するまでに数秒かかった。それから頬を滑っていく白い指を感じながら微かに笑う。
「俺だってイオンが好きだよ」
 一番の理解者を嫌いだなんて言うわけがなかった。ただ相手が思っているような真っ直ぐさが俺にはなくて、ただそれだけが足りないのだ、と思う。
 頬に添えられた手に抵抗はしなかった。近付いてくる相手の顔に素直に目を閉じた。背中には雪の冷たい感触。

「僕は貴方に死んでほしくない」
 何度かキスされたあとにそう言われて薄目を開けた。相変わらず悲しそうな顔でそう言うイオンの顔に、今度は自分から手を伸ばして引き寄せてキスする。軽く見開かれた深緑の瞳は、けれどすぐに閉じられた。
 溶けるみたいにキスをする。いつまでもいつまでも。
「ルーク」
「イオン」
 呼ばれて呼び返せば相手が笑った。それは嬉しそうに笑った。だから俺も笑う。明日がどういう日かなんて一瞬だけ忘れて笑う。
 例え一瞬だけでも俺から全ての負の気持ちを取り払ってくれるイオンはすごいんだと、本当にそう思う。
 やわらかく微笑んでいる相手が軽くキスしてから立ち上がった。肩や頭に積もった雪を払ってから俺に手を伸ばす。その白い手はまだ冷たそうだった。そして周りの白に溶けて消えてしまいそうだった。
 だから手を伸ばしてその白い手を掴んで立ち上がる。同じように背中の雪なんかを払いながらしっかりとその手を握って、それからイオンの手を引っぱって抱き締めて呟いた。「ありがとう」と。
 腕の中で微かに笑った気配。顔を上げてこっちを見た深緑の瞳と目が合う。
「イオンは俺を待っててくれるのか?」
 その質問に相手は微笑んだ。優しく笑って「もちろんです」と言ってくれる。だから俺も笑って目を閉じて、もう一度だけ呟いた。ありがとうと。

雪の降る街で会いましょう





あとがき

ヴァン師匠との決戦前のケテルブルクでの話です。予定してたものと大分違うことになっちゃったのですが、まぁこれはこれで良い、ような

遅ればせながらもヒナセさんとの相互記念のために書いたものですー。とりあえずデートとキスはクリア(笑 甘いかどうかは……な、謎だけど
とにかく相互なのです!おぅいぇー(何

で、特に何かコメントあるわけではないんですが…強いて言えば
ぜひイオンにもついてきてほしかったなアブソーブゲート…!
くらいかな(は

こんな管理人ですが、ヒナセさんどうぞよろしくお願いしますー