さく。足を踏み出せば草原の感触が靴底越しに伝わってくる平原。市街地から車で二十分、それなりに人里を離れ周りにあるものは木々ばかり。そんな場所にひっそりと、それこそ墓だけは日本と同じようにひっそりと、白い十字架が群れをなしていた。墓地の周りだけは手入れがされていて、管理者がそれなりに仕事してるんだろうなんて無駄なことが分かったりする。
 さく、さくとゆっくり足を進めて、一つの十字架を探して白い十字架の群れの中目を凝らす。「ボス」と背中に声がかかりお供がつこうとするのを掌で制した。この先は一人で行きたい。だから「一人で行く。周囲に気を遣っていろ」と言い置いて、俺は車から一人離れた。
 見つけたかった十字架は遠めでも少し近づけばすぐに分かった。どの十字架も陽の光の下では白く輝いて見えたけど、その十字架だけは少し色が錆び付いて見える。それが証。
 なぜあの墓だけ手入れがされていないかと言えば、一切手を触れなくていいと管理者に言ってあるからだ。これもよく守られている。それなりに仕事をしてるようだなんて、またどうでもいいことを思う。
 かつと石畳に靴底が触れて、ゆっくり歩み寄った間に考えられたことは、あまり大したことじゃなく。いつものように俺は申し訳ない気持ちでいっぱいになって、いつもと同じようにその墓の前に膝をついた。
「…遅くなった。ごめん」
 前の訪問からどれくらいたったろうか。それを思うと、用意した花束も十字架を磨くために持ってきたタオルも所在なさげに首を竦めているような気さえする。それでも形だけはとばさと花束を置いて、この手で手入れするために持ってきたタオルを近場の水道水で濡らした。水が冷たい。だけどこんな痛み、彼女が受けた痛みに比べれば少しにもならない。
 ざわと風が拭いてコートや髪を揺らした。振り返れば白い十字架の群れが、死者の場所が、墓地が広がっている。

 彼女は死んだ。俺を庇って。
 今でもそのことについて、後悔にも近いものを憶えている。
 彼女は本当に死ななくてはならなかったのか。他に回避のしかたはなかったのか。本当に未来はその一択しかなかったのかと、何度考えてももうどうしようもないことを、それでも考えることがある。
 彼女は言った。私のことは忘れていいよと。笑ってみせた。彼女は強かった。心の強い人だった。
 それでも、もう死んでしまった。

「…俺は今でも思うんだ。お前が助かるための道は、他にあったんじゃないかって」
 一人、ところどころ錆び付いている白い十字架を、タオルでゆっくりと磨きながら言葉をこぼす。
 この時間は彼女だけのことを考え、俺は他の一切を放棄する。彼女のためだけに割ける時間はそう多くはない。マフィアは何かと忙しくてしょうがないのだから。今でも好きになれないし、これからも好きになることはないだろうけど。だから俺のこの時間だけはせめて、彼女のために捧げる。
 他にはもう何もできない。彼女を思っても想ってももう届かない。
 好きだったのかと言われれば多分違うと答えただろう。彼女も俺のことを好きだと言ったことはなかったし、俺もそう言ったことはなかった。ただ仕事上何度か接することがあっただけで、きっかけはただそれだけだった。
 どこからが運命で、どこからが変えられないもので、どこからがもう手遅れだったんだろう。
 彼女は誤ってタイムスリップしたことがある。その小さな履歴を見たことが、具体的な始まりだったかもしれない。
 俺はそれについて訊ねた。日付的にそのタイムスリップはもう何年も前の話で、憶えているかどうかも分からない。けれど同じものを体験したことがある身だから、多少なりとも不安の要素などがあった。だから訊ねた。お前は未来と過去どちらに行ったんだと。
 彼女は答えた。未来ですと。それからいつもは仕事の顔を作ってるんだろう、それをふいに崩してしかたなさそうに笑ってみせた。
 ボス、私は近いうち死ぬんですと。そういう未来にいきましたと、彼女はそう言った。それにがたんと席を立ってしまったのは、しかたのないことだった。
 そう、そこから。大勢いるうちのただの部下でしかなかった彼女が、そうでなくなった。
「死ぬ未来…? どういうことだ」
「ええとー、そう言われると色々困るんですが。…とりあえずボス、お茶の時間みたいですから休憩しませんか。立ち話も疲れますし」
「…ああ」
 がたん。かろうじて席に座り直し、部屋の扉の横で控えていた係りの者にぱちんと指を鳴らして合図の許可をした。彼女はいたっていつもの顔で、というより仕事用の顔を捨て彼女なりの表情をしてソファに座り込んだ。「おお、ふっかふか」と漏らす彼女がどこかわくわくした目で二つ並べられるティーカップやつまみのクッキーを見つめ、そんな彼女を俺が見つめている。組んだ手にごつと額をぶつけどういうことだともう一度自問する。
(誤ってタイムスリップしたとして、なぜそんな機会があった? いや、それよりも気になるのが死ぬ未来という話だ。死んでいたら…その未来にタイムスリップすればどうなる?)
 ぐるぐると思考の渦。それから「失礼いたします」と係りの者の下がる声と、「ボスーお茶しましょう」という気軽そうな彼女の声。顔を上げて立ち上がり、彼女の向かい側に座った。普段あまり座ることのない来客用のソファは、確かに座れば腰が埋もれるほどふかふかだった。
「…さっそくで悪いが、どういうことか話してもらえないか」
「あー、はい。そうですねぇ」
 しゃくしゃくとクッキーを食べながら彼女が天井の方に視線をやって、「あれはもう十年くらい前になるのかなーと思うんですが、私はそのときまだ学生で、普通に通学路を歩いてたんですね」そう話し始めた彼女。俺はどこか震える手で紅茶にミルクを少し入れた。
 十年くらい前。その頃にはもう十年バズーカなんてものがこの世に存在していた。彼女の話、切って捨てるには引っかかりが多い。

「そしたらこう、何かが頭に当たったような感じがして。ソフトボールがぼんって当たった感じですかね。それで私、一度気を失ったみたいで。それで気がついたらそこはさっきまでいた通学路じゃなくて、どこか知らない、建物の中でした」
「…続けてくれ」
「はい。で、建物の中で、いやに意識が朦朧としてましてね。あれおかしいな私発熱でも出て倒れたのかなー、とか思ったんです。それくらい頭とか視界がぼんやりしてまして。それで、あなたに呼ばれました。ボス。って」
「…それから?」
「それから、あなたが私をまた呼んでくれるまで、私はそこでそのままでした。視界が床と壁だったので、多分倒れてたんですね。次にあなたが私を呼んでくれるまで、私はずっとそのままでした」

 かちゃん。彼女が紅茶のカップを持ち上げてふーと息を吹きかける。今日の天気は曇りで明日の天気は晴れときどき曇りで、なんて話をしてるように彼女はいたって普通に話してくれた。それで俺も表立っては表情を変えずにいられた。だけど頭の中はずっとぐるぐるしていた。
 十年バズーカ、あるいはその類のものでその瞬間その場所の彼女と十年前の彼女が入れ替わった、ということだろうか。けれどそれなら身動きはできたはず。未来の自分がどんな状態であったとしても、現在の自分と入れ替わりなら。俺達がそうだったわけだし。
 ぐるぐるする頭で思考がまとまらない。彼女がとぽんと紅茶に角砂糖を落として「続けますね」と言葉を置いた。「ああ」と搾り出した声がどことなく頼りない。まあ、頼りないのはいつものことか。

「ボス、あなたは私に駆け寄ってきて私を抱きかかえました。すまないと。やっぱり変えられなかったと泣いてました」
「俺が?」
「はい。それで私、あなたの目に映る自分を見て気付いたんですけど、血だらけでしてね。何がどうなってたのかまでは分からないんですけど、つまり死にかけっぽかったわけですよ」

 しゃくとクッキーを頬張った彼女。俺と目が合うとどこか困ったように笑って「どうしたんですかボス、いつにない真剣な顔で。そんな冗談って笑ってくれていいんですよ? 実際みんなそうでしたし」「…いや。その話、まだ続きはあるな?」「ありますよ」「話してくれ。全て」かちゃんとカップを持ち上げる手が意味もなく震える。どうして。そんな言葉が頭の中を回っている。
 困ったような顔で微笑んだ彼女が「では続けます」と言ってクッキーをテーブルに置いた。
「それで、私、死んだみたいです。意識が閉じました。睡眠薬なんかで眠ってしまう、抗いようのないあれです。あれに似てました。それで次に気がついたとき、私はいつもの通学路でした。いつもの制服に鞄を持って、いつもと何も変わっていませんでした」
「…何も?」
「そうなんです。今ここにいるから言えることなんですけど、タイムスリップは一般的に現在の自分と未来か過去の自分を入れ替える、っていう代物ですよね? それならあの時血だらけだった未来の私が現代に行ってたらその場は血まみれでしたでしょうし、何よりあなたの瞳に映る私は学生姿でないといけなかった。なのに違った」
 クッキーを手にした彼女。言葉のない俺に「…これは想像なんですけど」とこぼして、話を続けた。
「意識だけが、タイムスリップする。ということは可能なんでしょうかね。そうすれば、私はあのときあの場に行って、血だらけの自分であなたに呼ばれていたこと、納得できるんです」
「…いや、待ってくれ。意識だけがタイムスリップ? そんなことはまだ、」
 できない。いや、本当にできないだろうか。自問して自答できず、俺は口を閉ざした。ふふと彼女がおかしそうに笑って「いやですね、本気にしちゃって。いいんですけどね」とぽんともう一つ紅茶に角砂糖を落とし、甘いだろう紅茶をすすって彼女が口元を緩める。「甘くておいしい」と。
 俺の頭は今の話を整理するので手一杯だった。もともと容量のいい方じゃないし、ダメツナなんて言われてたほどだ。どれだけ改善されてももとが変わらない。これじゃ十年前とそう大差ないぞ俺。顔に出さなくなっただけで、水面下では必死にもがいて。

「…。お前は」
「はい?」
「その、事実。その体験と、未来を、信じたのか?」
「もちろん、最初は何かの夢だったんだって思いましたよ」

 ころころ笑った彼女。それからどことなく諦めた溜息を吐いて、「でも現状を見てください。私はいつの間にやらボンゴレに所属し、夢でしかなかったはずのあなたという人を目にした。そのとき思いました。あああれは本当のことだったんだな、って。私は多分、あなたを庇って死んだんです」と。そう静かに口を閉ざした彼女。かちゃんと紅茶のカップを置く手が、どうしようもないと震えている。どうしようもないことだと。
 彼女がそんな俺に笑う。笑いかける。「そんな顔しないでくださいボス」と。
「あなたはこの組織のトップです。ここがあなたでなくては維持できないことも、あなたという人がどれだけの影響力を持ってるのかも、私は分かっています。だからあの夢のままあなたのために盾になっても、私は構いません。きちんと仕事ができた証です。あなたを守れた証です。だから、」
 だから。そう続けようとする彼女に思わず席を立ち、その襟元を掴んで「本気で言ってるのかっ」と声を荒げた。「俺のためなら構わず死ねると? 本気でそんなことを…っ」尻すぼみに言葉が消えて、最後はもう何も言えなかった。彼女の言葉は正論だ。俺のために彼女が死ぬことはあっても、彼女のために俺が死ぬことは、できない。
 俺の手を緩く握った彼女。力のなくなった俺の手をゆっくりと離して握りこみ、「ボス」と俺を呼ぶ。力なく上げた視線の先で、彼女は絶望の顔でもなく希望の顔でもなく、ただしかたがないと笑ってみせた。
「ボス。組織のためにも、世界のためにも。あなたの存命が第一です」
「…
「あなたのために散る命はあれど、あなたは散ってはいけません。あなたは組織のトップに立つにはあまりふさわしくない人だって私はこっそり思ってましたけど、そんなあなただから、今のこの世界があると、私は思います」
 祈るように俺の手に額をぶつけた彼女。「どうかそんな顔をしないで、泣かないでください」と言われて頬を伝う涙に気付いた。
 たった今まともな会話をして、その会話の内容がどうしようもないもので、俺に変えることができるか分からないもので、それでも決まっていることは、彼女の死。それに反論できない自分。どうしようもない現実を突きつけられる。これが初対面、そう言っても過言じゃないくらい彼女と会話したことなんてなかった。それなのに最初が、記憶に残るだろう最初がこれか。
「…それでも」
 震えた声を絞り出した。顔を上げた彼女が首を傾ける。「それでも」とさっきより声に力をこめる。「それでも、俺はお前を見捨てたりはしない」と。慰めにしかならない言葉をそれでも。
 彼女は笑った。ただ笑った。少し照れくさそうに、「ありがとうございます」と。笑った。
 それからほどなくして彼女は死んだ。
 特別な会合で話し合いの場へ赴き、俺の護衛の中に彼女の姿があった。彼女の話を聞いてから絶対に護衛役に彼女を入れないようにしていたにも関わらず、彼女はスーツに身を包んでそこにいて、俺に向かって笑いかけてみせた。
 俺は、それにどうしようもない絶望の未来を見た。
(どうしようもないのか。お前を見捨てはしないと、俺は確かにそう言ったしその未来を回避しようと、何かしらしてきたのに。それなのに)
 その会合は、いわゆる罠だった。俺の命を奪うための。ある程度想像がついていたとはいえ、希望的展開だって頭にはあった。けれど現実は厳しかった。俺を殺せば組織がまとまらずに崩れていくだろうと、相手の組織は俺達を潰しにかかってきた。無論応戦した。ただの銃から匣兵器まであらゆるものが飛び交う、そこはまさに戦場になった。一瞬にして状況は緊迫、護衛が何人もやられた。用意していた戦力として、相手方が上手だったのだ。
 なるべく犠牲を出したくなかった。命を見捨てたくなかった。そんな俺のことを相手はよく分かっていた。わざと仲間を助け出させるべくルートを作り道を限定させ、俺が護衛の一人に炎圧で近づいて救い出そうとしとき、もうすぐ横にジャカと銃の構えられる音がした。
 避けるには遅すぎる。炎を使えば回避は可能かもしれないが代わりに護衛の命が助からない。一瞬の思考の判断の鈍りが相手に引き金を引かせるだけの時間を与えてしまった。終わりかと、そう思った。
 だけど、彼女が。飛び出して、俺を庇った。どんどんどんと何発も銃弾の音が響きキンキンと薬莢が落ちる音がした。彼女は銃を構え、相手と相打った。そうしてがくんと膝から崩れ落ち、床に倒れ込んだ。
 すぐにでも駆け寄りたかった。けれど今抱き上げた護衛を安全な場所へ退避させるのが先決で、何より身を守るために匣まで使って銃弾の嵐を防ぎ匣の攻撃をしのぎ、それだけで手一杯だった。それでもどうにか相手の数を減らしていくこともした。時間はかかったがこれ以上は消耗戦だと判断した相手の引き際は潔かった。だから彼女に駆け寄れたのは、それからようやくのことだった。
 。血まみれの彼女を抱きかかえ、瞳から涙がこぼれた。彼女はもうすでに虫の息だった。急所は外れている。彼女だってただの盾ですもうなどとはしずに戦った。銃を構え相手と相打った。急所は外れているが弾数とこの出血。もう、遅いか。
 彼女が見た未来は。俺の瞳に映っていたというお前は、これなのかと。どうしようもなく思った。頬を涙が伝った。俺は結局何も。何も。
 すまないと謝った。やっぱり変えられなかったと、俺は彼女の最後と自分の無力を呪った。
 彼女が唇の端を僅かに持ち上げて笑う。
 わたしのことはわすれていいよ。息も絶え絶えに彼女はそう言って、呼吸を止めた。
 彼女が見た未来は紛れなく現実になってしまった。ならなければいいと思っていることばかりが現実になる。どうして。どうして。頭の中ではその言葉ばかりがぐるぐると回っている。ことんと床に落ちた彼女の手を握り締めて額に押し付けた。血のぬるりとした感触。まだあたたかい手。だけどもう二度と動くことのないその手を握り締め、唇を噛み締める。
 わたしのことはわすれていいよ。彼女の最後の言葉が、頭の中を埋め尽くしている。
「…ちょっとはきれいになったかな」
 錆び付いた部分を撫でながら、彼女の白い十字架を撫でた。すっかり冷たくなった手を擦り合わせて息を吐きかける。白い色。寒い。
 君は死んでも構わないと笑ってみせたけど。あれは本音だったろうか。あれは本当に避けようのない、俺が未来へ行くための道だったのだろうか。
 かつと靴底で石畳を踏みしめる。彼女の墓の前に置いた花が寒そうに揺れている。
 最後に、俺は墓に向かって頭を下げた。お前が俺を庇わなかったら俺は今生きていなかったかもしれない。お前には感謝してる。本当なら生きていてほしかったけど、それはもう叶わない願いだから。だから、あれが間違っていたとは言わない。お前は俺を守ってくれた。俺はそれを胸に刻みつけて、またここにくる。だけど結局ここにくるとまた俺は考えるのだろう。あのときあの場所で本当にあれしか道はなかったのかと、そんなことをまた。
「またくるよ、。今度はもう少し早く」
 寒空の下顔を上げれば、白い十字架の上で彼女がむくれた顔をしてこっちを見ているような気がして、俺は小さく笑う。まるで俺の胸の内を見透かしているような顔だ。いい加減にしたら、とでも言われそうな。
 そうして俺はタオルを手にしてその場所をあとにする。
 そしてまたここにきたときは彼女のことを思い、もう変えられないことで悩んだり悲しんだりして。そして彼女はきっと、そんな俺をむくれたような顔で見ていることだろう。

世界のために亡くすもの
(いい加減割り切りなさい。そんな彼女の声が、聞こえてくるようで)