02.鼓動、それから思考

 本日も庶民らしくせかせかと働いているところへ、暇人である貴族の一人息子がやって来た。ああ忙しい忙しいという空気を全身から出しているにも関わらず「やぁ。ちょっと手を止めてくれないか」とか言ってくる馬鹿にぴきっと頬が引きつったけど、ここは我慢だ、と笑顔を浮かべて「はい。何か」と応じる私、偉い。
 特に何をするでもなくこのお屋敷の敷地内を出ない一人息子は、自慢げな顔で着ているシャツを示した。「どうかな、新調してみたんだ」と皺一つない白いシャツで胸を張る姿をじっと観察して「ボタンを替えられたんですね」と言うと彼の顔はぱあっと輝いた。「ああ分かるか!? さすが! 他のメイドはちっとも気がつかないんだよ。さすが僕が見込んだだけの人だ」と無遠慮に肩を抱かれて引きつりそうになる笑顔で愛想笑いする。
 これも仕事のうち。対して汚れても傷んでもない服をとっかえひっかえするこの馬鹿者に付き合うのも私の仕事のうち。軽いセクハラも仕事のうち。そう、仕事のうちだ。
 だから、我慢だ。無駄に香水くさいこの男のセクハラに耐えることくらいしてみせるとも。
 それから三十分に亘り延々とシャツのボタンについての話を聞かされ、ぐったりしながら昼食の時間に入った。
 このお屋敷に勤めていていいことは、他より少しは給金がいいことと、賄い料理がおいしいことだ。所詮貴族の人のお残りかもしれないけど、それでもありがたい。やわらかいパンに一品の料理を食べるこの時間だけが、ここで働いててよかったなと思える瞬間だった。
 私の勤務時間は朝から夕方まで。今日も仕事をこなしてへろへろになりながら市民街の広場を横切り、下町へと続く坂道を下りて小さな部屋に帰宅した。
 どさっとベッドに転がって天井を見上げ、目を閉じる。
 ああ疲れた。もう動きたくないな。今日は馬鹿息子に捕まったせいで余計に疲れた。
 でも、夜はユーリが剣の稽古をしてくれる。あの時間が私の一日で一番楽しみな時間だ。それをなしにはしたくない。
 でも。疲れたな。ちょっとだけ、眠ろうかな。
 そうやってうとうとして、どうやら気を失ったらしい。カリカリとドアを引っかくような音で目を覚ました私は、視線をずらして窓の外を見た。
(月が…。って、もう夜)
 がばっと起き上がってぶんぶん頭を振って、剣を持ってドアの施錠を解いて開ける。外にはラピードがいて、「ワン!」と一つ吠えた。ゆらゆら揺れる長い尻尾が遅いぞ、と言ってるようだった。
「ごめんラピード、寝ちゃってた。ユーリは?」
 街の外に顔を向けたラピードが歩き出す。施錠して慌ててついていく。最初は歩いてたラピードが走り出すから、負けないように走って行ったら、途中で転んだ。ずべっと見事な転びっぷりを披露したと自分でも思った。
 いったー。胸からいくとかどんだけ痛いの私。坂道の馬鹿。舗装されてない地面の馬鹿。貴族街の恵まれた敷地に足が慣れすぎたんだろうか。
 ふんふんと鼻を鳴らす音に視線を上げると、ラピードの鼻先が目の前にあった。「…転んじゃったよラピード」「ワフ」「笑う?」「ワウ?」首を捻ったラピードに笑う。ラピードは笑えないか。犬だもんね。くだらないことやってないでユーリのとこ行かないと、きっと待ってる。
 よいしょと起き上がって、もう走らないラピードのあとについて門を抜けると、一人で剣を振り回してるユーリを見つけた。こっちに気がつくと「おっせーぞ」と声を上げる彼に「ごめん」と返して剣を抜いた。時間が惜しい。一時間もすれば私はまた明日のために備えなければならない。さっそく始めよう。
「あん? お前、頬どうした。切れてる」
「あー。さっき派手に転んで…ね、ラピード」
 あはは、と笑うとラピードが「ワフゥ」と鳴く。左手で剣をくるりと回したユーリが呆れた顔をした。「お前なぁ、ガキじゃねぇんだから」「あははー」ほんとだよねぇと笑う私に彼はふうと息を吐いて、手で弄んでいた剣を下げた。「今日やめとくか? 疲れてんだろ」「えっ。やだよ、やる」と剣を構える私に彼は少し笑って下げた剣先を私に向けた。
「好きだな、コレ」
「好きだよ。ユーリだって好きでしょ」
「まーな」

 …それは剣の話であって、それ以外ではありえなかった。
 でも。たとえそれが何に対してであっても、好きという言葉は魔力だ。甘い、と感じる。だから欲しい、と思う。甘くて魅力的なソレが欲しいと、勝手な望みを抱くのだ、と思う。
 好きなんて言葉が私に向けられること。永遠にないのに。

 そんな思考を振り払うように剣を振るい、ユーリの厳しい指導を受けつつ、ほぼ感覚で剣を振るっている彼の言葉を理解しようと頭を回転させる。
 こうでもないああでもないと指摘されて頭が煮えてきた頃、ふいにユーリが私の後ろに立った。剣を握る私の手に両手を重ねて「だからなぁ」と言葉を繋げる彼に、その近いことに、心臓が少しうるさくなったのを感じた。
 …昼間、貴族の馬鹿息子とも同じような距離になったじゃないか。あのときは何を思った? 軽いセクハラだって、そう思ったくせに。同じ男でもユーリならいいわけか。ユーリが、いいわけか。それともフレンでもいいのか。一体なんなの私。心臓うるさい。少し黙って。
「ところで
「へい」
 勢い余って変な返事をした私をユーリが笑う。「へいってなんだよ。…お前さ、なんか香水くさいけどなんで?」それでいて後半は笑みを消した顔で問われて、うぐ、と言葉に詰まる。実は仕事先で軽いセクハラを受けて、なんて言ったら正義感の強いユーリは何を言うだろう。
 というか近い。いつまで私の手握って後ろに立ってる気なんだ。これは軽く抱き締められてる状態と変わらないよユーリ。
「えっとそれは」
「コレ男もんだろ。なんだよ、貴族街に男でもできたってか」
「そんなわけないでしょ。これは不可抗力っていうか、あの馬鹿息子が馴れ馴れしいだけ。シャツを新調したけどさあどこが違うでしょーって言うから当ててやったら肩抱いてきただけ、だよ」
 思い出すとまた胸がムカつく気がしたので、そこで思考を一度切る。
 苛々を思い出したおかげで消えてしまったどきどきを思いながら、少しだけ、体重を後ろにやって、ユーリに寄りかかってみる。
 …ユーリとなら、私、いつまでだってこうしてたいのに。さあ腕に飛び込んでおいでっていう奴がどうして貴族の馬鹿息子なんだろう。私のことなんてただ気に入った遊び相手くらいにしか思ってない奴に抱き締められたって全然嬉しくないのに。ユーリがこうしてくれるなら、私、いつまでだってこうしてたい。ああほんと、馬鹿みたいに乙女思考全開だな、私。
 そして、ユーリもユーリだ。私の肩に顎を乗っけて「ふーん。ソイツ、俺がぶっ飛ばしてやろうか?」と冗談でもなさそうな声で言うユーリに私は笑う。笑って「本気にするでしょ、やめて。そんなことされたら私仕事なくなっちゃうし」としか言えない私も私だ。

 今はこんなにもあなたと近い距離が。そのうちまた離れて、いつか、歩み寄れないほどになる。
 ユーリもフレンも、きっとすごく遠い人になる。予感がする。女の感とでも言おうか。
 フレンは言わずもがなできっと騎士団でもっと成功するだろうし、今は下町で燻ぶっているユーリもきっと自分の道を見つける。そして歩いて行ってしまうだろう。二人とも私に背中を向けて歩いて行くだろう。自分の信じた道の行く先を見据えて、しっかりとした足取りで、何があろうとも歩いて行くだろう。
 覚悟と決意を秘めた背中を、私は見送るだけだ。
 二人みたいな生き方は私にはできない。私はせいぜい自分のことだけで手いっぱいの、夢を持つことを忘れた庶民の女なのだ。他を抱える覚悟なんて持てず、燻ぶったまま終わる、そんな女なのだ。
 ああなんて、惨め。

 ユーリと別れて部屋に戻って、軽く湯浴みしてベッドに潜り込んで、ユーリと重なっていた手でぎゅっと拳を握って胸元に押さえつける。
 いつまでもこの温度が消えなければいいのに。いつまでも憶えていられればいいのに。どうせ明日になったら忘れていて、もう思い出せもしない。そんなぬくもりの儚さを呪いながら、私は眠りについた。