3.好

 朝五時に起床して、顔を洗って髪をまとめて、薄く化粧をして、昨日のうちに決めておいた服を着て、朝ごはんは食パン一枚適当なジャムをつけて頬張って、家から桶としゃもじと重箱を借りて、自転車に跨る。忘れ物がないかざっとチェックしてからまだ静かな住宅街の中を自転車で行く。
 眠いけど、気持ちは昂っていた。
 いよいよ今日だ。一ヶ月前から練っていたお花見会だ、成功させたい。きっとこれがみんなで馬鹿騒ぎできる最後の機会だから。
 早朝の街を自転車で突っ切って、十分ほどで神田の家に到着した。電気は点いている。神田は朝に強そうだ。私は眠いけど、今日は頑張るよ。
 ぷちっとチャイムのボタンを押す。ピンポーンと音が響いて、すぐに神田が引き戸を開けてくれた。ジーパンとパーカー姿だ。たったそれだけでも端整な神田には様になってるけど。
「おはよう」
「ああ。お早う」
 お邪魔しまーす、と言いつつ家に上がらせてもらう。時刻はここで六時過ぎだ。炊飯器をフル稼働させていっぱいご飯を炊いて、酢飯を作って、れんこんとかしいたけとかおかずで混ぜるものを作って、それにトッピングの準備もしなくっちゃ。
 さっそく並んでいる炊飯器のところへ行ったら、すでに五合いっぱいに炊き上がって保温状態になっていた。びっくりして振り返れば、神田は欠伸を噛み殺したところ。「なんだよ」「え、や。ありがとう、もう炊いてくれてたなんて思ってなくて」炊飯器を指せば彼がふんとそっぽを向く。「手際よくやらねぇと間に合わないだろ」とぼやかれて私は笑った。うん、そのとおりでございます。
 手順を書いてきた紙をぺたっと台所の扉にセロテープで貼りつける。よし、神田の言うとおり手際よくいこう私。
 私んちの桶と神田の用意してくれた桶を並べてお釜を全部引っくり返し、まずは酢飯を作る。神田がぱたぱたうちわでご飯を扇いでいたけど、数分したら交代になった。たくさんのご飯を引っくり返すのとうちわを扇ぐの、どっちが楽かなんて分かりきってるか。
 ぱたぱたうちわでご飯を扇ぐ。それからお米の残りも全部炊く。
 あまり混ぜるとご飯に粘りが出てしまうから、寿司酢がなくなった辺りでしゃもじは切り上げてもらった。ぱたぱた扇ぎつつ「今日天気どうなのかな」新聞を見るのを忘れてたからそう訊いてみると、神田が新聞を持ってきた。「代わる」「ありがとう」うちわを神田に手渡して、片手をぷらぷらさせつつ新聞を見てみる。ああよかった、晴れだ。天気だけは祈るしかないと思ってたから本当よかった。ありがとう神様。
 窓の向こうの空はだいぶ明るくなってきていて、青い色が見えた。
「今日天気いいって。よかったぁ」
「温度も上がるらしいな。これ余ったらどうすんだ、腐るぞ」
「大丈夫、百均で適当な使い捨てタッパ買ってきたから。好きな人が好きなだけ持ち帰って食べてくれればいいんだ。残ったら私家族にあげるし、大丈夫だよ」
「ふーん」
 ぱたぱたうちわを扇ぐ神田の髪が風に揺れている。ふわりふわりと。それをぼんやり見つめてから目をこすった。やっぱり眠い、か。でも幹事である私がサボっているわけにはいかない。七時になったことだし、みんなにお早うメールを入れて今日の再確認をしよう。集合時間より一時間くらい早く行って出席も取るつもりだし、時間はあんまりないんだ実は。
 携帯を開いてメールを打つ。件名はお早うございます、でいいか。一人一人送ってたらすごく大変になるから、まずは普通の文面を。ぶつぶつ考えながら打っていたら「それ便利か」とぼそりとした声が聞こえてぱちと瞬く。顔を上げると神田がこっちを見ていた。いつもの顰め面で。
 それ、って携帯のことだろうか。
「えっと、携帯?」
「ああ」
「そりゃあ便利だよ。メールと電話、いつでも繋がるようなものだし。人と連絡するのには事足りるっていうか。あとはネットもできるから、持ち運びパソコン掌サイズ、みたいな?」
「ふーん」
 訊いてきたわりに神田は関心なさそうだった。首を傾げつつメールの続きを打ってアドレスのところを編集。えっと、何人に送ればいいんだ。名簿を取り出してあいうえお順から一人一人追加しつつ、「神田は携帯持たないの? この先も」と訊いてみる。ぱたぱたうちわを扇ぐ音。「…考えてはいる」やがてぼそっと彼はそう言った。
 そうか、そうだよね。社会人になったら、連絡手段が家電だけじゃ緊急時の対応できないもんね。
 ようやく全員のアドレスを追加、抜け落ちてないことを確認してから送信する。ぱたんと携帯を閉じてこたつ机の上に置いて、「もういいんじゃないかな。おかずの準備しよう」ぱたりとうちわを扇ぐのをやめた神田が「ああ」とぼやいて冷蔵庫に向かった。一人暮らしなら料理はしないわけにはいかないだろうし、神田も包丁は握れるんだろう。だから分担してご飯に混ぜるおかずを作りにかかる。
 テレビのない部屋はとても静かだった。朝の喧騒も遠い。ここから見える向こうの方にCDラジカセっぽいものがあるけど、沈黙したままだ。神田はうるさいところは嫌いだろうし、それを思うとこの家、神田が住んでるんだなぁってしみじみする。

「うん?」
 ぼやくように呼ばれて生返事を返して、手元が疎かになっていたことに気付いてぶんぶん頭を振った。眠いのかも。いけない、しっかり私。
 れんこんとにんじんとしいたけを調味料で煮詰めてる間にトッピングを作る。卵といくらとえびに、少し残した飾り用のれんこんに三つ葉。どうだ、これをきれいにやればお雛様の散らし寿司みたいになる予定なんだぞ。しょせん散らし寿司、されど散らし寿司。担当になったからにはしっかりやってやる。
 ヴー、と携帯のバイブが音を立てたのはこれで何度目だろうか。
 その度に文面をチェックして手の止まる私に、神田は文句一つ言わない。
 おかしいね。いつもの神田なら、集中しろとか、今はこっちだろとか、言わないかな。言わないっけ。どうだっけ。
 そういえば私、いつもの、なんて言えるほど彼のことをよく知ってるわけじゃない。ただ印象が強いから、それが拒絶とか苛立ちとかから来るものでも、彼と接したことをよく憶えていたんだ。だから短い時間何度か会ってるだけでも彼の印象が私の中に強く残って、いつものとか、そんなふうに思ってしまうんだ。
 整った顔は顰め面か無表情。不機嫌そうな声。すらっとした立ち姿。長くて黒い髪。頭がいいし運動もできる優等生だけど、態度はよくない。でも彼はかっこいい。だからモテる。
 ぱたん、と携帯を閉じてポケットに捻じ込んだ。
 隣には神田がいる。よく考えなくても近い。肩が、触れ合いそうだ。
(おかしいね。なんでこんなに、どきどきしてるんだろう。私)
 九時前になって、散らし寿司は無事完成した。家から拝借してきた重箱三段にびっしり、それに探したら神田の家にも重箱があったからそっちにもびっしり。あとタッパにもちょっと。なくなるかなこれ、とちらと思ったけど深くは考えない。みんなが持ってくるのはあとからあげとかおつまみやおかずになるんだし、これはメインなんだし、男の子はいっぱい食べるから大丈夫。アレンとかきっとすごく食べるから大丈夫、なくなるって。
(よし、これを…持って運ぶ? 電車で行ける、のか? 私)
 ちょっと自信がなくて重箱一つを試しに持ってみる。ずしっとしてそれなりに重い。これ三つを持って歩いて移動、できるのか、私。こないだ神田に助けてもらってようやく材料が運べた辺り自信がない。
 そこでちゃりんと音がしてそっちに顔を向ける。鍵をくるくる回してる神田が「車で行けばいいだろ」と言うから瞬きした。「神田免許持ってるの?」「一応な」「へぇー、すごいね。私まだなのに」「お前、いつ取るつもりなんだよ」「え、うーん…お金もないしなぁ」苦笑いすると神田に呆れられた。だって本当なんだもん。
 ともあれ、これで持って運ぶという憂いはなくなったわけだ。神田に感謝。というかすっかりお世話になってる。私だけだったら少し、だいぶ、大変だったと思う。
「ありがとう神田。おかげで私、すごく助かってる」
 笑って言ったのに、彼は苦い顔をした。くるくる回していた鍵を握り込むとなぜだか明後日の方を向いてしまうからはてと首を捻る。なんか今の変だったかな。
 それから重箱とか荷物を持って、神田が車庫から出してきた黒い車の後部座席に積んで、私は助手席、彼は運転席で、しっかりシートベルトを締めて、お花見会の公園目指して出発した。
 なんだか緊張するな。友達の運転する車に乗るのって緊張するし、感動するし、色々考えるんだよね。私も免許取った方がいいのかな。でもお金がな。
 ちらりと横を窺うと、無表情でハンドルを握ってる神田がいる。
「ねぇ神田」
「あ? んだよ。運転に文句つけんなよ、普段乗らねぇんだから」
「うん、それはいいんだけどさ。そういえば進路とか決まってるのかなーと思って」
「俺か?」
「うん」
「まぁ一応な。お前こそどうなんだ」
「私も一応ね。無事に卒業して、春からは新しい環境。お互いそうなんだね」
「…ああ」
 無表情が顰め面に変わった。普段乗らないなら集中して運転したいかもしれない。だから私は口を噤んでシートに深く背中を預けて目を閉じる。
 ああ、やっぱり眠い。みんなからの返信には目を通したし、大丈夫。あとは出席を取ってみんなでぱーっと騒ぐだけだ。
 目を閉じた暗闇の視界には、何もなかった。
(なんか、それもさみしいね。私)

 うつらうつらしていたんだろう。とんと肩を叩かれて「おい」と呼ばれてはっとして目を開けると、神田が見えた。いつもの顰め面じゃなくて、不機嫌そうな顔でもなくて、無表情でもない。見たことのない顔をしていた。神田もこういう顔するんだなとかぼんやり思う。
「大丈夫かお前。そんなにねみぃなら出席ぐらい俺がやっとくぜ」
「や、大丈夫…ごめん、大丈夫。それやったらもう何もないみたいなもんだし、だから、やるよ。大丈夫」
 ごしごし目をこする。気付けば車はもう公園についていた。結局私は神田の運転中ほぼ寝てしまっていたということだ。なんかもったいないことしちゃったな。
 はぁと息を吐いた彼が私の頭をくしゃっと撫でる。「無理すんなよ」と。それに何度も瞬く。
 ねぇ、どうしてそんなに優しいの神田。いつも仏頂面で人のことなんて突き放して冷たい言葉でしか応答しないのに、どうしてそんなに優しいの。
 膨らむ気持ちを胸の奥に一生懸命押し込んで、どうにか笑って「うん」と返す。それで精一杯だった。逃げるように車を降りて、重箱を持ち上げる。でもふらついた。かなり重い。私の手から重箱を奪って両手にぶら下げた彼が「持ってく。どこだ」とすたすた歩いていく背中に慌てて肩掛け鞄を持って「待って待って」と追いかける。そんな簡単に、あんな重いもの。男の子ってやっぱり力があるんだな、細っこく見えても。
「アレンとラビがシート広げて場所取ってるはずだよ。えっと、あっち」
 桜の桃色が見える方向を指す。神田に追いついて歩きながら、春の香りを吸い込んでゆっくり深呼吸する。
 春だ。今まで特別春に思うことはなかったけれど、今はよく分かる。切ない卒業ソングとか、恋の歌とか、春の歌、その意味が。
 ちらりと視線を向ければ、無表情に歩いてる神田がいる。
(ねぇ神田。私…)
 ぎゅっと手を握って拳を作る。きつく拳を握る。痛みで自分を誤魔化すように。
 こんなこと思いたくなかったけど。気付きたくなかったけど。私、神田のこと。
 拳を解いて顔を上げる。「おーいー!」と大きく手を振っているのはラビだ。なんとなくほっとする。これ以上神田といたら、私、どうにかなりそう。だから大きく手を振り返す。走り出す。もつれる足で、それでも走って青いシートのところへ行く。
 これが最後だ。これで最後だ。だから、みんなの思い出に残るようなお花見会にするんだ。