もしも奇跡が起こるのならば

 星喰みという大きな災厄を退け、世界から魔道器というものがなくなった。それは結界であっても水道魔道器であっても同じで、医療魔道器も等しくその機能を停止させた。故に、危機に瀕している場所も少なくない。それが魔物からの襲撃であるなら、向かうのは騎士団だし、生活の基盤であるなら、皆で知恵を出し協力し合っていかねばならない。けれど、それでもどうにもならないことというのも、世の中には存在した。
 コトン、と水を取り替えた花瓶を置くと、窓から入ってきた風で花がそよりと揺れた。
 活気ある声が遠く響き、ここまで微かな音を届けてくる。帝都の防衛を強化するために様々なところで着工がされている証だ。
「…どこまで話したかな。星喰みという古代の災厄が復活したところまで、だったかな」
 ぽつりとこぼす声に答える者はいない。
 帝都国立病院の個人部屋は静かだった。この部屋の主がずっと眠っているせいだ。もうずっと眠っているから、この部屋の空気は入れ替えても入れ替えても沈殿しているようにいつも重く感じる。
 眠ったままのこの部屋の主。飛び下り自殺を計ったは、エステリーゼ姫のおかげで一命を取り止めた。
 血で汚れてしまった髪は、衛生の点を配慮して短く切り揃えられた。ユーリと同じ色の髪を指で梳く。君が髪を束ねて一人街の外で剣を振るっていたあのときが、もう随分遠い昔のことのようだ。
 彼女の命を繋いでいた医療魔道器も止まった。今まで魔道器によって身体に必要な栄養素を受け取っていた彼女のこれからが危うい。現に、彼女の呼吸や顔色は、あまりよくない。注射や点滴である程度補えるとはいえ、魔道器の力には追いつかない。
 このままの状態が続くのなら、彼女は近いうちに死んでしまうだろう。
 この道を選んだのは僕らだ。魔道器によってどうにか生きている君を死なせることになるかもしれない、と覚悟しながらこの道を選んだ。だから、この現実から、僕は目を背けない。
 カラカラ、と開いた扉の音に振り返ると、ユーリがいた。僕に気がつくと「なんだよ、お前もか」と言ってその辺で摘んできたのだろう花を一輪手元でくるりと回してみせた。ベッドに近づくと、彼女の髪に花を挿す。やはり彼女は眠ったままだ。
 パイプ椅子を引きずって持ってきたユーリがどかっと椅子に腰かけて、ぼうっとした表情でのことを眺める。
 彼も選んだ。を殺すことになると分かっているこの道を。
「…もう目を覚ましてくれてもいいのにね」
 僕の呟きにユーリは小さく笑った。「ホントだよな。今目ぇ覚ましたら俺もフレンもいるのにさ」と言う声にはいつもの覇気はない。
 ユーリはどちらかというと黙ってないで喋るタイプだ。そうしないと物事に集中できないとかって。考えることも上手くまとまらないって。その彼がを見て黙っているのだから、相当だ。相当参ってる。長い付き合いの僕やハンクスさんとか下町のみんなじゃないと気がつかないレベルだけど、このまま彼女が死ねば、ユーリは間違いなく傷を負うだろう。もちろん、僕も。

 ユーリは後悔している。どこかでもう少しでものことを気遣えていたらこんなことにはなっていなかったと。そして、それは僕も同じだった。
 …あの日。水道魔道器の魔核を届けた日。目の下にクマを作って、髪もぼさぼさで、どこかやつれた彼女のことを置いて、僕は帝都を離れてしまった。明らかにいつもと様子が違う彼女に気がついていながら、僕は騎士団としての任務を最優先にした。それがあのときの僕の選択だった。
 僕も彼女を救えなかった。下町で育った幼馴染を、僕らがいなくなると泣き出す弱い女の子のことを、守れなかった。
 大人に近づくにつれ、泣かなくなった彼女のことを、強くなっただなんて思っていた。本当はただ僕らの前で泣かなくなっただけで、彼女はずっと泣いていたかもしれないのに。

「…ユーリ」
「なんだよ」
「野暮だと思って訊かなかったんだけど。君は、のことが好きだったのか?」
 がくん、と姿勢を崩したユーリがじろりと僕を睨んだ。「ああ? なんだよそれ。つーかそういうそっちこそどうなんだ」「僕かい? 僕は…」眠り続ける彼女を眺めて、少し考える。「僕は、のことは妹のように想っていた、かな」ふぅん、と呟いたユーリが眠る彼女に視線を移して、どうだろうな、とこぼして閉口した。考えるような時間を置いてから諦めたような息を吐いて僕の問いかけにぼそぼそと答える。
「よく分かんねぇよ正直。けど、他の男のにおいがしたら胸がムカついたし、俺よりちっさくて華奢なコイツを守ってやりたいって思ったのは本当だ」
「僕がにあげた剣術の指南書も、君が捨てたって話だったね」
「…悪かったよ。あれは衝動的すぎたと反省してる」
 ぼそぼそと謝罪するユーリに小さく笑う。
 それは、十分好きだってことなんじゃないだろうか。そうは思ったけど、言わないでおく。ユーリなら自分で気付くだろうし、もしかしたらもう気付いたかもしれない。そうして何が変わるというわけでもないけど、彼女が手の届かない場所へいってしまってから気がつくよりもきっといい。そう思っておく。
 正直な話、が目を覚ます確率というのは絶望的な数値だ。ほとんどありえないと言ってもいい。医師に言わせれば、魔道器の力があったとはいえ今まで彼女が生きていたことの方が奇跡なのだそうだ。
 そして僕らはそれ以上の奇跡を期待してここに通っている。
 やることは山ほどある。それでも時間の隙間を縫い、睡眠時間を多少削ってでも僕はここに通う。ギルドとしてやることがあるユーリもそれは同じだった。
 今はこんなにも君のことを想っている。それなのに、肝心の君は眠ったまま、その瞼が震えることもない。
 それから三十分、僕らは無言で彼女のことを眺め続け、病室を後にした。僕は城へ、ユーリは下町へと戻るため、病院を出て僕らは道を分かれる。
 なるべく毎日、少ない時間でもいいからの様子を見にこよう。
 僕はこの現実から目を逸らさないでいたい。
 この手が彼女を救えなかったことが、この先どれだけ僕を苛もうとも。僕は逃げないと誓った。自分が光なら、作り出してしまう影を見ないなんてことはもうしないと誓ったのだ。
(だけどできるなら、神様)
 束の間足を止め、星喰みが消滅した青い空を見上げる。
(もう一度僕らにチャンスを。彼女を守れる機会をください。彼女を幸せにすることを赦してください)
 どうか、とこぼして固く目を閉じる。

 君が目を覚まして、もう一度僕らのことを見てくれたなら。今度こそ僕もユーリも間違わないって誓うよ。君を一人にしないって誓う。
 だからお願いだ。
 どうか、涙するほどの奇跡が、君に、降り注ぎますように。