眠れない夜に数える星の光は繊細でさみしい。計り知れないほどの長い時間をかけて旅してきた、今はもうない幾多の星達の輝き。雄大な宇宙で、たったひとつの自らの命を精一杯燃やし続けて、ようやくここまで辿り着いた光。瞳の中に飛び込んでくる夜空の煌めきは美しいのに、何故か込み上げてきた悲壮感に涙を流したくなった。 ずっと昔に、空は見る人の心を映すものだと聞いたことがある。本当にその通りだと思う。空は鏡だ。何だって映し出してしまう。隠してしまいたいこともすべて。人の都合なんておかまいなしに、何もかもをさらけだす。 空を見て、胸につんとする痛みを感じて、私は泣きたいのだと知る。そう、私は泣きたいのだ、恐らくは。何が辛いわけでもなく、ただ、泣きたいだけ。おもいきり泣いて泣いて泣き止めば、あの星だってきっと優しく輝き出すだろう。けれど泣きたいからといって簡単に泣き出せるかといえば、そんな小さな子供のようにはいかない。素直に涙を流せる時期はとうに過ぎてしまった。だから私は泣きもせず笑いもせず空を見上げていた。ただひとりで。 辺りは恐ろしいくらいに静かだった。草も木も花も揺れない。野生の獣の鳴き声も聞こえない。風も吹かず、生き物の気配も感じず、ただ静寂のみが支配するこんな夜は、胸がざわめくか、もしくは穏やかな気持ちになれるかのどちらか両極端だ。 今の私は後者だった。心は不思議なくらいに落ち着いていて、静かな夜に溶け込むように同化していた。乾いた地面に座り込んで膝を抱えると、目を瞑って自分の呼吸の音に耳を澄ます。規則正しく聞こえてくる音は、生命の神秘だ。安らかに流れる時間が、生まれたての赤子に戻ったような錯覚を引き起こす。暫くそうしていると、控え目に土を踏む音がゆっくりとこちらへ近付いてくるのがわかった。目を開けると同時に、変声期を過ぎていない少年独特の高い声が聞こえてくる。 「眠れないのですか?」 私は自分の膝に絡めていた腕をほどいて、背筋をほんの少しだけ伸ばしてから振り向いた。なんとなく、彼と話すときは姿勢を正してしまう。 珍しく軽装で現れた緑の髪の少年は、柔らかく微笑んでいた。柔和な彼の雰囲気につられて、私も自然と優しい気持ちになって答える。 「そんなところです。イオン様もですか?」 「いいえ、僕は、」 言い淀んだ彼をじっと見つめる。私はその先の言葉を知っている気がした。 「こんなに綺麗に星が出ている夜に、眠るのが惜しく思えて」 彼は少し照れたような顔で私を見た後、夜空を見上げて続けた。はにかむように言う姿はまるで少女のようで可愛らしい。彼を初めて見た時は、今よりずっと子供で、今よりずっと華奢だったから、それこそ本当に女の子だと思ったものだ。 「では私のお隣は如何ですか? ここからだとよく星が見えますよ」 私がそう言うと彼は、ありがとうございます、と言ってまた笑った。彼の笑顔は人を癒す。たとえば私の悲しみが、私の抱えている悩みが、ちっぽけなものだと思えるようになる程に。アニスとルークだって、きっと何度も彼に救われてきた。だからこそ、彼は導師になり得たとも言えるだろう。導師とは、決して預言を詠むだけでは務まらない役職なのだ。 すぐ隣に腰を下ろした彼の、軽やかな羽のような衣が月明かりに照らされている。きらきらと輝く星の色は、この少年の瞳にはどんな風に映っているのだろうか。私は深い緑の瞳の奥を覗き込んで言った。 「そういえば、以前も似たようなことがありましたね」 「そうでしたか?」 「ええ、覚えていませんか? 私が一度だけあなたの遠征に同行した時に」 デジャヴュ。既視感。これは決して気のせいなどではない。私は前にもあの言葉を聞いた。別に眠れない訳ではないけれど、こんなに星が綺麗に出ているのだから眠ってしまうのは勿体無い。少年はそう言って、服が汚れるのも構わず地面に座り込んだ。そう、あの時は、照れるというよりはむしろ悪戯っぽい表情を浮かべていた。今の彼とは、何処か違う表情で笑っていた。それは今よりも子供だった所為かもしれないし、それとも、もっと別の理由なのかもしれない。 「覚えておられないのではなくて、ご存じない、と言った方が正解なんでしょうか」 言うべきか言わぬべきか、それを考慮する前に言葉は口から出ていた。考えている事を軽々しく声に出すのが良くない事だとはわかっている。物事は何だって慎重に進めるのが肝要だ。けれど私は聞かずにはいられなかった。 目を瞑って耳を澄ましているときよりも、ずっと近くで呼吸する音が聞こえる。それから、心臓の鼓動も。躍動するそれは私の音か彼の音か、あるいは二人の音なのか。 私は息を潜めて返答を待った。小さな期待と不安、または焦燥。少年は変わらず温厚な眼差しのまま私を見ていた。 「・・・いつから気付いていたのですか?」 彼が溜め息のように漏らしたのは、肯定も同然の言葉だった。私は彼の表情を改めて観察した。とても似ているのに、よく見ればこんなにも違う。 「もしやと思ったきっかけはカーティス大佐ですが、確信したのは今です」 運命というのは皮肉で残酷だ。理論を考案した彼と、それを体現させられた彼ら。何の因果があってここに集ったのか。 「カーティス大佐は、あなたをどこか不思議な視点で観察していました。それに気付かなければ、私はあなたの不自然さに気付くこともなかったでしょう」 この旅で初めて彼に名を呼ばれた。この旅で初めて彼と食事を共にした。この旅で初めて彼と共に笑いあった。何もかも、私が彼を本当の意味で知ったのはほんの最近のことなのだ。偶然にも相対したあの夜、ただ一度だけ言葉を交わした幼い少年が、目の前の彼が別人であるなどと考え付くはずもなかったのに。 「、あなたは僕を、僕の存在をどう思いますか?」 彼はきっと、今の自分の立場にも、名声にも、存在にすらも縋ってはいない。生まれてきたから生きているだけで、それ以上を望んでいない。けれどそれは、あまりにも哀しいことだ。 「あなたは優しい人です。あなたが我々の導師なら、きっと人々を正しい未来へと導いてくれると思います」 それは心からの言葉だった。自らの身を犠牲にしてでも人の幸せを願う心を持っている少年。だからこそ、彼は愛されるのだ。どうかその優しさを、自分自身にも向けてあげて欲しいと思った。 「けれど、何が正しくて何が間違っているかなんて、僕にはわかりません」 白く柔らかな指を握りしめて、彼は呟いた。私の隣で、彼は夜の空を仰いでいる。 この少年がどれほどの時を生きてきたのか、おおよその見当は付く。アリエッタという少女は2年前に導師守護役を退いたと言った。2年、たった2年、それだけの時間しか、彼は生きていないのだ。見た目以上に小さな背中は、何よりも重い荷を負っている。 「ついでにもうひとつ、打ち明けてもいいでしょうか?」 どこまでも優しくて繊細な声。静かで感情の波を見せない彼は、けれど何か激しいものを秘めている。たぶん自分自身でも知らない、どこか深いところに。 きっと、彼は泣かないのではなくて泣き方を知らない。だから笑って言うことしか出来ない。どんなに哀しいことでさえも。 「僕はそう遠くはない未来に、あの星達のうちのひとつになるんです」 優しい笑顔もいつかは消える。そして、ある種の懺悔にも似た告白を聞いてしまった私に出来る事といえば、その日がずっとずっと遠い未来であることを願う、たったそれだけしかないのだ。 |