4.愛

「リナリークッキーありがとう! 大変だったでしょ、これだけ焼くの」
「何言ってるの、の散らし寿司が一番大仕事よ。気にしないで」
「うん、ありがとう」
 声が飛び交う。出席名簿にチェックすると次々やって来る誰かの声が。最初こそ誰もいなかった青いシートは人で埋まって行き、それぞれが持ち寄ったジュースやら酒やらつまみやら菓子やらが並ぶ。あんだけの散らし寿司がなくなるのかと思ったが、この人の量なら問題なく完売しそうだ。
「ティキー、頼んだ紙コップとかは?」
「持ってきたぜ。ちゃんとシートごとに使えるよう分けてある」
「ありがとう、助かる」
ー、ボク飴がほしいなぁ。ちょっと買ってきていい?」
「ロード。ごめん、飴は用意してなかった…」
「いーよぉ。コンビにすぐそこだし、ちょっと行ってくるー」
「気をつけてね」
 ぱたぱた走っていく小さい奴が視界を横切った。目を閉じる。ざわざわ人込みの音がする。うるさい。そんな中でも声を拾っている。「これで、あとは、えっとー」名簿を睨みつけながらの独り言だろうと簡単に想像がつく声が。
「ようユウ! 意外さ、こういう場所にお前が来るなんて」
「名前で呼ぶんじゃねぇよ馴れ馴れしい」
「相変わらずだなぁ」
 じろりと睨み上げればラビの野郎がいた。へらっとした笑みを浮かべて許可なく目の前に座り込むと、声を潜めて「なぁところでさ」構わず言ってくるからとりあえず睨みつける。こっちに構わず「どっか疲れてね?」「あ? ああ…」気遣うようにを見たラビにちらりと視線をやる。はぁ、なるほど。そういうわけか。一番めんどくさい場所取りを買ったのもそういうわけか。なるほどな。
 胡坐をかいていたところから片膝を立てて顎を乗っけた。久しぶりに車なんて運転したし、俺だってそれなりに疲れてはいるし、眠い。どっちもあいつほどじゃないだろうが。
 こっちに顔を戻したラビが「そういや朝一緒に来てたな」「…邪推すんなよ。殴るぞ」「そりゃ勘弁」笑った相手が立ち上がる。「まぁいいや、ちょっと行ってくる」と訊いてもないことを言ってのもとへ行くラビを、俺は止めなかったし、見送るだけだった。名簿を睨んでいたがラビに声をかけられて顔を上げる。笑った顔。どことなく疲れの見える顔。それでもあいつは笑う。
 さっきはあの顔に対して気遣うことができたのに、今は苛々していた。
 笑いかけている相手がラビだからか。じゃあリナリーとかだったらいいわけか。
 自分が分からない。苛々したり心配してみたり、気紛れにころころ心が変わる。これはなんだ。
 から視線を剥がして腕時計に目をやれば、十時半ちょうど。
 ぱんと手を叩いたあいつが手でメガホンを作って「はい皆さーん、時間です! 遅れるって人もいるけど、無事集まってくれて感謝します! 役割分担もこなしてくれて本当にありがとうっ」ぺこっと頭を下げる姿とぱちぱちと起こる拍手。
 挨拶らしい挨拶はそれで終了して、あとはわいわいがやがやと思い思いの相手と会話しながらの食事になった。うるさい場所から立ち上がってスニーカーに足を突っ込んで歩いていけば、は額に手を当ててふうと息を吐いていた。
「おい」
「…神田。どうかした?」
 疲れた顔で笑うに思ったことは、さっきの苛々ではなく、心配の心だった。「もういいだろ、少し休めよ。顔色悪いぜ」「そう? そうかな。そっか…」近くの青いシートの端に座り込んだ彼女の隣に腰を下ろす。わいわいがやがやと人の声がうるさい。
「…やり遂げたじゃねぇか」
 だから、そう言ってみる。は小さく笑っただけだった。あんなにこれで最後だからと言ってたくせに、あまり喜んではいない。「遠足は、家に帰るまでが、でしょ。お花見も終わるまでが、だよ」「…屁理屈野郎め」ぼそっと言ったらは笑った。
 訪れる沈黙も、誰かの声で埋まっていく。
「せっかく作ったんだから、散らし寿司食べてきたら」
「お前がそんなんじゃな」
 ぼやくと、相手は微妙な顔をした。それから視線を一度逃がして、もう一回俺を見て、「ねぇ神田」と俺を呼ぶ。頭の中で何度も再生された声がする。「なんだよ」とぼやいて返しながら俺は考えている。どうすればこいつは休めるだろうか。終わるまで誰にもバトンタッチしないつもりなのか。ラビの野郎にでも押しつけてやろうか。どうせゴミの処理とか後始末とかそんなことが残るだけだろうから、それくらいなら俺がやっても。
「どうして、優しくするの」
「あ? 誰が」
「神田が。私に」
「…お前相当疲れてんじゃねぇか。俺は優しくなんてない」
「そう思ってたけど、違うよ。なんか優しいんだよ…私がそう感じるんだよ」
 膝を抱えて顔を埋めたが「それが、辛いんだよ」と漏らす。本気で参ったって声を出されると、言い返そうと思ってた言葉が出てこなくなった。
 優しくしてるつもりはなかった。お前がこれで最後だからと笑うから、俺はそれに応えていただけ。
 それに、優しくされて、なんで辛くなる。俺が普段突っぱねる方だからか。
 迷った。視線が惑う。その視界をひらりと桃色の花弁が舞い、彼女の手の甲に上手いこと落ちる。
 それに導かれるように小さい手に触れた。
 今までの自分を思い出す。らしくないことを色々した。電話をかけてきた彼女のところまで全力で走っていったり、散らし寿司作りを手伝ったり、長く運転していなかった車でハンドルを握ったり。らしくないことを色々した。
 その理由は。

「、」
 呼んだことのなかった名前で呼ぶと、驚いたように顔を上げた彼女。触れていただけのその手を少し握ってみる。小さい手だ。女の手ってのは小さいもんなのか。そんなことさえ知らない俺はただ壊れ物を扱うように彼女の手を取る。
 ああ、傷つけたくないんだ。だから、優しくしたいんだ。
 それはつまりどういうことなのか。なんとなく分かっている。

「俺のこと嫌いか」
「嫌いなわけない。そしたらお花見なんて誘わないよ」
「だろうな。じゃああのラブレター、まだ気にしてるか」
「…だって返事しないんでしょう?」
「ああ。俺の視野は狭いから、一人想ってるだけで手一杯だ」
「……神田、恋、してるんだ」
「そうだな。そうなる」
「…そっか。私、フられちゃったか」
「馬鹿かお前」
「な、馬鹿じゃないもんっ」
「…いや、馬鹿だな。俺がここまでしてんのになんで気付かねぇんだよお前は」

 小さい手を握ると震えたのが分かった。俯いた横顔が「はっきり言ってよ」と呟く。
 ああそうか、じゃあはっきり言ってやるよ。もう二度と俺から顔を逸らせないように。
「お前を愛してる」
 震えている手がぎゅっと俺の手を握り返した。あはと掠れた声で笑ってこっちを見た彼女は泣いていて、「愛って、大げさ。らしくない。全然神田っぽくないよ」と泣きながら笑う。疲れたようによりかかってきた身体を支えて「うるせぇそこはつっこむな」とぼやく。
 腕の中に、人の体温がある。
 ひゅーとはやし立てるような口笛にじろりと視線をやるとすごすご引っ込む頭が何人か。それでもここに大勢人がいることに変わりはないわけであり、むしろ野次馬その他大勢の視線はこっちの状況に気付いて群がるばかりだった。イラっとする。やっぱり基本こうなんだな俺は。
「てめぇら人のことじろじろ見てんじゃねぇよ、殴るぞっ!」
 うへっと首を竦めたラビがぱんぱん手を叩いて「はいはいみんな戻る、オレらはオレらで盛り上がろうぜ! ユウちゃんから詳しい話をあとで披露してもらうとしてさ」「ユウって言うんじゃねぇよ殺すぞ」「はいはいはい」気にしてないはずはないが、ラビの野郎はあくまでへらへらした笑いを浮かべて場を仕切った。
 ちらりと彼女に視線を落とせば、眠っていた。やっぱり疲れてたんだろう。
 誰かのことを守りたいなんて思ったことはなかった。大切にしようだなんて思える奴には出会ってこなかった。そういう関係も持たなかった。大事なものなんて何も持っていなかった。それが俺だった。
 でも今は、彼女ことを守りたいと、そう思う。
 どうすればいいのかはよく分からない。傷つけてしまうかもしれない。泣かせるかもしれない。苦しめてしまうかもしれない。
 だから、それ以上に幸せにしようと、そう思う。
(…馬鹿っぽいな。俺も)
 ざわざわした喧騒の中眠っている彼女を抱き止めながら目を閉じる。
 うるさい人込みはやっぱり好きじゃないが、今は、そう悪い気はしない。