2.想

 めんどくさい。なんで俺がこんなことを。胸中ではそう思うものの、本棚で埃を被っていた料理本を引っぱり出してきて散らし寿司関係の項目を眺めてる辺り、我ながら阿呆だ。
 花見にどれだけの人数が集まるのか知らないが、散らし寿司だけで米五キロ分もどう使うんだ。余るだろどう考えても。だいたいフルで炊いても炊飯器が足りないと指摘したら当然とばかりに他からも借りてきてあるよと言う辺り、あいつも気合いは入れてるらしい。
 …当然か。これで学生の身分は最後なんだから。こういう馬鹿っぽいことはできるうちにやっておきたいんだろう、きっと。
 ぺらり、とページをめくってぞんざいに作り方に目を通してぱんと本を閉じた。適当に机の上に投げ出してソファにどかりと腰かける。
 明日は下準備、明後日にはあいつとここで二人で散らし寿司なんて作らないとならないのか。めんどくせ。めんどくさいが、あいつの家に上がってその家族から興味の視線でじろじろ見られるよりは、他に誰もいない自分の家であいつと二人で調理した方がまだ気が楽だ。
 だいたい。どうして断らなかったのか。彼女からの花見の誘いを。
「……最後だから、なんて俺らしくねぇ」
 一人ぼやいて目を閉じる。名簿にはそれなりに名前が書いてあった。それなりに集まるんだろう。そう思うとさらにめんどくさいと思う。思うが、もう会費も払ったし散らし寿司の材料は全部引き受けちまったし、明日には炊飯器を持ってあいつが家にやってくる。ここまで来たら行く以外にない。
 断ってれば、卒業間近にこんなめんどくさいことしずにすんだ。
 カバーをしてぶら下げたままのスーツになんとなく視線を投げて、そういえばあいつは進路決まってるんだろうか、と思った。訊かなかったが、花見とか企画してる余裕があるなら卒業もその先も決まってるんだろう。
 大学卒業に辺り、社会人として携帯は持った方がいいものなのかと少し考える。いかにもめんどくさそうだあんな小さなもの。だいたい連絡を取りたいと思う奴なんていないだろう俺。今の時代持ってない奴の方が稀有だが、なくてもどうにかなる。家に電話はあるわけだし。
 電話。続けて思い出されるのは、今日家に電話をかけてきたあいつの声。そして自分が取った大げさともいえる行動。
「ちっ」
 舌打ちしてソファから立ち上がった。結んでない髪をぞんざいに払って、テレビもパソコンもない部屋でCDラジカセをオンにする。適当なラジオに合わせてあるスピーカーから適当な番組の流行の音楽が流れ出した。目の前の手の届く棚に教科書やノートや参考書が並び、机の上に放置されているのは花見の予定表。そして、封を破った、一度だけ目を通した白い封筒。
 あいつは今頃何を思っているだろう。何を思いながらこれを企画したんだろう。俺を誘った理由は深くはなくただ人を集めたかっただけなのか。それともこの封筒を届けるののついでなのか、この封筒がついでだったのか。
 一瞬でもこれがあいつからのものだと思った。
 なぜそんなことを思ったのか。全く持って馬鹿らしい勘違いだ。
 返事はどうしたのかと訊かれて、くれてやる返事もないと答えた。それは間違いじゃない。知らない相手に好意を伝えられたって俺には迷惑以外何者でもないのだから。
(だから、どうしてあいつのことばっかり考えてんだ俺は。阿呆か)
 視線を机から剥がして窓の外を見る。今日も変わらず夜が来る。そして明日が来る。明日は、あいつがここに来る。
 昼過ぎ、ピンポーンとチャイムが響き、適当な教科書の斜め読みをしていたところから顔を上げた。立ち上がって玄関まで行きがらりと戸を開けると、「こんにちわ神田」と笑ったの姿があった。「ああ。時間どおりだな」と返しつつ探しておいたスリッパをぱこんと並べた。
「ありがと」
「別に。借りてきた炊飯器ってのは」
「あ、自転車にくくりつけてあるの。私んちのと、友達の三人から、それに神田が協力してくれるから、なんとかなりそうじゃない?」
「そうだな。取ってくる」
「あ、私もっ」
「上がって休んでろ。お前が企画してんだから、他の確認とかすることあんだろ」
「う、ん。そうだね」
 困ったなと笑う相手から視線を逸らして家の前に止めてある自転車のところへ行った。荷台にダンボールをくくりつけて、その中に炊飯器が四つぎりぎりで入っている。これもそれなりに重かったろう。言えば運びに行ったものを。
 炊飯器を両手で二つずつを抱えて家に戻り、引き戸を閉めてサンダルを脱いで廊下に上がる。開けたままの襖の向こうでは、あいつがこたつ机の上にファイルからメモ用紙を取り出してせっせと並べ、携帯で連絡を入れて情報収集に当たっているところだった。予定通り進んでいるか、明日の準備は大丈夫かという確認だ。意外としっかりしてるんだよなと思いつつ炊飯器を並べておく。視線を上げてこっちを見たがありがとうと口ぱくで伝えてきた。俺は肩を竦めて返す。
 ぱかんと冷蔵庫を開け、昨日の夜コンビニでたまたま買った菓子を取り出した。桜のエクレアとかいう春限定のものらしい。俺は甘いものは大嫌いだから、これは俺が食べるんじゃない。
 盆の上にエクレアを置いてから茶の準備を始めた。急須と湯のみ二つ。やかんの湯が沸くまでの時間が長いと感じる。その間も音は途切れていないのに。
 視線を投げれば、あいつは携帯に耳を当ててさっきから会話を続けている。今は場所取りの確認らしい。
「本当? そう、ならいいんだ。場所取れたんだねラビ。夜寒いのにお疲れ様。アレンと交代で、無理しないように引き続きお願いね。うん、二人ともよろしく」
 ラビ。あのうるさいのまでいるのかとちょっと顔を顰めた。名前呼ぶなっつうのに会う度にユウユウ言いやがって、あいついつか殴る。それにあのひょろっこいモヤシとは根本から意見が違いすぎて気に食わない。が、それもこれが最後だというならまぁ我慢はしてやる。せっかくの企画を潰したくはない。
 通話を終えた彼女が「あ、やかん」と指摘するからかちんと火を消す。急須に茶葉を入れてから湯を注いで、盆を持ってこたつの前に腰を下ろした。特に何か食いたい気分でもないから俺は茶だけで、彼女の方にエクレアと茶の載った盆を押しやる。
「食っとけ」
「え? あ、ありがとう?」
 ずず、と茶をすする。きょとんとして瞬きを繰り返したがそろりとエクレアを見て、よく分からない顔をした。嬉しいのか、そうでないのか。まさか嫌いだったろうかと今更なことを思う。俺が甘いものが嫌いなんだから他に嫌いだって奴がいたって不思議じゃない。「好きじゃないか。それ」ぼそりとそう訊ねるとはっとした顔で「え、いや全然です。甘いもの好き、ありがとう」次には笑ってくれた。そのことにほっとする。…なんでほっとしてんだよ俺。
 ずず、と茶をすすって各担当の進行状況をメモしてある紙に視線を移した。ざっと目を通してみる。特にここが遅れてるとか予定通りいかなかった、ということはないらしい。
「桜味だって。春らしいね」
 エクレアの封を破ったが笑った。「そうだな」とぼやいてまた一つ茶をすする。
 こういうとき、テレビがないのは不便だ。適当な音と映像がない。かといってラジカセつけにいちいち立つのもめんどくさい。
 もぐ、とエクレアを頬張ったをなんとなく見つめる。まぁ理由は暇だから、だ。
「うまいか?」
「うん、おいしい。桜の味するよ。神田も食べる?」
「俺は甘いものは大嫌いだ」
「あ、そうなんだ。じゃあこれ私のために買っておいてくれたの?」
 首を傾げる姿にふんとそっぽを向いて机に頬杖をつく。「悪いか」とぼやくと沈黙が返ってきた。視線を投げてみると、はエクレアを見つめて神妙な顔をしている。なんだその顔。
 そこでヴーと机の上の携帯が震えた。電話らしい。慌てて通話を繋げたから視線を外す。
 なんとなく分かっている。お前がそんな顔ばかりしてる理由を。
 頬杖を崩して机にもたれかかる。俺は特にやるべきこともない。明日朝早くから散らし寿司をこいつと一緒に作る、それくらい。準備を今日中にすませて、全ては明日。

「じゃあ神田、今日はありがとう。明日朝早く来ちゃうけど大丈夫?」
「ああ」
「うん、じゃあ私も頑張って起きてくるから! 明日ねっ」
 夕方。ぶんぶんこっちに手を振ったが自転車に跨り、あっという間に遠ざかっていく。
 その姿を見えなくなるまでなんとなく見送ってから家に戻り、忘れないうちに目覚ましをセットしておいた。起床は五時。炊飯器は寝る前全部五合でセットしてタイマーにすれば問題ないだろう。他に準備するものは桶と、明日あいつがでかい重箱を持ってくると言ってたから、こっちはでかいタッパでも用意しとくか。
 めんどくせ、と思いつつ目覚ましをセット、こたつ机の上に放置したままの盆を片付けた。春限定と書かれたエクレアの空の袋をゴミ箱に入れようとして手が止まる。
『おいしかった、わざわざありがとう』
 エクレア一つであんなに笑うなんて、よっぽど甘いものが好きなんだな、あいつ。
 止まっていた手が空袋をゴミ箱に放って、急須と湯のみを洗い、盆を片付け、タッパを取り出して洗い、桶を取り出してまた洗う。冷たい水にばしゃばしゃ手を濡らしても特に何も感じない。暑いのは苛々するが寒いのはそう気にならない。
『ねぇ神田』
 頭の中に声がする。
 軽く頭を振れば長い髪が揺れた。それでも声は消えない。ねぇ神田、と呼ぶ声がする。昼間に聞いた声だ。さっきまでここにいた声だ。特別思い出すような出来事もないのに、どうして俺はあいつの笑った顔を浮かべてばかりいるんだろう。
 花見の誘いを受けた辺りから頭の中をあいつが占める割合が多くなってきた。それが鬱陶しい。それと同時に苦しい。そこに最後だからという言葉が割り込む。これで最後だから、絶対成功させたいんだ。そう言ってさみしそうに笑ったあいつの顔が、
(うぜぇ)
 そんなことを考える自分がうざったい。洗った桶をぞんざいに拭いて伏せておく。タッパも同じようにすぐ使える状態にして、そこから先はもうぴしゃりと思考を閉じ、早めの就寝のために晩飯の蕎麦を茹でることにする。
 閉じた思考。何も思わない。何も考えない。ひたすら事務的に授業を受けるように、蕎麦を茹でて、今日は柚子胡椒にするかと冷蔵庫を開ければ、ぎっしり詰まっている散らし寿司の食材が嫌でも目に入る。脇からチューブの柚子胡椒を引っぱり出してばんと扉を閉めた。こたつ机にどんと蕎麦を盛った器を置いて、つゆのもとの中に柚子胡椒を混ぜてずるずると食べ始める。
 ねぇ、と声がする。あいつが笑っている。少しさみしそうに、少しかなしそうに。
 これで最後だから。少し震えたその声が、頭の中にずっと響いて消えてくれない。
 これじゃあまるで、俺があいつのことしか考えられない、阿呆のようだ。