命が生まれた。命が溢れた。
 やがて進化を辿り、一度は減少し、息絶えて、細く繋いだ命が生き残り、進化を辿った。
 翼を生やしたもの。陸に適応したもの。水の中を自在に泳ぐもの。二本足で立つもの。
 遠い遠い昔にそうやって生まれた命たちが今を生きている。
 ヒトという生き物は複雑化の一途を辿り、昔は見なかったユメなんてものを見るようになった。
 大昔のヒトはどうやって生きていたのだろうか、とふと疑問に思う。
 この時代に生まれてしまった僕は、複雑すぎる人間社会から弾かれてしまった。
 複雑で難しい世界に適応しなければ、この先に行くことはできない。
 だから僕は高い壁を見上げている。器用に登っていく誰かや賢く梯子を用意した誰かを見ながら、自分の手を掲げて、無理だろうな、と思う。
 だから無理なのだ、と知っている。登れないなと自分から諦めてしまっているからもう無理なのだ。
 高い壁を見上げて、昔のヒトならこの壁を見てどうするのだろうと考えた。鉤爪、とかを使って登るのかな。僕にはそんなこときっと無理だ。うん。だから、諦めよう。
 この壁の向こう側に行けば新しい世界が待っている。新しい社会が待っている。それは知っている。分かってる。でも、僕にはこんな高い壁、一人ではどうにもできない。
 諦めて、ひっきりなしに壁の向こうを目指す人が押し寄せるここじゃない場所へ行くため、僕は端っこを目指して歩き始めた。
 色んな人が壁に向かって努力していた。
 体当たりなんて原始的なことをする人もいれば、壁の向こう側に声を張り上げて誰か力を貸してくれと言っている人もいるし、魔法みたいにするする登っていく人もいる。同じ二本足で立つ生き物なのに、この違いはなんだろう。不思議だな。
 そんなことを思いながら壁伝いに端っこを目指して歩いていると、一人の女の子が壁の前に蹲っているのが見えた。
 女の子は泣いているようだった。どうしようと迷ってから、僕は声をかけることにした。きっと僕と同じ、この壁を登れなくて絶望してしまった子だろうから。
 こんにちは、大丈夫? と小さな肩に触れる。女の子が目をこすりながら顔を上げた。丸い瞳で僕を見上げて登らないのと壁を指されて、僕は曖昧に笑った。
 僕らのすぐ横で壁に槍を突き刺した人が、それを足がかりに今度は剣を突き刺して新しい足場を作り、高い壁を懸命に登っていく。
 僕には無理なんだ。登れないんだ。女の子の前に膝をついてそう言うと、そっかとこぼした女の子が膝頭に顔を埋めた。
 槍とか剣を突き刺して無事に壁を登りきった人を見上げる。その人はこっちを振り返ることなどせずにすぐに壁の向こうに行ってしまった。足場になっていたものは、その人が壁の向こう側に消えるのと同時にさらさらと砂のように崩れて消えていく。
 端っこを目指してるんだ。ぽつりとそう言うと、女の子がくぐもった声ではしっこ? あるの? と訊ねてくる。
 高い壁だけが一直線に、視界の中で点になるまで続いているこのまっさらな場所に、端はあるのか。それは僕にも分からない。
 でも、登るより、簡単そうだし。そう言ったら女の子が顔を上げた。
 そうね、登るより簡単そう。うんと頷くと女の子が立ち上がった。わたしも一緒に行っていい? と訊かれて僕は一つ頷いて返す。
 そうして、女の子と手を繋いで、壁の端っこを目指して歩き始めた。
 繋いだ手にはやわらかな体温。あたたかい温度。
 ゆるりと手を繋いで歩く僕らは、壁を乗り越えようと努力する人々を見ながら、ただ壁伝いに歩き続けた。
 どれだけ歩いても、まっさらなこちらの世界と新しいあちらの世界を横断する壁は途切れなかった。
 それでも壁を登ろうと努力するより、のんびり歩いている方がよかった。
 歩いて歩いて歩き続ける。ただひたすら、目的らしい目的もなく、一人が二人になって、二人が一人と勘違いするくらいに長く、長く、あるのか分からない端っこを目指して歩いていく。
 そういえば、名前は? ふと思いついたという感じの声に訊ねられて、僕は曖昧に笑った。さあ、とこぼせば女の子も笑ってそうね、わたしも分からなかった。言って気付いた、とこぼして口を閉じた。
 ねぇ、はしっこはあるのかな
 どうかな。分からない
 はしっこへ、行けたとして。どうするの?
 壁のそばは、人がたくさん来るからさ。端っこまで行ったら誰もいないのかなと思って
 ふうん。そっか。そうね。いつまでもいたら、誰かに蹴られそうだもんね
 うん
 …みんなどうして上手に登っていくのかな
 どうしてだろうね
 あっちが新しい世界だから?
 かも、しれない
 あなたは行きたくないの?
 僕は…どうだろう。行けたら、行きたい。のかな
 わからないんだ
 …うん。登れないのが現実だし。だから、分からないのかな
 そっか。そうね。わたしも、きっとわからない。でも悲しいの。わたしは登れないのに、みんな登っていくから。わたしを置いていくから
 うん。僕もそれは感じた
 でもわたしたちなら大丈夫だね。登れない同士の仲間だもんね
 にこりと女の子が微笑む。僕は、曖昧に笑って返す。
 本当はこの壁を乗り越えなくてはいけない。これを乗り越えることが僕らに課せられた一つの試練のようなもので、ここで躓いていたら、絶対に前へ進めない。その事実だけが頭の中で重たい石のようにずっしりと居場所を取っている。
 だけど。それでもいいんじゃないかと、思ってしまったんだ。
 僕と手を繋ぐ君という存在。握った手のやわらかい感触。あたたかな体温。僕に笑いかける君の笑顔。二人で並んで歩く僕ら。
 すぐそばには高い壁。超えるべき壁が聳え立ち、まっさらな世界を横断する壁に終点は見えず、僕らはただ並んで歩いていくだけ。
 そんな笑えない時間なのに。少しも前に進まない、後ろにもいけない時間なのに。愛しいと思ってしまった。なくしたくないと思ってしまった。
 繋いだ手を離すことなどできず、前を向いて歩く君の横顔を見つめて、視線を外し、同じように前を見て。
 ぎゅっと手を握れば、君は握り返してくれる。
 たったそれだけのことが、僕にはひどく大切で、仕方がなかったんだ。
 だからいいよ。このまま一生、越えるべき壁を見上げるだけでも。
 構わないよ。このまま一生、存在するのか分からない端っこを目指して歩き続けるだけの時間でも。
 だって隣に君がいる。
 たったそれだけのことで、僕はもう満足だ。このまっさらな世界にも十分意味があったと思える。このまま歩き続けることも困難ではない。越えられない壁にさえ感謝できる。
 あのさ、と話しかけると君はうんと頷いた。僕、今結構満足してるんだ。そう白状すると君はくすくすと笑った。僕に笑顔を向けてわたしもだよと言ってくれる、そんな君に、僕も笑った。心から。