光が強ければ強いほどその影は濃くなる、とは、よく言ったものだ。得てしてそれはとても当たっているし、私自身もそれを実感している。 貴族や皇族、上の方の地位の高い人が力を振るうほど、下民の日常は厳しく、ときに荒みさえする。 貴族のお屋敷のメイドという仕事を与えてもらっている私には、上の人がどれだけ馬鹿かということが身に沁みていた。 こっちは毎日の生活で手いっぱいだっていうのに、新しい魔道器が欲しいだの、今年のファッションの流行はどうだこうだと、私には一生縁のない話をずっと続けているのだ。本当に、呆れてしまう。働くことの一つもしないで新しい魔道器を手にして贅沢な食事を毎日のように食べ、ファッションがどうこうとのん気な会話をする無能人が目の前にいるのに、どうして私はそんな無能のために汗水流して心身削って働いているのか、と毎夜腹が立つ。 答えは分かってる。私にはお金も地位も何もない。下町に生まれて下町で育った庶民だ。 あの人達は貴族に生まれて貴族として育ったお金も地位もある人達。 生まれが、こんなにも全てを決したんだ。こんなにも全てを。 はぁ、と溜息を吐いて部屋を抜け出す。 今日も今日とでくだらない話を延々と聞かされて、疲れたな。 でも、女で食べていけるだけの仕事なんて限られてる。貴族のお屋敷のメイドという仕事にありつけただけでも私はまだいい方なのだ。 だからこれは我慢しなくちゃいけないこと。…分かってる。 (でもさ。こんなこと、いつまで続けるの? 私) 帯刀している剣の柄を撫でる。自分を落ち着かせるために。 フレンとユーリ、幼馴染の二人が揃って始めた剣を、遅れて私も始めた。一番の理由は護身のため。二番の理由は、二人と同じことがしたいと思ったから。 今日も恵の水を噴出す噴水の前を横切り、緩い下り坂を下りて、眠そうにうとうとしている騎士が立っている小さな門を抜けた。すぐそこは外で、結界の力に阻まれて魔物の姿は見えない。 少し行ったところで鞘から剣を抜き放つと、キン、といい音がした。 剣を振ろう。嫌なことはそれで忘れよう。もう十分身体は疲れているけど、もっと疲れれば、きっと眠れるから。 そうやって今日も一人自己満足に剣を振るい、魔物は倒せなくても、自己防衛には十分かななんて少しさっぱりした気持ちで門をくぐったところで、見知った姿に遭遇した。 長い黒髪。貫禄ある隻眼の犬を伴った姿は。 「ユーリ?」 「よお。こんな時間まで何してんだ」 片手を挙げられて片手を挙げて返し、「何って…まぁ」ごにょごにょ語尾がはっきりしない。帯刀している剣を何となく隠すように背中側に回すけど、ユーリには分かっているのだろう。「あんまし無理すんなよ」と言う彼に、私は曖昧に笑う。 「ユーリこそ、こんな遅くまで何してるの」 「ま、ちょっとな」 肩を竦めてみせた彼は、どうやら答えてはくれないらしい。なんだ、としゃがみ込み、「ラピード」とユーリの犬に手を伸ばした。ちょん、と鼻先に指を当てるとふんふんと鼻を鳴らしたラピードがぷいっとそっぽを向く。相変わらず愛想がないなぁラピードは。 良識のあるラピードは突然吠えたり噛んだりなんてことはしない。愛想はないけど、その辺の犬猫よりずっと大人で、知識があるのだ。 じっとラピードを見ていると、ちらりとこっちを窺うラピードの隻眼と目が合った。けど、すぐに逸らされてしまう。なんだかなぁ。 ユーリが道端にしゃがみ込んで、水路のある方に足を投げ出して座った。ラピードが倣うように隣にお座りするから、何となく、ラピードを挟んで同じように座ってみた。…何してるんだ私。明日も仕事はあるのに。 水路の水の音を聞きながら目を閉じて、剣の柄を無意味に撫でる。 「ユーリはさ」 「うん?」 「剣、上手だったよね」 「そうか? ふつーだと思うけどな」 「下町の中じゃ一番だよ、きっと」 「フレンがいるだろ。それにソレ、アイツが持ってたヤツだ」 ぼそっと言われて、さっきから片腕で抱き締めたままの剣の指南書を見てみた。使い込まれているのにこの本がきれいだと感じる辺り、フレンの性格がよく分かる。「でもフレンは騎士団の人だから…」とこぼすとユーリは「関係ねぇよ」とぼやいて黙ってしまったので、私も黙った。 (関係ない…。そうかな) フレンは下町出身でありながら騎士団に入って、今は小隊長にまで上り詰めた。フレンはすごい。頑張ってる。同じ頑張ってるなのに、私とは全然違う。 この本だって、私が一人で練習してるのを見かねて貸してくれたのだ。本当は一緒に付き合える時間があればいいのだけど、とこぼした彼は、昔と変わってない。それは分かってる。 でも。遠い人になってしまった。…ずっとそんな気がしている。 これは、私の勝手だ。 確かに物理的に彼との距離は伸びた。それは離れていると言っていい遠さだ。同じ帝都という街の中にいたとしても、彼の部屋はもうお城の中にある。彼の帰るところはお城。私は相変わらず下町の小さな一部屋。 ほら、なんて遠い。 は、と息をこぼして小さく笑ったとき、ユーリの手が私の手から本をかっさらった。え、と疑問に思う暇なく彼はぶんと腕を振るって、あろうことか本を水路へと投げ捨てたのだ。 バシャン、と絶望的な水音が聞こえてから「わー本っ、フレンの本っ!」と悲鳴を上げて手を伸ばす。当然届かない。どうしよう、飛び込まないと届かない。フレンに借りた本なのに、どんどん沈んでいく。どうしよう。 きっとユーリを睨むと彼はどこ吹く風という顔で口笛なんか吹いていた。ぶるぶると腕が震える。な、なんてことしてくれたんだユーリの馬鹿! 「ちょっとユーリ、何してくれるの! あれフレンに借りた本なのにっ」 「アイツ、あの本お前にやるって言ったんじゃねぇの」 「はぁ? 違うわよ借りただけ。くれたんだとしても、まだ残り三分の一はあったのに…!」 もう水の中に沈んでしまった本を探して水路の黒い水面に視線を彷徨わせる。 今から飛び込んで本が無事かどうか。びしょびしょで、乾かしたとしてもページとかくっついちゃってて、もう読めないかも。 …フレン、怒るかなぁ。それとも笑うかなぁ。そもそもこれ、くれたんだっけ。どうなんだっけ。 あのとき、私が一人で練習してたところにフレンが見回りでたまたまやって来て、本当は一緒に付き合える時間があればいいのだけど、ごめん、と言って、この本を手渡してくれた。気がする。…あれ。貸すともあげるとも言ってないような。もしくれてたんだとしたら、フレンには怒られないけど、よっぽど悪いことをしてしまった。それもこれもユーリの馬鹿のせいだ。 いつの間にかラピードがいなくなっていた一人分の空間を詰めてユーリの髪を引っぱった。「いて、おい髪引っぱんな」「うっさい。ねぇ本どうしてくれるの。私の稽古の友だったんだよ?」ぐいぐい髪を引っぱる手をユーリの手が掴む。その温度に、長いこと触れていなかった。昔は手には手をで遊びあった頃の思い出が走馬灯のように次々に頭の中を巡って、なんだか急に切なくなった。 私何してるんだろう。単身貴族の屋敷に飛び込んで働いて、疲れ切った心と身体を剣で気を紛らわせて、一体、何したいんだろう。いつまで続けるんだろうこんな暮らし。私、いつまで。 ぐす、と鼻を鳴らすとユーリがぎょっとした顔をした。「お、おい、何も泣くこと」と慌てるその顔が少し子供っぽくて、それにちょっとだけ笑う。 あの頃が懐かしい。世界のルールも世間の悪意もまだ何も知らなかったあの頃がとても懐かしい。 あんなふうにいつまでも無知で笑っていられたらどんなによかったろうと思うのに。生きるっていうのは本当、残酷だ。 参った降参だ、と両手を挙げたユーリが「分かったよ分かった。じゃあこうしようぜ。その稽古の友、俺がなってやる」「…え?」「俺の我流でよければ、だけどな」どうする? と首を捻った彼をぽかんと眺めて、こくんと頷いた。「よし、決まりだ」と笑うユーリを眺めて、ユーリが本を捨ててみせたのは、もしかして、なんて甘いことを考える自分の乙女思考を、少しだけ信じてみたくなる。 ユーリがフレンがくれた本を取り上げて捨ててしまったのは、もしかしたら嫉妬なのかも、なんて。21にもなって甘い乙女の妄想繰り広げて、私の頭、ほんと。馬鹿みたい。私、馬鹿みたい。 |