1.思

 イベントごとにはとんと無関心、人付き合いだって無関心というかむしろ嫌っている節のあるあの神田が、まぁ駄目だろうなと思いながらお花見に行かないかと誘ってみたところ、なんとオーケーを返してきた。正確には舌打ちのあとに仕方ねぇから行ってやるよと偉そうに言ってきたわけだけど、誰が行くかときっぱりすっぱり断られると思ってた私は彼の返答に心底びっくりしたわけである。
 目を丸くしてる私にじろりと視線を向けた神田が「なんだよその顔。そっちから言ってきたんだろうが」と苛々した声を出す。はっとして「あ、うんオッケだされると思ってなくてさ」ぽろっと言ってしまってから眉を顰めた彼にぶんぶん手を振る。ここで却下されてしまってはいやだ。
「や、よかったうん! 神田桜好きなの?」
「…別に」
 顔を背けた彼が「日程は」とぼやくように訊くから、日時と時間と場所と会費を書いてある紙を渡す。「これ。場所分かる?」紙をつまんだ神田の視線が紙面を追い、「ああ」と声。ほっとしつつメンバー表に神田の名前を追加した。
 これでそれなりに人が集まってきた。お花見会らしくはなるだろう。
 ちらりと神田を窺う。ポケットから財布を引っぱり出した彼が「今払っとく」と千円札を二枚押しつけてきた。会費は千五百円である。ポケットを叩くも財布は入っていなかった。「あ、ごめん今財布持ってない」「釣りはいらん。好きに使え」「え、でも」「いいっつってる」「…はい」有無を言わさぬ双眸に睨まれて首を竦めた。本当にいいんだろうかと思いつつポケットにたたんだ千円札を入れる。まぁいいか、当日にでも五百円渡せばそれで。
「えっとね、係りを分担してて。神田さ、料理できる?」
「あ? 俺に作れっつーのかお前は」
「いや、散らし寿司の担当私なんだよね。人数多いしさ、作るの手伝ってくれると助かるなぁとか。無理なら全然いいけど。…んー、そうすると他に残ってるのは場所取りかな」
「…そっちの方が面倒くさそうだ」
「まぁね」
 苦笑いすると、神田は仕方なさそうに息を吐いて「ならお前を手伝う」とぼそぼそ言ってくれた。
 なんだか今日は神田がやけに優しい気がする。神田の名前の横に散らし寿司担当と付け足して、ちらりと彼を見てみる。渡した予定表をたたんでポケットに突っ込んだ彼はいつもどおり、ちょっと不機嫌そうで、顰め面だ。
 ふと気付いた。そういえば私、神田の携帯知らないや。
「神田、携帯教えてよ。連絡するのにいる」
「…俺は持ってない」
 ぼそりとした一言に思わず目を瞬く。
 イマドキ携帯を持ってないってどういうことだ。いや、神田らしいといえばらしい気もするけど、やっぱりないのは不便じゃないだろうか。神田はネットしなさそうだしメールも電話もあんまりしなそう…って、そうすると携帯なくても大丈夫なわけか。ははぁ、さすがだ、神田。なんとなく感心しつつ、「じゃあどうしよう」と首を捻った。携帯がないとなると連絡手段が。そこで呆れた顔をした彼が「家になら電話はある」と言って、私の手からペンを奪って自分の名前の下に綺麗な字で家の電話番号を書いてくれた。
「えっと、じゃあここに電話すればいいんだね」
「ああ」
 人の家に電話、か。それって携帯を持ってからはすっかりしていなかったことだ。携帯に電話するイコール持ち主と繋がる、ということだけど、家電になると違う。相手のお母さんとかお父さんとか家族が出るかもしれないのだ。そういうのって少し緊張する。
「どうせ俺しかいないから、身構えなくていい」
「、」
 顔を上げる。神田はそっぽを向いていた。でも私の考えてることが分かったんだ。なんか、すごいな。神田。
 今日の神田はなんか優しいから、駄目もとで別件を頼んでみる。
「ねぇ神田、参考までに今日の論文見せてよ」
「嫌だ」
 きっぱりすっぱり顰め面で却下された。なんだ、やっぱ駄目か。優等生の意見を参考にしてみたかったけどしょうがない。肩を竦めて「じゃあなんかあったらまた連絡するね」「ああ」私は彼と基本教室が違うのでくるりと背を向けて、「あっ」「…なんだよ」もう一回彼を振り返る。忘れるところだった、頼まれたものを。
 手にしているファイルをあさる。お花見の予定が書かれた紙以外にいくつか紙片が入っていて、そこに一つ封筒が紛れ込んでいる。白いそれをずいと神田に差し出して「はいどうぞ」「…なんだこれ」「まぁ見ての通りです。神田は携帯ないし、これくらいしか伝えようがないってその子が」差出人の名前を見た彼は表情を変えない。いつもの顰め面。せっかくのラブレターにもそういう反応なんだな、神田って。まぁらしいといえばらしいのか。
「……お前のじゃないんだな」
「え?」
「いや。何でもない」
 その封筒をぞんざいにポケットに突っ込んだ彼はつかつか歩いてどこかへ行ってしまった。
(今のどういう意味…だろう)
 ぽかんとしていたところから、チャイムの音で我に返る。慌てて自分の教室に戻って授業の用意をしている間、お前のじゃないんだな、なんて神田の呟きが頭でリピートされまくりだった。
 なんだこれ。どういうことだ私。神田はお友達でしょお友達。付き合い悪いし口も悪いけど優等生で、整った顔したただのお友達。でしょ、私。
「おー、もー、いー」
 きい、と自転車のペダルを踏む。散らし寿司の材料買って持って帰るくらいなら一人でもなんとかなるだろうなんて、甘く見ていた。自転車をこぐ足が重い。お米五キロとその他材料を搭載した自転車というのは相当に重いものだ、と思い知った。しまったな、こんなことなら素直に神田に電話入れとくべきだった。
 でも。なんか電話しづらい。家には神田だけでかけたら神田本人が出るんだろうけど、それ以前に。
 あのラブレター、神田はどう処理したんだろうか。
 坂道に入り、もう駄目だと諦めて大人しく自転車を降りる。ぱちんと携帯を開いて神田の名前で登録されている番号を画面に呼び出し、プッシュするかどうか迷う。
(えーいっ、惑うな私っ!)
 ぶんぶん首を振ってボタンを押した。指が震えているように思ったのはきっと私の考えすぎだ。
 坂道を前に自転車を路肩に寄せて、コール音を数える。5コールで出なかったらいいやと思った。1コール、2コール、3コール。そこでぷつっと音が繋がった。やっぱりなんか緊張する。
「あ、えっとと申しますが、えっと、神田?」
『ああ。どうした』
「いや、実は買出しに出たんだけど、荷物が思ったよりも重くて…申し訳ないんだけど手伝ってくれるとありがたいなぁと」
 はぁと溜息を吐いた音がした。『お前、行くときは言えよ』「ごめん」あははと笑う。神田はきっと呆れた顔をしてるに違いない。『今どこだ』「えっとー」きょろきょろ視線を巡らせて電柱につけられている看板の住所を言ってみた。「分かる?」『ああ。すぐ行くから待ってろ』…すぐ行くから待ってろだって。なんだかにやけちゃう台詞じゃないか、それ。
 通話が途切れて、携帯を見つめてからぱたんと閉じてポケットに捻じ込む。
 おかしいな。神田ってこんなに優しかったかな。さらっとそういうこと言うタイプだったかな。自転車の荷台にくくりつけてあるお米の袋をぽんぽん無意味に叩きつつそんなことを考える。
 あのラブレター。神田はどう返事をしたんだろうか。
(いや、いやいや。何考えてんだ。私には関係ないじゃん。野次馬根性で気になるってだけだよこれは)
 神田は顔がいいから、性格はあれだけど結構モテるんだよね。本人は迷惑がってるけど、それって贅沢だよね。
 ぽんぽん無意味にお米の袋を叩いて、思考をシャットダウンするために買出しメモを取り出して買い忘れがないかチェック。一応全部線を引きつつ籠に入れたものばっかりだけど、もう一回確かめた。エコバックの中身を確認。お米もしっかりある。うん、大丈夫。
 すぐに行くって言ってたけど、神田の家がどの辺りか知らないけど、まぁ五分は絶対かかる。メモをたたんでエコバックに放り込んで、さてどうしようかと思った辺りで足音。走ってる音が聞こえてきた。偉いな、誰かランニングでもしてるんだろうかと思ってそっちに顔を向けると、憶えのある黒い長髪が見えた。ん?
 ぐいと目をこする。
 見間違い、じゃない。神田がこっちに走ってきてる。結構全速力で。
「か、神田?」
 びっくりして引っくり返った声を上げると、目の前まで走ってきた神田が「悪い、遅くなった」と肩を上下させながら膝に手をやって息を吐き出した。ぱちぱち瞬いてからはっとしてエコバックの中に手を突っ込む。飲みかけだけどアクエリアスを買ったんだった。あわあわしながら「あ、これ飲む? 飲みかけでよかったら」差し出したアクエリアスをちらりと見た彼が受け取ってキャップを捻り、一口二口と飲んだ。ちょっと落ち着いたようで、ふうと息を吐くと「サンキュ」とペットボトルを投げて返してくる。ぱしっとキャッチしてから何をどう言えばいいのか、今更そんなことを思う。
「は、走ってこなくてもよかったのに。別に急いでないんだし、歩いて来てくれたらよかったのに」
「別に俺の勝手だ」
 ふんとそっぽを向いた彼が自転車のハンドルを握ってがしゃんと止め具を蹴った。さっさと歩き出してしまうから、慌てて隣に並ぶ。
 会話なしに坂道を並んで歩いて、どうしよう、なんて思う。なんか気まずい。それにさっきからラブレターのことばっか気になってる私、一体どうしたんだ。
「…あのさ」
「なんだよ」
「そういえばあのラブレター、返事どうしたの?」
 ちらりとこっちに視線を寄越した神田に、私は視線を返せない。俯くように顔を伏せていることしか。
 からからから、と自転車が静かな音を立てるだけで、行き交う人がなく、バイクも車も通らない。それが少し恨めしい。
「…知らない相手に、くれてやる返事も何もないだろ」
 ぼそりとした声に視線で窺う。「それでいいの?」「俺はいい」「ふーん」神田に告白する、しかもラブレターで、なんて方法を取ってまで気持ちを伝えたその子を少しかわいそうだと思ったけど、心のどこかが緩んでいたのも事実だった。
(ねぇ、これはなんだろう。ねぇ神田)
 二人で静かに歩く。背中の後ろで手を組んで空を見上げてみる。まだ陽は高い。
 明後日はいよいよお花見会だ。それなりに人が集まったし、おいしい散らし寿司を作って持っていきたい。成功させたい。だって、
 だって、これが最後、なんだから。

「おい。こっちだ」
「え? 私んちこっち」
 十字路に差しかかって、彼が右に曲がって私を呼ぶから左に曲がろうと思っていた私は立ち止まった。左を指す私に顎をしゃくって右を示した神田が「俺んちはこっちだ」と言う。ぱちぱちと瞬いてから「え、でも神田の家、調理道具ある? うちわとか桶とかある?」「そんくらいあるに決まってる」顔を顰めた彼が「行くぞ」と歩き出してしまうから、少し途方に暮れた。家まで自転車を押してくれるなんて悪いなとか思ってたのに、別に、神田の家じゃなくてもいいのに。や、神田の家見てみたいけど。きっと純和風だ。いや、そうじゃなくてだね私。
 立ち止まった彼がこっちを振り返る。無言の視線にぎゅっと手を握ってから開いて、その背中目がけて走った。
 なんだかどきどきしている。これはなんだろう。ねぇ神田。
「ねぇ、ほんとにいいの?」
「俺がお前んち行くよりはいいだろ」
「え、えー…うーんどうかな。まぁ家族は興味津々って顔で神田のこと見るだろうね、きっと」
「そういうのは嫌なんだよ」
「だよねぇ」
 あははと笑う。うん、神田はそういう馴れ合いっぽいことはいかにも嫌いだもんね。
 笑った私に神田も少し笑った気がしたけど、気がしただけで、私の目の錯覚だったかもしれない。
 二人で並んで道を歩くなんて、きっともう二度とないのだろう。そう思うと何でもないこの時間がとても惜しいと思った。だから、なるべくこの記憶を憶えていようと思った。神田の細いけどしっかりした腕が自転車を押してるのとか、あんまり見る機会のないジャージ姿とか、長くてさらさらの髪とか、端整な横顔とか、とにかく全部を憶えていたいと思った。
 こんな時間きっともう二度と。あったとしても数えるくらいしか残されていないだろう。だって私達はこの春で大学を卒業する。後悔しないように精一杯やってきたし、おかげで就職も決まってくれた。この春から違う環境が私を待っている。
 だから、これで最後。これが最後。
 きっと少しのさみしさとほっとした気持ちと、そういうもので卒業できるだろうと思っていた。思っていたのに。
(ねぇ、これはなんだろう。ねぇ、神田)