「……はー」
 我ながら深い溜息を吐いて、誰も通らない廊下に座り込んで五分。十分。十五分。そろそろ戻らないとならないだろ、と重い腰を上げて立ち上がり、雨の音を聞きながら窓ガラス窓の外へと視線を投げた。曇天に空の泣き顔。今の俺の心境を表すならこれが近いのかもしれないな。
 らしくもないと頭を振ったとき、カラカラ、と微かな音が耳に届いた。はっとして顔を上げる。目の前の病室の扉を開け放つと雨の湿り気と冷たさを含んだ風が頬を撫でた。病室の窓が開いている。開けたのは、身体はいたって健康体のあいつだ。「っ」と若干強い声で呼ぶと窓の外を眺めていた顔がきょとんとこちらを振り返る。つかつか歩いて行ってピシャンと窓を閉めてしっかりと施錠した。は相変わらずきょとんとした顔のままで、俺から窓を打つ雨へと視線を移すと、ふわふわと手を伸ばして窓に触れた。…雨が、気になるのか。
 仕方なく鍵を外して腕が出せる分だけ開けてやる。病院着の袖が窓の外へと伸びて、ポツポツと肌に落ちる雨雫に、その恵みを受ける草木のようにその表情が穏やかになる。
 レベル3のアクマに遭遇してヤられたと聞いて急いで駆けつければ、彼女は怪我の一つもなく病室のベッドでぼんやりしていた。なんだ、誤報か、とほっとしたのも束の間の話。と呼べば反応はするが、こちらが何を言っても通じない。呼ばれたことは分かるがそれだけ。の頭はアクマの能力に侵され人として使い物にならなくなっていた。
 人というより動物、犬猫に近い状態になってしまったは、それでも適合者で、女の形をしていて、どうしようもなく人間だった。
 イノセンスがを見放せばよかった。そうしたらまだここまで面倒なことにはならなかった。イノセンスがなおもと共にあることを望むからこうなった。彼女のイノセンスのタイプが寄生型であることも大きく手伝ったのかもしれない。だが、イノセンスが離れなかったから、彼女はこうなった。

 たとえ犬猫並みの知能しか残っていなくとも、飼い馴らせば、まだ神の使徒として機能する

 上の連中が考えることなんてみんなクソだ。クソ以下だ。人間を人体実験の道具にすることもできれば動物として飼い慣らすことさえ命じる。頭が腐ってんじゃねぇのか。俺の経験と彼女の立場が自然と重なる。
 そのことに苛々しながら「もういいだろ、身体が冷える」とぼやいてもには伝わらない。放っておけばいつまでも雨に当たっていそうな彼女の腕を掴んで戻し、ピシャンと窓を閉めた。きょとんとした顔でこっちを見ていたは、しっかりと鍵をかけてカーテンを閉ざした窓へとぼんやりした視線を投げて、心持ち残念そうな顔をしていた。
「いいか。ここは飯を食う場所だ。で、ここで注文する。…おい聞けよ」
 ざわざわと毎度人で賑わっている食堂に連れて行くと、はきょろきょろと辺りを見回した。そこら中に食べ物があるここで動物的な脳が冷静であるはずがないとは思っていたが、ついこの間任務に出るまで知り合いだった女がシチューを見て涎なんか垂らせば俺だって溜息くらいこぼれる。
 離れそうになる襟を掴んで捕獲し、頭を掴んでぐりっと顔をカウンターに向けさせる。じたばたするに「それがメニューだ」と言ったところで分かるはずもないが、一応確認のためだった。やはり通じていないらしくばたばたと暴れられる。本当に動物になったなお前、せめて涎はよせ。
「あら神田ちゃん」
「ジェリー、何でもいいから食いもんよこせ。暴れてしょうがない」
 俺の手から逃れようとしているを見てジェリーは顔色を曇らせた。「話には聞いてたけど…ちゃん?」名前を呼ばれたことではぱっと顔を上げた。じーっとジェリーを見つめるが、それも三秒で終わり、今度はカウンターの向こうの調理臭にくんくんと鼻を鳴らす始末。完全に動物だ。そんな状態のを指して「何でもいいからよこせ」と二回目になることを言うと、ジェリーは適当なパンとチーズとハムを持ってきた。の手に渡る前に皿を取り上げると、食べ物を追いかけてがぴょんとジャンプする。食べ物に気を取られてる間はもう逃げないだろ、と襟を捕まえていた手を離して「さんきゅジェリー」と片手を挙げてから適当な席を探す。
 カウンターに近い席から人で埋まる。そして、動物状態ののことを考えるなら、周りに人がいない場所の方が望ましい。
 結局一番端まで行ってどかっと椅子に腰掛ける。小さいテーブルに皿を置けばさっそく手を伸ばしたが立ったままパンを口に突っ込むから、ち、と舌打ちして立ち上がって細い肩を掴み、どさ、と椅子に無理矢理座らせる。動物的なアレなのか、すぐ立ち上がろうとする肩を押さえ続け、パンとチーズとハムを平らげるまでを見守った。
 パン屑とチーズとハムで汚れた手を舐める姿は本当に動物じみていて、ああ、あいつはここにいないんだな、という現実を突きつけてくる。
 寄生型のイノセンスで戦うエクソシスト。触れたものを何でも分解し、自身と一体化させることで、何もない手に剣を握り、地面を反り立たせて壁とし、鋼鉄に穴を開け、水の上を歩く、森羅万象を味方にすることができると、まさに神だと囃し立てられた彼女はもういない。教団の重圧を引き受けそれでも笑って立っていた彼女はもういない。

 私、そろそろ、休みたいな。歩き続けることに疲れたの…

 ある夜、そうこぼして笑った彼女はすぐに自分の言葉を訂正した。ごめんね、なんでもない、忘れて、と。俺が何か言うよりも早くにそうこぼして目を閉じ、眠った。俺は弱音を吐いたに対して何も言えず、何も言葉が思いつかず、その左手の甲に生々しく浮かび上がっている十字架を一つ撫でた。それだけだった。
 …あるいは、彼女自身が壊れることを望んだのかもしれない。休みたくて仕方がなかったのかもしれない。壊れれば楽になれる。そう思ってあえてアクマの攻撃を受けたのかもしれない。
 だが、その心が壊れても、頭が壊れても、イノセンスを宿した身体は壊れず、動物の本能だけが残った。
 結果、まだ生きている。彼女の形を残して。たとえその人格を無くしても、生きている。
「…だから、涎はよせ」
 べろん、と自分の掌を舐めた手を掴む。ナプキンを押し当て、手も口も拭った。きょとんとした顔で俺を見上げているのままだ。形だけは。すでに中身はない。俺の知っているは壊れて死んだのだ。それなのにここに彼女の名残がある。確かに彼女の形で、その力を引き継ぎ、ここに。
 ぐっと手首を握って「行くぞ」と手を引っぱる。
 食堂という食べ物のある場所に後ろ髪を引かれるように何度も振り返る
 俺はこいつの教育係を押しつけられた。コムイの判断だ。他の誰かに飼い慣らされるくらいなら君がそうしなさいと言われた。異論はなかった。だから引き受けた。他の誰かがと呼んで犬のように反応するこいつが、犬のように誰かに懐き、人の形を保っているがために邪なことをされるとも限らなかったから。
 果たして自分はそうではないと言い切れるのか。俺は。
「いいか、今からお前のイノセンスを診てもらう。…聞けよ」
 やはり俺の話など聞いていない彼女はきょろきょろしているだけ。まるで知らない新しい場所に来たかのように忙しなく周囲を観察している。
 はぁ、と一つ息を吐いてポケットから飴玉を取り出すと、鼻が利くとでもいうのか、ぱっとこっちを振り返った彼女の細い手が伸びた。当然届かないように手を上にやる。ぴょん、とジャンプして俺から飴玉を奪おうとしているに「いいか。大人しくしてたらやる」…やっぱり分からないのか、大人しくなる気配はない。
 はー、と深い息を吐いて飴玉をポケットに突っ込む。飴玉が気になるのか、ちらちらコートのポケットを気にするを引っぱって科学班のフロアへと足を向ける。
(こんな動物状態でアクマ相手に使い物になるのか…)
 ねぇ知ってる? ラビってね、新入りくん
 は? 知らねぇよ。昨日まで任務だったんぞ俺は
 そうだったね。うふふ、あのね、ラビは神田と同い年だって。よかったね
 何が。うぜぇだけだろ
 あーあーまたそういうこと言う。だから教団内で孤立しちゃうのよ
 …別に。どうだっていいし。……あと、孤立してねぇし
 え? あ、それって私のこと? ねぇ私?
 けっ
 あーもー素直じゃないっ。まぁ、それが神田なんだけどね
 くすくすと笑う声が聞こえた気がしてはっとして顔を上げる。逃れようと暴れるため器具に固定されたが左手の甲の十字架をいじられて笑っていた。あれがあいつのイノセンスなのだ。
 ああ、なんて憎らしい。
 あの笑った顔。あいつとそっくり同じじゃないか。
 もう俺の知っているはいないのに、あそこにいるのは動物的な思考能力しかないの形をした違う生き物なのに。そんなにそっくりの笑顔を見せられたら、俺が、ブレるじゃないか。
 はー、と深い息を吐いて、ソファで寝ついたから離れる。時刻は二十二時半すぎ。
 あまりに動物的すぎて何をするか分からないから、衣食住の管理から日常生活、果てはアクマの戦闘まで、俺は幅広くこいつの面倒を見なければならない。一緒に行動して同じことができるようにと教え込まなくては。
 ごち、と壁に頭を預けて、はぁ、と吐息する。適当にシャワーを浴びてすませ、濡れた髪をタオルでぞんざいに拭いながら部屋に戻る。は眠ったままだった。
 …こんなに誰かと一緒にいたのは初めてだな。いや、久しぶり、と言った方が正しいのか。疲れた。買った犬の世話でもしてる気分だ。図体はでかいしおまけに人で女型だが。
「………
 遠目で寝ていると確認してからぼそっと呼んでみた。起きるわけがないと思ったのだ。だが、予想に反して動物的な彼女はぱちっと目を覚ました。じいっとまっすぐに見つめられて、視線が泳ぐ。起こしたのは俺だが別に何がどうって何かがあるわけじゃなく。あーくそ、なんで俺がこんなぐるぐるしないとならないんだ。
 のそりと起き上がったがくあーと大口で欠伸をこぼした姿に思考ががくんと落ちた。何か、脱力した。
 俺の知ってるあいつはもういないんだ。もういない。想い出の中にしか。
 寝起きのせいかふらふらっとした動作で寄ってきたが俺の手をぎゅっと握る。「…なんだよ」ぼやいたところで言葉は通じない。ただ手を握られて、あいつと全く同じ体温で、同じ種類の笑顔を向けられて、唇を強く噛む。変わらない大きさの手。掌。指の形。体温。ここにの心はない。それでもの形がある。この矛盾感に俺は何を言えばいい。
 手を引かれてソファまで導かれ、また寝ようとする彼女の手を引いて止めた。不思議そうにこっちを振り返る顔。同じ形、同じ温度、何もかもが同じ全て。ただ中身だけが違う。それが最大で最悪の矛盾。
 ソファは狭いだろ、とベッドの方へ連れて行き、ほら上がれと背中を押した。広い場所は落ち着かないとでも言うのか、どことなく不満そうな顔をしたがのそのそとベッドに上がって奥へいった。続けてベッドに上がれば二人分の体重にギシギシと軋んだ音が鳴る。
 ころんとベッドに転がったは無防備だった。眠そうに欠伸をして布団をかける俺にまどろんだ目を向けてくる。
 …あのとき。お前が吐いた弱い言葉に、何も返さないことを選んだ俺は、やはり、薄情だったんだろう。
 お前は俺を怨んでいるだろうか。
「なぁ。いつかのアレ。俺にどんな言葉を期待してた?」
 ぼそっとこぼした俺に彼女は瞼を押し上げ、首を傾げた。何を言われているのか分からないのだろう。それでもいいと自己満足に言葉を紡ぐ。あのとき言えなかった言葉を。
「今頃遅ぇけど…。休みたいなら、俺が代わりに斬ってやる。レベル3だろうが関係ねぇ。全部斬って、お前が斬らなくていいように、してやるよ」
(もう遅ぇけど。こんなこと言ってもお前にはもう通じねぇけど)
 あの夜、弱音をこぼしたお前にこう言えていたら、今頃、こんな未来にはなっていなかったんじゃないのか。
 細い肩を掴んで額を押しつけた。…後悔が胸を埋めていた。
 エクソシストとして戦場に立つやるせなさ、斬っても斬っても溢れてくるアクマに対する絶望感、諦観、それでも戦うために立つということ。同じ場所に立ち十字架を背負う者として力を振るっていた俺達は、同じ場所に立ちながらも、ずっと、背中合わせのままだった。最後まで。いつか振り返って大丈夫かと声をかけようと思っていた。ふと背中にあった体温を感じなくなってようやく振り返った頃にはもう遅い。彼女はそこにいなくて、もう、俺の届かないところへいってしまった。
 今のには俺の行動がどう映ったのかは分からない。ただ、慰められるように、ぽん、ぽんと背中を叩く掌がある。
 同じ形。同じ体温。穏やかでいて諦めたように落ち着き払って笑っていたあいつはもういない。ここにいるのは動物並みの本能しか残っていないだ。と呼ぶことさえ憚られるほどに変わってしまった彼女だ。
 それでもと呼ぶのは、と呼べば応じるからだ。自分は間違いなくだと動物の思考が判断するのだ。それが呼ばれる名だと知っている。だから、彼女は、なんだ。間違いなく彼女だったんだ。そう、間違いなく。
…」
 呼べば小さく反応が返ってくる。こいつはなのだ。間違いなく、彼女だった、人だった、生き物。
 もう何も届かない。それを思い知らされる。
 彼女はアクマと相打った。敵討ちや弔い合戦なんて洒落たことだってできやしない。
 死んだ、お前に。その心に。精神に。魂に。俺は何をすることができるだろう。
 布団を掴んで引き上げ、自分とを覆って「寝よう」と声をかける。は何も言わない。言葉が分からない動物のように何も口にせず、俺の背中を宥め続けた。
 ふと気がついた頃にはいくらか時間が過ぎていて、気を失うように眠っていたようだ、と視界を邪魔する髪に手をやってかき上げ、気付く。
 が眠っていた。すぴすぴと平和な寝息で、俺が知っている寝顔よりもずっと穏やかなもので、健やかそうに、眠っていた。
 そっと手を伸ばしかけ、やめた。名前をぼやいたくらいで起きるんだ、触れたら間違いなく起きるだろう。この寝顔を壊したくはない。
 それにしても馬鹿みたいな寝顔だ。そう、ガキみたいだ。口は開いてるし、涎はよせよと言いたい。
 ふっと笑いがこぼれた。手の甲を押しつけて黙らせる。は起きなかった。むにゃ、と寝言っぽく何かこぼしただけだ。
(……この方がお前にとってしあわせな結末だったっていうんなら)
 手を伸ばす。何も変わらない髪を指でつまんだ。さらさらとこぼれて落ちる。
 阿呆みたいな寝顔を眺めて、丸くなって眠るをぼうっと眺めた。

 この方がお前にとってしあわせな結末だったというのなら。俺は、それを、受け入れる。
 俺が言葉を惜しんだから、お前に何も言わなかったからこうなったんだと言うんなら、受け入れる。受け止める。その通りだ。事実なんだ。振り返るのが遅すぎた。消えてから気がついた。お前が本当に苦しんでいたんだってことに。だから、これがお前が楽になる選択なのなら、現実なのなら、それがどれだけ俺の心を抉ろうと、受け止める。
 苦しもう。お前が苦しんだ分まで。
 惜しもう。お前を喪ったことを。いつまでも。

「…なんだ。起きたのか」
 さらり、と指から髪がこぼれ落ちたところでが薄目を開けた。ぼやっとした顔でこっちを見て、細い指が俺の髪をつまんで引っぱる。寝ろ、とばかりに。
 ああそうかよとベッドに転がると、満足したのか、は小さく丸くなるようにして目を閉じた。
 これだけ醒めた思考ではもう眠れないだろうが、と思いつつ、健やかで安らかな寝顔を眺めてから目を閉じる。
 考えなければならないことは山とある。いつまでも思考を止めてはいられないだろう。がイノセンスを宿している身である以上戦闘も避けられない。動物的な思考がアクマに対しどう行動するのかということも確かめなければならないし、あいつが戦えるように俺がサポートしなければならないし。やることは死ぬほどある。
(だが、今は。せめて。悼もう)
 目頭が熱くなった気がしたが努めて無視し、枕に顔を押しつける。強く拳を握って掌に爪を食い込ませ、痛みで目頭の熱さを誤魔化す。
 …今はせめて悼もう。人知れず壊れて消えた、あいつの魂を。

懺悔室からあなたへ