明るいところが苦手になった。
 第一に目に眩しいから。第二に色んなものが見えすぎるから。第三に、見なくていいものまで見てしまうから。
 暗ければ見えないものがたくさんある。人間の目は猫みたいに夜目っていうのはないし暗闇には疎い。どれだけ闇の中にいて目を慣らしても、見える距離はせいぜい知れている。だから夜は好きだ。暗くなってしまえば、私は見たくないものを見なくてすむから。
 朝が一番嫌い。私が好きな夜を連れ去ってしまうから。
「何してんだよ」
「、」
 聞き慣れた声に顔を上げて振り返る。勝手に開け放たれている部屋の戸口にユウがいた。廊下の橙色の光に照らされて、いつもの顰め面をさらに顰めてこっちを見ている。
 私は曖昧に笑った。「何してんだろうね」と言うとユウが舌打ちして手を伸ばしてぱちんと部屋の電気をつけてしまう。そうするとせっかく雨戸まで閉じて光を遮っていた部屋に明かりが灯った。眩しくて顔を伏せながら自分の髪をつまんでみる。だいぶ、長くなったなぁ。
「何してんだよ」
 二度目になる言葉を言われる。私は沈黙することしかできなかった。
 そんなこと言われても。私だって言いたいよ、それ。自分に。何してるの私って。
 ちらかった部屋はノートがハサミとカッターでずたずたになって床に散乱していて、机の上もずたずたに傷だらけにした。壁に貼ってあった予定表とかポスターも全部ずたずたの紙切れになって床に散らばっている。それでも教科書とか破ったらまずいものに手をつけていないのが私らしい。馬鹿だなぁ。ノートとかポスター破るんだから教科書だって思い切ってカッターをぶっ刺せばすっきりしただろうに。
 寝ることだけが私の時間潰しの方法だったから、紙くずや物の散乱した床に対して妙にきれいなままのベッド。その上で小さくなっている私。無言の彼がばたんと扉を閉めた音がする。出て行ったのではなく入ってきたのだ。

 彼は私の幼馴染というやつであり、それが原因でイジメにあうこともしばしばあった。神田ユウという人はぶっきらぼうでつっけんどんで人付き合いを極端に避けるけど、勉強はできるし運動もできる。ただ人付き合いが皆無だから彼女とかは一切なし。友達だって数えるくらいしかいないだろう。そんな彼に憧れのようなものを抱いて好きになる女の子は多い。だから、私は獲物になるわけだ。人と話すのさえめんどくさがる彼だけど、私とは普通に話をしてくれる。それが理由になる。
 私は気にしてない。これだけ整った顔をしてるユウがモテることは分かってるし、そんな彼の幼馴染だという事実はイジメがあろうとなかろうと変わらない。私はユウの友人兼幼馴染としてどーんと胸を張っていればいいだけだ。嫉妬をイジメの理由にしてくるような心の狭い女の子と友達になる理由だってないんだし。
 なんてことをしてたら中学三年だというのに友達が一人もいないような状況になっている。男の子とはわりと話すけど、女の子とはさっぱり。別にいいんだけど。グループとか作るときに困るだけで、普段は全然。

「…三年生さ。ユウと一緒のクラスがよかったなぁ」
「あ? 体育合同じゃねぇか」
「そうじゃなくて。普段から。一緒だったらな」
 ぐいと髪を引っぱられた。「痛いよ」とこぼすと「なら顔上げろよ」と返される。ぐいーと髪を引っぱられるもんだからしょうがなく顔を上げて引っぱられてる髪を引っぱり返した。だから痛いって。
 男の子のくせにきれいな顔をしてるユウは「何だよ、気にしてんのか。気にするなって言ってるのに」至極当たり前みたいにすっぱりそう言う。うん、そうしようって私もそのスタイル貫いてきたんだけどさ、何年も何年も続くとそんな気持ちも挫けてくるものなんだよ。
 ぎしとベッドに腰かけた彼。きっと私にだけだ。こんなふうにしてくれるのは。そう分かっているのに素直に笑うことができない。こんなにかっこよくて自慢のユウが幼馴染で私も鼻が高いのに、それに比べて私はやっぱり釣り合ってないんだろうなぁとか考えると、すごくしょんぼりになる。
 もしスタイルばっちりで勉強もできて運動もできたら、お似合いだって、言われることもできたんだろうか。
「高校どうすんだ」
「…分かんない。ユウは?」
「受ける」
「……どこ行くの? 専門? 普通科?」
「普通科。専門は金がかかる」
「そっか…そうだね」
 ユウはしっかり、卒業から先の道すじも決めていた。私は三年生のこの時期に勉強を放棄している。教科書は破いてないから勉強しようと思えばできるけど、もうそんな気力もない。
 頑張ってたつもりだったけど。ううん、私すごく頑張ってた。頑張ってたから、すごく頑張ってたから、エネルギーが尽きちゃったみたい。もうなんにも出てこない。涙も出てこない。怒るだけの力もない。ただびりびり紙を破って破って破いて散らかして、それで少しすっきりするくらい。
 ユウのせいだ、なんて言わない。言えない。言いたくない。私は彼との関係が壊れることを一番に恐れている。
 俯いていた視線の先で彼の長い髪が揺れた。「痩せたな」というぼやき声と一緒に背中を撫でた掌に笑う。どんなふうに笑ったのか分からないけど笑うことを心がけた。
 うん、最近何もかもおいしくなくて。あんまり食べてないから。
「来い」
「え? わ、ちょ、」
 ぐいと乱暴に引っぱられて転びそうになりながらベッドを下りる。ずかずか歩いて行く彼の手を引っぱり返して「ま、待って私外に出たくない」「何でだよ」「すっごい寝巻きじゃん、やだやだ。ねぇっ」「いいだろ別に。俺んちなんだから」「よくないっ」ぎゃーぎゃー言いながら階段を下りて玄関まで引っぱっていかれて結局力で負けていた。サンダルに足を突っ込んで「ちょ、ちょっと待ってユウ」その辺でもうその手から逃れることは諦めている。スニーカーに足を突っ込んだ彼がお邪魔しましたの一言もなしに私の家を出て行くのはもう慣れ親しんだことで、彼はだいたいこうだった。自分の家みたいに私の家から出て行って、向かい合ってる神田の表札のかかった家の方にずかずか歩いて行く。
 眩しいことに目を細めて片腕で視界を庇う。何か赤いと思ったら、夕方だった。
「ねぇ、私ひどい顔して、」
「いつも通りだろ」
「な、失礼な! それって私がいつもひどい顔してるって暗に言ってるでしょ、そうでしょっ」
「そんなこと言ってねぇ。お前がどんな顔してようが、俺にとってのお前はお前だ」
 道路を渡った彼。通りすぎたバイクの音で後半がかなり霞んで聞こえた。あれ、今、何か重要なことを言われたような?
 和風の家はイマドキならず引き戸式だった。がらがらと音を立てて開く玄関の扉がいつも珍しくてついつい見てしまう。引っぱり込まれてがらがらぴしゃんと閉じた引き戸の扉は、やっぱり和を感じる。
「ケーキが買ってある」
「え?」
 引き戸から顔を戻した私に、ユウはぼそりとそんなことを言った。ぱちぱちと瞬いてフローリングではなく木板の床に上がった彼を見つめた。いつもよりそっぽを向いてさっさと居間の方に行ってしまうから私は慌ててサンダルを脱いで気持ち揃えておいた。他に誰もいないだろうと分かってるものの。
(ケーキ? ユウは甘いものは確か、大嫌いだって)
 そろそろ居間を覗き込む。冷蔵庫からホールのタルトのケーキを持ってきて包丁を装備した彼が、卓上机の座布団のある方に首を振って「座れ」と言うから「お邪魔しまーす…」と小さな声をかけてから畳の部屋に足を踏み出した。裸足に畳はくすぐったい。
 上手にケーキを切り分けた彼。でも四等分だった。ホールなのに。
「…あの、ユウは食べるの? それ」
「食うわけない。俺は甘いものは大嫌いだ」
「いやでもさ、私そんなに食べれるわけないって。なんでケーキホールで、甘いもの嫌いなユウの家に…?」
 切り分けられたケーキが一枚だけあるお皿に載せられて、当たり前のように私の前へ。フォークもすでに準備ずみ。ついでとばかりにお手拭まである。とても用意が、よすぎる。
 ケーキなんて甘いものが目の前にあると、複雑な気分になった。久しく食べてないから味が思い出せない。甘いものっておいしかったはず、だよね?
「あの…私、お腹空いてな、」
「食え」
 がしとフォークを掴んでざっくり一口切り分けた彼が私の口にケーキを突きつけた。ぱちぱち瞬いてから怒ってるような目に恐る恐るケーキをぱくりと食べてみる。
 感想。とりあえず甘い。
「………吐き気は」
「ふぇ?」
「しないか。吐き気」
「あ、だいひょふ」
 もぐもぐケーキを食べて何度目かでそう訊かれた。ざっくりケーキを切っては差し出す彼、そのフォークからケーキを食べる私。そんな構図が繰り返されて、彼の手から私の手にフォークが渡された。「なら食えるな」と若干やわらかくなった声で言われてこくこく頷いた。全部食べるのはもちろん無理だろうけど、この四分の一くらいなら何とかなると思う。
 席を立った彼。私はその間ケーキの上のフルーツを食べたり、くどくないさっぱりめの生クリームに感謝しながらしばらくぶりの甘いものを堪能していた。
 戻ってきた彼の手にはお盆と熱いお茶。一応水のコップもある。
「ユウー紅茶は?」
「あ? そんなもんうちにはない」
「えー、ケーキはあったのになぁ」
 ぼやいてみたらふんとそっぽを向かれた。だから私はにやにやする顔を止められない。さくりとタルトの部分にフォークを入れて、これがユウの気遣いなんだなぁとほんわかする。
 あのね、だから、こういうユウの優しいところを独占したいと思う女の子がたくさんいるのはとても当たり前のこと。だけどそのユウが優しいのは今のところ私にだけ。だから、私がユウを独占してるように見えるんだろう。そういうことだよね。
 ふーと熱い日本茶に息を吹きかけながらちらりと視線を上げた。ユウは自分用に煎餅まで用意していてケーキのある食卓で平然とがりがりばりばりと音を立てて食べていた。
「ねーユウ」
「あ?」
「このケーキ、わざわざ買ってきてくれたの? 私のために?」
「…俺がお前のこと何も知らないままだとか思うなよ。痩せたってくらいパッと見れば分かる」
 最後の一切れを口に運び終えて一口。まだ四分の三も残ってるケーキはさすがに一度冷蔵庫に戻してもらった。
 ユウがばりんと煎餅をかじる音がする。テレビのない静かな空間で過ぎる静かな時間。ユウの家は和通しで造られているとても親しみのわく感じ。
 畳に転がってごろんとしていたらぬっと影ができてぎょっとする。ばき、と煎餅をかじったユウと長い髪が肩をこぼれ落ちて目の前で揺れた。ちょっと、煎餅のかすが落ちてくるよ。
「あ、寝転んじゃ駄目だった…?」
「それは別にいいがな。お前…少しは分かるだろ? 俺の気持ちも」
「え、何が?」
「……はぁ」
 溜息を吐かれた。むぅと眉根を寄せてユウの長い髪を引っぱる。「ねぇ何が?」と催促すると煎餅を口から離したユウが「鈍感だな」と言うから、本当にたまにしか呼んでくれない名前を呼ばれて不覚にもどきっとした。
 それよりもユウさん、私の気のせいでしょうかユウさん。顔が近くありませんか?
「あの、さ。近いよ」
「ケーキ食えよ。俺は食わねぇから残り持って帰って食え」
「ええ、あれを? 家族で食べても残るかもよ?」
「食え」
 随分な無茶振りだった。ごつと私の額にユウの額がぶつかる。彼の長い髪が視界を隠してしまって何も見えなくなる。
(これは、どういう状況だ? ユウは何をしたいんだろう? むしろ今までで前代未聞…?)
 固まってしまう私とは逆に、彼の手が私の頬をぷにとつついた。「これ以上痩せるな、太れ」と言われてかちんとくる。それはどんだけ痩せてる女の子に言った台詞でも決して共感されない気がするぞ。
「ユウが太れ。ほそっこい」
「平均だ。お前が太れ」
「女の子に太れとか言うなー、傷つく」
「…じゃあ言い換える。もうちょい健康的になれ」
 心配だろ。ぼやかれた言葉はすぐ耳元で聞こえた。どきどきする心臓を感じながらユウの長い髪を一房つまんで唇で触れてみる。艶やかな髪は滑るような肌触りだった。いいなぁ。
「…あの、ユウさ」
「あ?」
「こういうのは、あのさ、いくら幼馴染相手だからって、勘違いされてもしょうがないよ…?」
 額にかかってた体重がふわりとなくなったので視線を上げてみる。ちょっとだけ顔を上げたユウとぱっちり目が合った。「お前ほんとに鈍いな」「え? どこが」「全部」「なっ」失礼な、と続けようと思って言えなかった。私の顎に手をかけたユウがあろうことかありえないことをしてきたからだ。そんなユウさんに限ってありえないと叫びたいことをしてくれたからだ。というかいくら幼馴染相手でもキスはどうよ、ないよねうんないよ!
 …あれ? ってことはじゃあ、これは、どういうことだ。
「いつまでも幼馴染でくくってるな。鬱陶しい」
「、」
 かちこちに固まってる私に彼はそう言った。にやりとした笑みまで浮かべてくれるもんだから初キスの感想なんてどこへやら、私は手足をじたばたさせて「ず、ずるい、ユウずるいっ」と意味不明に喚いた。わあわあうるさくしてたら呆れた顔をした彼に黙れよとばかりにまた唇を塞がれたことは言うまでもない。
結局貴方次第