ふと意識の焦点を戻すと、ざあん、と波の音が聞こえた。ぱちぱち瞬いて視線を落とせば、私は裸足で、寄せては引いていく波に足を濡らしていた。
 そうか、ここは海か。寄せては引くを繰り返す波から視線を上げる。水平線が見えた。辺りは静かなものだった。ざあん、と波の音が聞こえるだけで他に物音がしない。
 夕暮れの橙色を照り返す海を見つめて私はほぅと息を吐く。
 なんてきれいな景色なんだろうか。こんな平和な光景がまだ世界に存在していたとは。そんなことにひどく驚いている自分がいた。
 ふいにざくと足音が聞こえて振り返る。いつまでいる気だ、風邪引くぞと不機嫌そうに口にして砂浜を踏んで歩いてきたのは、神田だった。
 彼は海に似つかわしくない黒いコートを羽織っていた。いつものように頭の上で長い黒髪を一つに結んでいる姿から視線を外して思う。ああ、これは夢か、と。
 彼の羽織る黒いコートの左胸にローズクロスが見えた。遠くからでもあれが黒の教団のものだと分かってしまう私は、ある意味残念だ。夢でくらいあの組織のことなんてきれいさっぱり忘れてしまえばいいのに。夢を見るのは私の自由なんだから。夢くらい。もっと甘くて、思わず笑ってしまうような、そんなものであればいいのに。
 ざく。足音が止まって、おいと声。不機嫌そうな、苛々してるような声。いつもの神田だ。私の知ってる神田だ。彼はこういう感じで苛々と私に声をかけることが多い。基本仏頂面だし笑顔は欠片もないし、言葉は乱暴だし、唯我独尊の一匹狼。エクソシストとしてそれなりに長く教団に留まり続けている私達なのに、その距離は初めて出会った頃から何も変わっていない。苦しいくらいに。
 きっと神田が夢を見たとしても、そこに私が出てくることなんてないんだろう。
 私は。あんな人のことが、それでもなんかね、好きなもんだからさ。だから私の夢には彼が出てくるわけだ。私が意識してるから。無意識の領域で思うほどに普段から意識してるから。
 …報われないのにね。そう分かってるのにね。
(夢、醒めてほしくないなぁ)
 いつまでたっても沈まない夕陽を見つめ続ける。ざあんと波が寄せては引いていく音だけがする。
 そういえば、波に浸している足に冷たさや水の感触を感じない。せっかくならそれも再現してくれれば、もう少しここを楽しむこともできたのに。
 おい、。名前を呼ばれて私は唇を噛んだ。振り返りそうになる自分を叱咤して海を見つめ続ける。
 行ってよ神田。どうせ夢だもん、そのうち醒めるよ。そんなかわいくないことを口にする自分がいる。彼の声はしない。黙り込んでいる。怒ったろうか。せめて夢でくらい仲良くしてたいのにな、なんて思う。
 ぱしゃんと足を動かして一歩海に近づいた。これはどこまで続いているのか確かめたくなったのだ。私が沈むところまでこの海は続いているのか、それとも適当なところで前には進めずただ歩くだけになるのか、あるいは眠りから醒めてしまうのが先か。興味が湧いたのだ。
 ばしゃ、と波を蹴って進む。膝まで水が到達する時点になったところでざぱと別の音がした。ざばざばと大股で水を蹴って進んでくる音。
 ぱしと手首を握られる。温度はなかった。それがこれは夢なんだということを私にしつこいくらい訴えてきて逆に辛くなる。
 どこ行くんだよと不機嫌そうな声がする。私の勝手でしょと返せば戻れと言われた。意固地に首を横に振って私は彼の手を振り払う。放っておいてよ神田と。夢でだけ優しい彼なんて、現実に戻った私が辛くなるだけだ。ならそんな優しさいらない。私と神田はずっと交わらないままどちらかが戦死して、それで、終わりだ。
(希望は見ない。見ちゃいけない。ね、そうでしょ神田)
 海へ溺れようとまた一歩前に進む私。感覚のない身体。それでも手を取られる感じがして、と呼ぶ声がして、私は泣きたくなる。お願いだから私のこと放り出してどこかへ行ってよ、と。
 じんわりする視界で、夕暮れの水面が眩しく揺れる視界で、戻ろうと、聞いたことのない棘のない声で言われて、つい肩越しに彼の方を見てしまった。現実では絶対にありえない、100パーありえない、見ることのできない笑った神田がもう戻ろうと言う。手を引かれる。今度は振り払うことができなかった。彼が強く私の手を握って浜辺の方へ戻り始める。引っぱられるまま彼の背中を見つめている私は、無力だった。夢だけ優しい彼を完全に拒絶することができなかった。こんなの私があとで絶対辛いだけだと分かっているのに、振り払えなかった。
 本当はこんなふうに一緒に。現実でも。
 弱い心が彼の手を握り締める。縋るように握った手が握り返されると、私はもう泣くしかなかった。
 ねぇ神田。気付いてないかもしれないけど、私、あなたのこと大好きなんだよ。
 ばしゃと水を蹴った彼が私を振り返る。海水を吸った服や髪が濡れている。夕陽がきらきら反射していて彼の全てが輝いて見えた。いつもかっこいいのにそんなにかっこよくなられたら私、ほんとに、どうしたらいいの。ほんとに。
 知ってる。そうぼやいた声と私から外れた視線。片手で涙をこすって止めようと一生懸命な私の視界で、彼が言う。俺も、お前には感謝してると。そんな言葉をぼそぼそと、波の音で掻き消されてしまいそうな小さな声で、そっぽを向いて。
 そんな彼に私は笑う。
 全く。なんて都合のいい夢、なんだろう。
 あのね、神田。
 声がした。知っている声が。
 瞼を押し上げる、ただそれだけの動作がひどく億劫に感じて、確保した視界の先で見慣れた姿に目を細める。黒のコートを風に揺らして空を見ている相手はこっちを振り返ることはしなかった。俺もそれでよかったからなんだよとぼやいて返してから、やけに遠い背中に眉根を寄せる。声は聞こえるのにその姿がひどく遠い。
 近づこうと踏み出した一歩と、ぱしゃと足元から水の音に視線を落とす。夕陽の空に照らされて赤い色が足元に広がっている。
 赤。
 神田。呼ばれる声に赤から視線を引き剥がしてあいつを見た。肩越しにこっちを振り返った表情は夕陽に邪魔されて確認することが難しく、ぱしゃと水音を響かせながら歩いても少しも距離が縮まった気がしない。足を一歩踏み出す、ただそれだけの動作が重いと感じる。どうして俺の身体は言うことを聞かない?
 神田、愛してるわと言われた。足元に落としていた視線を上げる。ぼやけていた表情が見えた。斜陽の赤の中あいつは泣いていた。それでも笑って愛してると言う。俺を、愛していると。
 泣きながら笑って愛を継げるあいつに、どんな顔をしてどんな言葉を言えばいいのか、俺には分からなかった。
 俺が愛している人はただ一人だけ。あいつの言葉に、俺は望む答えを返せない。
 俺は、と紡いだ唇はそれきり何も言えなかった。足元の赤を振り払うようにまた一歩踏み出す。
 赤を踏む。
 ばしゃと水音。
 空笑いした、あいつの声。
 言ってよ、否定して。いいんだよそうしてくれて。今までそうだったじゃない。ばっさり切って捨ててくれたじゃない。そうしてよ。そんな言葉が聞こえる。泣きそうなのを堪えて笑っている、震えている声が聞こえる。
(ああそうだ。確かに俺は今までお前のことを切って捨ててきたよ。それなりに長い付き合いなのにお前とは喧嘩ばかりしてた。俺が一方的にお前を傷つけてきた。お前は俺を、気遣って。愛をくれていたのに)
 ばしゃ、と赤を踏みつける。
 あいつとの距離は縮まることを知らなかった。ずっと一定のまま、億劫な身体でどれだけ歩いても近づけなかった。
 なぁ、俺のこと嫌いか。そう言ったら含み笑いされる。愛してると言われたあとに嫌いかなんて訊くのはおかしな話か。
 俺はお前に少しも優しくしてこれなかった。嫌われていて当然だ。愛してるなんて言われる資格はない。俺はそんな男じゃない。過去の約束と未練にしがみつきそれだけしか見ないようにしている、愚かな奴だ。
(馬鹿な、。お前は馬鹿だ。こんな俺のどこを愛してるって言うんだ)
 ばしゃと赤を踏みつける。夕陽がふいに翳った。それでも赤は赤のままだった。赤を視線で辿るれば、ずっと続く赤い筋の軌跡は、彼女で帰結した。団服のコートを赤にまみれさせたあいつが笑っている。
 あなたを愛してる、神田。ずっと愛してる。愛してる。大好きよ。そう言ってあいつが笑う。笑った顔を血色が伝う。
 億劫な身体で俺はそれでも走った。そうしないと後悔すると思った。
 身体が千切れ飛んでも構わないから届けと願って手を伸ばしてと彼女を呼んだ。
 伸ばし返された手が遥か遠くに感じる。
 声はこんなにもよく聞こえるのに、届かない。
 ばしゃ、と彼女の姿が血色に溶解して散らばって消えた。ようやく届いた手は震えるその手を握ることはできなかった。
 血溜まりばかりになった赤にばしゃりと膝をつく。酷使した身体が悲鳴を上げていた。もう一歩も動けなかった。思い通りにならない自分の身体に苛立ちが募る。彼女だった赤い色に手をついて、唇を噛み締めてぐっと拳を握ったとき、俺の手も赤い血に溶解した。ばしゃと音を立てて俺の赤が彼女の赤と混じり合う。感覚は、ない。
(ああ…夢。なのか)
 手が落ちた腕を見てそう思う。
 ばしゃ、ばしゃんと音を立てて俺の身体のいたるところが溶解を始める。俺の身体だったものが赤い血に変わり彼女の赤と混ざり合う。
 嫌な夢だ。現実で少しも優しくできないあいつに、夢でも冷たくしている。嫌ったようなフリをしてる。本当は感謝してるくせに。こんな俺に変わらず接してくるあいつに、喧嘩ばっかりでお互いいがみ合ってばっかりのあいつに、それでもどこかで感謝していたくせに。
 愛してるなんて言葉。口が裂けても言う資格はないけど。俺はあいつに、それなりの好意を感じていたんだ。
 下半身が崩壊してばしゃりと赤い色に顔から突っ込んだ。そのうち視界も溶けて消えるんだろうと思いながらぼんやりあいつと自分の赤が混ざり合ったものを見つめる。視界が、血色一色に染まる。
「…、」
 薄く目を開ける。視界が赤い色で滲んでいた。一瞬まだ夢を見てるんだろうかと思った。が、それは錯覚だとも分かった。腕を持ち上げてぞんざいに目元を拭ったときに痛みを感じたからだ。
 地面に手をつく。その手に力が入らないことに気付いて視線をやれば、折れてるんだろう、普通ならありえない方向に折れ曲がっている手首が見えた。痛みを殺しながら肘をついてずりと身体を動かす。視線を動かせばただ現実が転がっていた。
 アクマとの戦闘でどうにか相打ちにまで持ち込んだが、こっちの負けだ。本来なら死んで終わり。俺がイレギュラーに動き出すだけで、普通なら本部に帰還する奴がいないまま終わっていた。
 動かない身体で視線を動かす。ずり、と足を引きずって地面に膝をつく。片足がまだ動かない。再生に時間を食っている。俺の身体はどこまでもつだろうか。
 何かを探すように視線を彷徨わせて、血色に染まっている空と黒い煙を意味もなく視界に入れてはっとした。
 そうだ。あいつは。
、」
 ずりと足を引きずって掠れた声であいつの名前を呼んだ。返事はなかった。アクマの残骸と人間の死体が転がる中黒いコートの姿を探す。白い団服の探索部隊は意識から外す。どうせみんなもう死んでる。
 ず、と足を引きずりながら無理矢理立ち上がった。高くなった目線で死体とガラクタの間を視線が彷徨う。「」と呼んでも返事は返ってこない。嫌な夢が頭を掠める。もう半分も憶えてない夢で、彼女に届かなかった手と赤い色が消えない。
 足を引きずって引きずって歩いて行った先で、ようやく彼女を見つけた。途端に身体が傾いでみっともなく地面に転がる。回復の遅い身体に舌打ちしながら無事な腕の方で地面に手をつく。ぬるりとした感触。顔を上げた先に見えるのは、赤い海の中にいるあいつの姿。
 息遣いを、感じない。もう死んでしまったろうか。
…、おい
 片腕と片足で地面を這いながら転がって動かない彼女のところに行く。血溜まりですぐに団服が染まった。重くなる。億劫だと思いながら手を伸ばして、血に沈む彼女の頭を抱いた。「」と囁いても瞼が上がる気配はない。
 もう死んだのだろうか。俺を置いて。
 ちっとも動かないの隣に転がって空を仰ぐ。赤い色。嫌な色だ。どこを見ても赤ばかり。戦場に赤がついて回るのは仕方のないこととは言え、見たくない色だ。
 赤。
(…六幻)
 視線を動かす。どの辺りから歩いてきたのかもう忘れた。手に六幻の感覚がない。そのくせ遥か空の彼方できらりと硬質な光が見えた。もうボロボロだっていうのにまだ戦えってか。身体の再生が遅いんだよ。まともに立てないんだ。腕だって動かない。足だって。
 こてんと顔を横に向ける。眠っているように目を閉じている彼女は、きっと。もう。
「…
 どれだけ近くで名前を呼んでも、返事の声はなかった。
 遠くで何かが光る。もう動くのが億劫で俺は諦めた。
 六幻もないし戦うのに疲れた。少しくらい休ませてくれ。立ち続けることに疲れたんだ。少し、休ませてくれ。
 大丈夫。次に目が覚めたらちゃんとやる。ちゃんとやるから。だから。
 おい。不機嫌な声に呼ばれて意識が戻る。浜辺に座り込む私の隣で胡坐をかいている神田のぼやき声だ。苛々してるように組んだ腕を指先でとんとん叩いている。
 海からここまで戻ってきたけど、夢はまだ続いていた。橙色の空はずっと夕暮れのまま、夕陽も海の向こうに沈むことなく私達を照らし続けている。
 ぼんやりと夕陽を見つめながら私は何よと返す。彼は言う。こんなとこにいたのかと。さっきからここにいるじゃないかと私は眉根を寄せて彼を見た。ざくと足を踏み出して立ち上がった彼が夕陽を睨みつけて嫌な色だとぼやく。ぱちぱち瞬いて神田? と呼べば黒い瞳が私を一瞥してなんだよと言う。
 ざぱ、と海が大きな音を立てた。寄せては引くだけだった波と、ただ夕陽を照り返すだけだった海が、突然割れたのだ。
 ぽかんとしている私と違って神田は冷静だった。道があるなと言う声に目を凝らせば、確かに一本道ができていた。海を突っ切り水平線まで続いていそうなまっすぐな道が海底に一本だけ。
 あの道を行くと、目が醒めてしまうんだろうか。それとももっと深い眠りに導いてくれるとでも?
 、と呼ばれて神田の方を見る。そっぽを向いている彼が私に手を突き出している。これはこの手を取れって意味だろうか。
 恐る恐る伸ばした手を掴んだ彼。感覚があった。温度があった。そのことに驚く。
 神田、と意味もなく漏らせばなんだよと返される。彼が浜辺から波間へ、一本道へと足を踏み出す。
 鋭利になっていく感覚とはっきりしてくる彼の温度に私達ってと漏らすと、彼は束の間足を止めた。こっちを振り返る顔はいつもの仏頂面だったけれど、ああ、とぼやく声で何となく腑に落ちた。だからふっと笑って死んじゃったのと、笑おうとして失敗した。彼が視線を逸らす。それから無言で前を向いて歩き始めた。
 波と波の間にできた一本道を歩きながら、私は神に感謝した。
 イノセンスなんていらなかった。アクマなんていらなかった。でもそれがあったから神田と出会った。出会わなければよかったと思うくらい苦しくなったり悲しくなったり辛くなったりした。
 でもね、愛してしまった私の負け。最後に、こんな最後にでも彼といられる、幻だろうと妄想だろうと、彼といられる。そのことに感謝している私の負け。

「神田」
「なんだ」
「愛してる」
「…知ってる」
「うん。言いたかっただけ。聞き流してくれていいよ」
「……俺は、お前のこと、嫌いじゃねぇ」
「、」

 ぎゅっと強く手を握られた。だからって好きでもねぇけど、と付け足された言葉に私は笑う。泣いて笑う。笑って泣く。
 十分。あなたのたった一言で、私はこんなにも救われるのだから。

 刺しても死ななかったのに、
抱き締めたら消えてしまった