「………あの、生きてますか?」

其の、第一声。
鈴の音の様な其の声に、キールの意識は闇から浮上した。
緩慢に彼が瞼を上げたなら、其処にはキールと近い年齢だろう見知らぬ少女の姿が在る。全身を白色で身に纏っている其の少女は、流れる様な夜色の長い髪を肩から零しながら、そうしてキールの顔を無表情に覗き込んでいた。

満身壮美な少女だった。とは、少女を見たキールの第一印象だ。
世界の全てが彼女に触れるなどおこがましいくらい、儚くて果敢無い其の雰囲気。まるで月の光の様だと、キールはぼんやりと思考してから。不意に。鈍い痛みが身体に走って、彼は顔を顰めた。

(………ああ、そうだった)

そう云えば、自身は怪我をしていたのだと云う事を思い出したキールは、気怠そうに溜息を吐く。見れば、全身が鮮血でべっとりと染まっていた。
其の事にうんざりしながら、周囲を見渡しては此処が何処かの街のスラムだろうと適当に判断して、彼は目の前の少女に問い掛けてみる。

「すまないが、此処が何と云う街で、何と云う区域なのか教えてくれないか」
「………サイジェントの南スラム、だったかと」

キールの問いに少しだけ思考する様に沈黙した少女は、暫くしてそう答えた。
矢張り無表情な彼女の声音は淡々としていて、まるでキールが今までいたあの場所と何処かしら似た気配を漂わせている。感情の篭っていない、其れ。

少女の其れを感じながら、キールは返って来た答えに眉を寄せた。サイジェント。其れは、例の儀式の場所に最も近い街の名前ではなかったか。
と云う事は、自身で思っていたよりも全然あの場所からは離れられていないのだと。知って、彼は疲れた様に息を吐きながら。云った。

「君はもう行くといい。其れとスラムで僕の様に血に塗れた男に近付くのは止めておけ。こう云う時は大抵厄介な事に巻き込まれるのが定石だからな」
「………御忠告どうも。そうします」

キールの視線に合わせて膝を折っていた少女は云って立ち上がると、彼の言葉に素直に従うつもりの様だった。下手に自身と関わろうとする相手では無い事に安堵しながら、キールはそうして背中を向けて歩き出した少女の姿を見送る。

完全に姿が見えなくなった事を確認して、キールは口元の血を腕の袖で拭うと、壁に預けていた背中を離してはよろよろと其の場に立ち上がった。
其の際に襲った激しい眩暈に片手を壁へと付けて身体を支えつつ、自身のこの無様な姿にキールは小さく自嘲って。荒い吐息を落ち着かせながら、血に濡れるのも構わず其の手で自身の髪を無造作に掻き上げる。

何時までもぐずぐずと此処にいる訳にはいかない。
追手は既にこの街に辿り着いているかも知れないし、もしかしたら例の儀式の最高責任者と鉢合わせるかも知れない。例の儀式が失敗してこの街にいると云う事はキールも知っていたから、其の相手にもキールが犯した今回の事が知らされているだろう。相手にキールの捕縛か処分命令が出ていても全く可笑しくは無い。

(………まあ、此れから自身が如何なろうが、如何でもいい事だが)

何故なら、キールの目的は達した。
恐らくあの男の命は数日と持つまい。何せ、あの男に掛けた呪詛はキールにしか解けないし、解くつもりも無いのだから。そう思うと、あの男が辿るだろう醜い末路に嘲笑いが込み上げると云うものだ。そう、あの男に与えられた致命傷など、如何でも良くなるくらいに。キールは満足していたのだ。

ずっと望んでいた其れが叶った達成感に、キールは胸がいっぱいになっていた。
掛けた呪詛が太古に失われた筈の、禁忌とする程までに高度で危険なのものだった為に、彼の魔力は空になっていたが。其れでも。心は満ち足りていた。果たせた、其れに。たとえ、彼の自己満足で終わろうとも。

(この侭、果てるのも悪くないかも知れないな………)

いい加減、逃げる事にも疲れていた。
魔力は果てた。だから、召喚術は使えない。使う必要も無い。死ぬ事に抵抗も既に無かった。恐らく今眠れば、二度と目が覚めない予感を感じながら、キールは徐に歩き出す。眠るのならば、せめて。静かで落ち着いた場所で眠りたかった。





「………あの、生きてますか?」

声がした。
適当に歩いて辿り着いた川の傍、誰にも見付からないだろう木々に囲まれた其の場所で。鈴の音の様な、少女の声がした。

其れは、キールが完全に眠りに落ちる直前だった。
つい先程聴いたものと同じ其の言葉を耳にして、キールが伏せていた目を開く。緩慢な動きで顔を上げたなら、其処にいたのは先程会った少女だった。

如何して此処に、と云うよりも、何故自身に構うのかと云う疑問の方が強かった。けれど、口を開くのも億劫で、キールは沈黙した侭に目の前の少女を眺める。少女もさっきの言葉を最後に沈黙した侭、じっと木に背中を預けているキールを見ていた。

黒とも茶とも違う、其の灰色の瞳。まるで眠るなと告げているかの様な其れに、キールは僅かに眉を寄せて困惑の意を示す。そうして不意に気付いた、少女の無表情の中に潜んだ其れに、キールが微かに瞠目した。

キールだからこそ気付けたのか、少女は完全な無表情では無かった。
ほんの少し、そう、ほんの少しだけ。少女の其の無表情の中に心配そうな色が含まれている事にキールは気付く。気付いて、彼はまるで少女が自身の様だと錯覚した。鏡像の様な、錯覚。そんな事など在る訳が無いのに。

「―――――? 何処に行ったんだ?」

不意に。酷く聴き慣れた声がキールの耳に入って、彼は思わず顔を顰める。
最早キールの意識は朦朧としていて、身体は思う様に動かせない。唯、相手が誰で在るのかを悟っていたから、彼は荒い呼吸を出来るだけ抑え様とした。自身が相手に見付かるのはいい。だが、目の前にいる無関係の少女だけは巻き込む訳にはいかなかったのだ。

キールが何気無く視線を目の前の少女へと向けると、少女も先程の声に対して見付からない様に息を潜めている様だった。そんな少女が何処か怯えた様に見えるのはキールの気の所為だろうか。

?」

先より近くなった声に、少女の身体がびくりと震える。其れを見たキールは、目の前にいるこの少女の名がなので在り、声の主に見付からない事を望んでいるのだと知った。理由は判らない。知りようも無い。其れでもキールは少女が声の主に見付かる事を恐れているのだろうと云う事は、何となくだが理解出来ていた。何故なら、相手の声に執着したものが粘り付いている。

其れに気付いて、キールは少しだけ力無く苦笑した。あんなにも感情を込めた相手の声をキールは聴いた事が無かったし、また自身には到底真似も出来そうに無かった。あんな声を出せる程、キールは誰かを想った事など無かったからだ。

がさり、と、近くで草を踏み締める音が不意にして、少女が息を呑んだ。少女の今いる位置は木々で死角になっているキールと違って見付かり易い位置に在る。キールの存在も忘れて周囲を見渡す少女は、本当に相手に見付かる事を恐れている様だった。余裕が感じられない。

だからなのか。
動かす事も難しい其の身体で、無意識に腕を伸ばして。其の少女の身体を引き寄せてしまったのは。少女が可哀想だと、キールが同情してしまった所為なのか。

「―――――…!」

少女の酷く驚いた顔が一瞬だけ見えた。
けれど其れもすぐにキールが少女を自身の胸元に抱え込んだ事で見えなくなる。白色だけを身に纏った少女の衣服がキールの血で赫く滲んで、染まる。少女から薫る花の様な体臭とキールの血の匂いとが混じって、キールは思わず眩暈を覚えて目を伏せた。

キールの魔力は既に空だったから、恐らく相手にはキールの存在を察知されはしないだろう。もしも魔力が残っていたならキールはこの状況を簡単に打破しただろうし、少女が纏う其れに気付けたかも知れない。けれど実際には身体を動かせる力も残っていない。こうして少女が相手に見付からない様に祈り、気配を消して、唯。強く抱き締めてやる事しか出来なかった。

どれだけの時間をそうしていたのか。キールには良く判らなかった。彼の意識は徐々に霞み始めていて、其れでも、少女を護る様に抱き締める。近くにはもう人の気配は無かったが、五感が鈍っているキールの其れなど当てになりはしない。

「………死ぬの?」

声がする。密やかな、そうして何処か悲哀な其れ。
ゆるゆるとキールが目を開いて、視線を腕の中の少女へと落とす。胸元に顔を押し付けてしまった所為か、少女の頬が血で濡れていた。

「―――――ああ」

最早此処から動く事も出来ないし、魔力も無い。と云う事は、キールは此処で死ぬと云う事だ。だから、キールはそう答えた。
傷の所為で発熱していて、身体が酷く熱かった。だからだろう、血に濡れた少女が酷く綺麗だと、そんな愚かな事を考えてしまうのは。

「なら、如何して私を相手から隠す様な真似をしたの」

いい加減眠りにつきたくてキールが目を伏せようとした時、少女からそんな言葉が投げられた。咎める様なものが含まれた其の声音に、朦朧とした意識で彼は其の言葉の意味を考える。考えて、少女が怒るのも無理は無いとの結論に至った。

少女を見下ろす。死ぬのなら無責任な事をするなと其の瞳がキールを責めながら、少女は絶望している様だった。今を遣り過ごしても、結局は逃れられないと。少女は絶望していた。そして、其れを少女は甘受している。

「………逃げたいのか」
「……………」

何から。何処から。其れをキールは云わなかったし、少女も問わなかった。
云う事も、問う事も。最早そうする事に意味は無い。

「だが、僕に其れを求められても困る。何せ、もう何の力も残っていない」
「………知ってる。見れば判る。貴方が無色の派閥の人だと云う事も。私は知ってた。だから、声を掛けたの。彼と同じ雰囲気を、貴方は纏っていたから。彼とは違う優しさを、貴方は持っていそうだったから。………少し、話をしてみたかった」

云って、少女がキールから身体を離す。疲れた様に力無く、無表情の上にそうして浮かべた、其の硝子の様な微笑に。キールは少女が告げた言葉の意味など、如何でも良くなる。そもそも今にも死んでしまうだろう自身に、其の言葉の意味など何の意味も持ちはしなかった。―――――けれど。

(………自己満足だな、きっと)

目の前の少女は何処か母に似ている。姿や声が似てる訳では無い。唯、浮かべる其の微笑が似ていた。儚くて、果敢無い、其の纏う雰囲気が似ていた。あの塔で鎖に繋がれながら、其れでも微笑んでいた、自身の力不足で護れなかった、母の。

霞んで良く見えない視界の中で、キールは力を振り絞って手を伸ばした。そうして少女の腕を掴んだなら、少女が驚いた様にキールを見ているのが辛うじて判る。だが、キールは其れに頓着しない。限界に近い身体で、再び少女を引き寄せて。抱き締める。彼の今持てる力の全てで。

「―――――逃げようか」
「え」

戸惑った少女の気配。じきに死ぬ男の戯言としか取れぬ其れに、少女が其の真意を探ろうと顔を上げてキールを見た。至近距離なのにも関わらず、キールにはもう少女の表情は読み取れない。唯、其の瞳が揺れた様な、気がした。

「誰も来ない、静かに暮らせる様な処へ行こうか。二人で」

何故だろう。キールは少女と初めて会った気がしなかった。
初めて顔を合わせて、初めて抱き締めたのにも関わらず。何処かでこのぬくもりを、この花の様な薫りを、キールは知っている気がしていた。遠い、遠い、其の気の遠くなるくらい、遥かな昔に。

目を伏せる。今は動地の節でも無いのに、キールの瞼の裏にアルサックが咲き乱れる光景が広がっていた。其の光景の中、大きな満月が照らす夜、アルサックの下で佇む誰かの姿を。キールは見た気がした。

「………嘘、吐き」

不意に。ぽつり、と、少女の唇から紡がれた其れ。
キールの胸に顔を押し付ける様にして紡がれた声音は、何処か弱々しい其れで、思わずキールは微苦笑する。全く以て其の通りだったからだ。

ゆるゆると一度だけ目を開く。悲哀に自身を見る少女の瞳とかち合う。朧気に其れを理解しながら、キールはそうして緩慢に目を閉じた。少女を胸に抱いた侭で。
そうした事で急速に闇に引き摺られて霞み消えていく意識に、抵抗も出来ない侭。キールは押し寄せる睡魔を素直に受け入れた。

「―――――「今度」は、貴方が私を「おいていく」のね」

少女の声。まるで鈴の音の様な。けれど、震えていた其れ。
同時に自身の胸元をじわりと熱い何かが染め濡らすのを感じて、キールは心の中だけで少女に詫びた。其れが示すものが何かを知っていて。けれど、彼にはもう眠りに就く事しか出来ず。そうして、其れを最期に。

少女の声は、もう届かなかった。





浅く緩く果てた、の結末
(そして、僕が其れを知る日は、もう永遠に来ないのだろう)





▼後書き
キールが儀式の最高責任者では無く(つまり「在れ」を宿していない)、誓約者(アヤかナツミ)と護界召喚師(ソル)が其々一人ずつだったらと云う設定の、アルサック長編のIF話。因みに補足しておくと、この話のソルはヤンデレです(…)。
しなさんへの相互記念の贈り物ですが、長編設定多くてしかも名前変換部分少なくてすみません…。長編設定は自重するべきだと思ったのですが、私は如何もこんな書き方しか出来ないみたいです。申し訳無い。汗。
大変遅くなりましたが、こんな話で宜しければ、親愛なるしなさんへ贈らせて頂きます。改めまして、今後もサイト共々、どうぞ宜しくお願い致しますね!











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相互記念で夜緒音さんからいただきましたキールさんです! 
長編設定のIF話ということで、ふむふむと思いながら読破しました私です 
私が書くものはこう第三者視点だと上手くいかないので、こういう文章を書ける夜緒音さんに脱帽です 
第三者ってお互いの心理状態が書けるけどもどことなく簡単な文にしかならなくって。夜緒音さんこんな素敵なものありがとうございます! 

こちらこそ、これからもどうぞよろしくお願いします!DS版サモ2楽しみですね!私は買えないのですが…うう 
そのままはっつけたところなぜか表示されなかったので、ちょっぴりデザインが違うんですがご容赦ください。何かミスがあれば何なりと! 
こんな素敵夢を書かれる夜緒音さんのサイトはココから飛べます!是非遊びに行ってみましょう〜