どこまでだって行けると思っていた。と一緒なら地獄にだって行けるとさえ。 依存していた。自覚もしていた。彼女なしでは生きていけないくらいに日常には彼女が溢れていた。 知っていた。これは毒だと。 「シンク?」 きょとんとした幼い顔で首を傾げてみせる彼女。ボクは誤魔化すように口元に笑みを浮かべて彼女に手を伸ばし、亜麻色の風に揺れる髪を梳く。いつでもさらさらで、血に染まることに無縁なその肌。健康的でちょっと華奢な体格。どこにでも溢れる、だけど同じ彼女は一つとしてない、彼女。 知っていた。レプリカだってオリジナルと別人なんだってことを。 「またしばらく留守にする」 「えぇー」 彼女が唇を尖らせて抗議の声を上げる。だけどそんな態度とは反対に、眉尻は下がり瞳は余計に潤いを増したように思えて、ボクはいつもしょうがないなぁと笑うのだ。 どこにでもいる人だった。それなのにこのダアトのどこにも彼女と同じ人はいないのだ。 知っていた。ボクだってボクであり、シンクは、ボクでしか在り得ないのだと。 「」 呼べば、彼女は唇を尖らせるのをやめて、想像通り、困ったように笑った。首を傾けて、どうしたらいいのか分からないというように。 腕を伸ばして彼女の肩を抱く。いつでも同じその華奢な肩を慈しむように。 ボクが烈風のシンクになれば、彼女を壊すことは造作もない。 だけどボクはシンクのまま、ただのシンクのまま彼女に触れていたかった。一人の人間として。 仮面を取り払いシンクと名乗ったボクの正体について、彼女は薄々気付いているだろう。けれど何も言わない。今もこうして目を閉じてボクの胸に頭を預けているように、何も言わず、疑いもしない。彼女はボクを受け入れる。そしてそれが、たったそれだけのことが、ボクにとってどれだけの救いになったか。 彼女は知らないだろう。ボクが世界を壊していることを。 彼女は知らないだろう。たくさんのことを。そうしてボクはそんな彼女だからこそ愛しい。何も知らずありふれた場所でありふれたものに囲まれて生きる。ボクの夢はきっとそれだった。 「」 「なぁにシンク」 目を開けて視線だけでボクを見る彼女。ボクは彼女の髪に顔を埋め、「何でもないよ。呼んだだけだ」と、鼻にかかる甘ったるい声で呟く。彼女は少し笑って「嘘ばっかり」と、ボクに負けず劣らず甘い声で囁く。心臓がどきりと音を立てたようだった。視線が重なって絡まる。 「遠くへ行っちゃうのね。シンク」 目を細めて、なんだか泣きそうな顔で彼女が言う。ボクはたまらなくなって彼女を強く抱きしめた。 「…行かないよ。ボクの心はのものだ」 「私の心も、シンクだけのものだよ」 泣きそうな声で彼女が言う。ボクはきつくきつく、彼女を抱きしめた。それでも壊してしまわないように。 ボクは思ったのだ。彼女を生かしたいと。この壊れかけた世界で、それでも彼女だけは生かしていたいと。 愚かな望みだった。ボクは世界を壊そうとしているのに、その世界に、壊れた世界に生かしたいと思う人がいるなど。 毒だと、知っていた。これは毒なんだと。 だから早々に解毒しないといけなかったのだ。毒は取り除かねば侵されるばかりだ。 だけどすでに手遅れであることも、分かっていた。 「…、?」 エルドラントから抜け出して彼女に会いに来た。最後だと思ったから、無理をして出てきた。烈風のシンクだと分からないように帽子を被って眼鏡をして、服も一般的なものに変えて。 だけど彼女が見つからなかった。待ってるからと泣きそうな顔でそれでも笑ってみせた彼女はいなかった。 彼女を捜して捜して捜して捜して捜して、街中を駆けずり回って、それなのに彼女を見つけることができなかった。 陽が暮れて、風が冷たくなってきて、寒気を感じた。彼女がいない。彼女がいない。いないいないいないいないいない。 目の前が、真っ暗になりかけた。 「すみません」 だけど声がした。その声がよく知ったものだったから弾かれるようにして振り返る。 捜していた彼女がいた。だけど再会の喜びよりも、冷水を浴びたかのようにからだ中が冷え切った。 亜麻色の髪はとてもきれいだったはずなのに、その色は劣化していた。瞳だけは同じ輝きだったけれど、ボクは直感していた。これはじゃないと。 (これ、これは) 音を立てて、ボクの何かが崩れていく。 「すみません。シンク、ですね」 ぎこちなく首を傾けていた彼女が、ボクの答えを待つようにじっとボクを見つめる。かろうじて頷くと、ほっと息を吐いた彼女がごそごそとポケットから手紙を取り出した。それをボクに向かって差し出し、言うことは。 「私のオリジナルから、あなたへ宛てた手紙です」 その言葉にひったくるようにして手紙を手にしてびりと乱暴に封を切る。驚いたように目を丸くしているレプリカを、彼女のレプリカを、ボクは無視した。 (、、) 気持ちだけが急いて手が震える。彼女からの手紙だと言うのにこんなにも震えているのはどうしてだ。 ボクはもう、全てを悟っていた。 『シンクへ 私だよシンク。ええと、久しぶり あのね、今ね、信託の盾兵の人に連れていかれながら、こっそりこれ書いてるの。馬車の中だよ あのね。なんだか怖い人たちみたいだから、私何にも言えないんだけど 預言を、詠んでくれるっていうの。私は選ばれたんだって言って だけど強制連行なの。馬車には私だけよ 何となくね、予感がするの。私はここまでじゃないかって シンク。シンク。私ほんとは怖いのよ。だけどシンクは一緒だよね。私の心と一緒にいるよね だからね、私は、頑張ってみるね。何が待ってるのか分からないけど、頑張ってみるね 烈風の、シンクさん。六神将の偉い人。だけど私にとってはただの同年代の男の子の、シンクだったよ ちゃんと帰れたら、この手紙、処分するね。だけどもし帰ってこなかった、そのときは 信じてるよシンク。どこまでも、私たちは一緒だよね』 「……、いつだ」 「え?」 「これはいつ」 機械のように言葉を紡ぐ。握り締めた拳が掌の皮膚を食い破った。彼女でない彼女が戸惑うように視線を夜空に彷徨わせ、「つい三日ほど、前です」と言う。 ボクは手紙を握り潰そうと思った。こんなもの嘘だ彼女を捜さなければきっとどこかに捕らえられているきっとと、そんなふうに思おうとした。だけどぱたと手紙に落ちた自分の涙を見て思った。彼女は、情報を、抜き取られたのだと。 理由なんて分かってる。 (ヴァン…!) 握った拳を地面に叩き付けた。ずだんと派手な音がしてみしと骨が軋んだけれど無視した。手紙を握り潰すことなんてできなかった。これは、彼女の、遺書だ。 彼女は死んだ。恐らくは情報を抜き取られ、その拒絶反応で。 「くそぉ!」 叫ぶように呻く。彼女でない彼女は困ったようにボクを見ている。 どうでもよかった。こんな世界なんて、預言に群がる馬鹿な人間なんて。それで情報を抜き取って死ぬ奴は死ぬ。別によかった。どうでもよかった。 その対象が彼女になるなんて誰が予想しただろう。 彼女は預言について触れなかった。ローレライ教もあまり信じているようではなかった。その話をするといつも困ったような顔をしていた。何で気にしないのと言うと、ローレライ教信者の巡礼客を遠く見ながらだってとこぼしてこう続けた。人形みたいなんだもの、あの人たち。彼女はそう言って困ったように笑い、違う話がいいと言った。 ボクも、賛成だった。人形みたいだと形容した彼女の言葉は正しいと思った。それさえ信じていればどうなってもいいと、それのせいにできると、まるで生きる指針のようにローレライ教を崇める人々。どうでもよかった。彼女がそうだと言ったように。 これは、策略だ。ボクから彼女を奪うための。 隠し通していたつもりだったのに。あれだけ彼女に会うときは慎重に慎重を重ねていたはずなのに。 それなのに、どうして。 「あ、の」 遠慮がちに、彼女でない彼女が口を開く。ボクは打ち付けた拳をそのままに、視線だけ上げて彼女でない彼女を見た。劣化した髪。だけど同じ声。同じ瞳。レプリカはオリジナルではない。だからこれは、彼女なのに、彼女でない。 「私は、どうしたらいいでしょうか」 彼女を殺すためだけに悪戯に情報を抜き取られ製造された、彼女でない彼女。ボクはふらりと立ち上がった。彼女以外の人を愛せるだけの心はもう、残ってはいなかった。 ボクの心は彼女と一緒に旅立っている。遠くどこか、陽の沈む西の彼方に。 「…好きにすれば。誰にも何も強制されてないんでしょ」 「はい」 困ったように彼女でない彼女が眉尻を下げる。そう言われても、という顔だ。彼女がよくした。困ったように笑った。シンク、とボクを呼んだ。シンクと。 頬を伝う涙が止まらない。 それを見て、彼女でない彼女は首を傾けた。 「どうして泣いているのですか?」 ボクは、悲しくなった。とてもとても。 彼女でない彼女を殺すべきだろうかと思った。レプリカの待遇はボクが一番よく知っていた。だから殺すべきなのかもしれないと思った。 だけど、涙が頬を伝うばかりで、とてもじゃないけど彼女とよく似た彼女に手をかけることなんてできやしなかった。 (愛してるって、言えばよかった) 涙を袖で拭う。だけど止まることがなかった。いっそ枯れるまで流れてしまえば楽になれるだろうか。 眉尻を下げてこっちを窺う彼女に、ボクは言った。 「ボクの愛した人は死んだ」 「…それは、もしかして、私の」 「さよならだ」 だん、とその場を跳躍して民家の屋根に着地する。ボクを追いかけて「待ってくださいっ」と言うその声に耳を塞ぎ、ボクは走った。民家から民家の屋根へ、そして最後に路地裏にだんと着地して、広場を駆け抜ける。 シンクと、そう呼んでぴょんと噴水の縁に腰掛けていた彼女が手を振る、そんな光景がよぎる。 (くそぉ) びゅおと強い風が吹いて帽子が飛ばされた。掴む間もなく空に舞い上がり、帽子は遠くなっていく。 立ち止まってそれを見送りながら、止まらない涙を思いながら、ボクは目を閉じた。 (もう、どうだっていい) 彼女を失った世界は唯一の色さえなくし、もうボクにとっては考えるに値しない代物と化した。 |