冷たくもあたたかくもないそこから

 ふと気付くと、私は真っ暗な空間の中にいた。
 辺りはとても静かで、私の視界では闇以外の何かを見通すことができず、しんとしたそこでは物音を拾うこともできなかった。
 辺りを、そして私を包むその闇が冷たくもなくあたたかくもなかったので、私はそれが心地よくて、それだけを理由に、そこにいるということを決めた。
 そこは何も強要のない世界だった。
 暗闇は静謐で、穏やかで、すべてが満ちていた。
 ここにいれば私もそういう存在に、世界の一部になれるのだろうと目を閉じれば、やっぱり暗闇が見える。とても穏やかで落ち着いた、眠る前にも似た心地の暗闇。それが私を包んで覆って私を世界の一部へと変化させていく。
 ああきっと、このままでいれば、私は終わるのだろう。
 そんな安堵の気持ちが浮かんだとき、何もなかった暗闇と、音さえ存在しなかったそこに、カツンと硬質な音が響いた。
 何かを聞くということを忘れかけていた私はびっくりして顔を上げる。まだ視界が暗闇一色なのに気付いて、自分が目を閉じたままだったのを思い出して薄く視界を確保すれば、暗闇しかなかったそこに、誰かが見えた。
「やぁ」
 響いたその声が少し懐かしく思えたのは、どうしてだろう。
 その誰かは、一昔前のヨーロッパで探偵でもしていそうな服装をした知らない誰かだった。深く帽子を被っているせいか、それとも周りに闇しかないせいか、その表情は少しも分からない。
「お嬢さん、こんなところにいると同化してしまうよ」
 その言葉に。わたしは何度か瞬きを繰り返して、まだ自分は存在しているのだということを確認した。
 ゆるりと腕を動かして持ち上げてかざせば、ちゃんと私の腕だった。そのことに少しがっかりする。闇に溶けて終われるという私のユメはこの人に邪魔されて叶わなかった。
 改めて、少し憎らしい探偵の風貌をした誰かを観察した。ほっそりしているけど、声からして男の人だろう。多分。
 それだけ考えて目を閉じた。それ以上、思うことも浮かばなかった。
 口を開くのも億劫で、再び目を閉じた私の耳に、カツンと硬い靴の音が響く。
「二度目になるが、こんなところにいると危険だよ。君は消えてしまいたいのかい?」
 その、言葉に。もう一度目を開けて、私は探偵風の人を見た。
 茶色いコートは分厚くて重そうで、服装に合わせたような茶色い革靴は少しくたびれて履き慣らされた感じで、お揃いの色をした帽子もつばが少しよれていて、そこがちょうど影を落としていて、その人の表情を見えなくしている。
 私は、消えてしまいたいのかいという言葉に、一つ頷くことで返事をした。ふむと腕を組んだその人は「それは困ったね」とちっとも困ってない平坦な声を出す。
 本当にこのままここにいたら消えてしまうなんて言うのなら、私は喜んでこの場に留まろうじゃないか。
 この場所に満ちる闇は少しも嫌な感じがしなくて、冷たくもあたたかくもなくて心地よくて、とても。そう、とても、優しいんだ。
 そうなんだ。この闇は心地がよくて、優しいから。お化けが出そうなんて思う不気味な暗闇じゃなくて、何かに襲われそうなんて怯える暗闇じゃなくて、この闇はただ優しく私を包み込んで肯定してくれるから。だから、ここがいいんだ。
 そうだ、私はここがいいんだ。うん。そうだ。そうだよ。
 再び目を閉じた私の耳に、また靴音が聞こえた。カツンコツンと止まることのない足音はだんだんと近くなり、私のすぐそばで止まった。
 そしてそのまま、衣服の擦れる音がしたから、なんだろうと訝しんで少し目を開けてゆるりと視線を流せば、私の右隣にさっきの探偵の彼がいた。私と同じように膝を抱えて座り込んだ体勢で、他に何も存在しない暗闇の世界に顔を向けている。
「君は疲れてしまったんだね」
 ……そう言われると、そうかもしれなかった。
 浅く頷いた私に、隣にいる彼は一つ吐息する。「そうか。そうだね。私などが簡単に頷いてはいけないくらい、君は全てに疲れてしまったんだろうね」こっちを見ないままの小さなその声は、どことなく私を気遣うような声音だった。
 時間を数えてみた。十秒、二十秒、三十秒。六十秒、一分たってもその人が何も言わないで私の隣にい続けたので、私は仕方なくその人と話をすることに決めた。
「あなたは、どうしてここにいるの」
「さて。どうしてかな」
「…答えになってない」
「ふむ。そうだね。この世界の住人、なのかもしれない」
 曖昧な言葉だった。誤魔化されている気がして、私は隣の探偵人をじろりと睨む。何もおかしなことなんてないのに笑ったその人は「本当だよ。私も自分が何かなんてことは分からないのさ」と言う。
 私を包む暗闇は相変わらずで、この世界と表現されたここは相変わらず暗くて、何もなくて、冷たくもあたたかくもない、まどろみにも似た心地のよさが存在するだけ。
 このままここに溶けて、消えてしまえたらいいのに。
 抱えた膝に顎を乗せて、「ここで眠ったら溶けて消えるのかな」とこぼすと、隣の彼は私に顔を向けたようだった。「本気かい、それは」「わりと本気」「君は死にたいのかい?」「…そうね。多分、きっと」目を閉じると、やっぱり暗闇。目を開けてもやっぱり暗闇。ほら、私はこの闇に溶けて消えるのがお似合いってことじゃないか。ね、そうだよ。ね。そうだ。
 そう思った私の視界の端で、右隣にいた彼が、懐から何かを取り出した。カチャンと音のしたそれに顔を向けると、ランプがあった。まだ灯りの入っていないアルコールランプだ。一昔前の探偵の風貌をした彼にはお似合いの、一昔前の灯りだった。
「何するの」
「ここは暗いからね。灯りがいる。君のためにも」
 ポケットからマッチを取り出したその手を、私は掴んで止めていた。「やめて」と震える声で。
 灯りなんか必要ない。私はこの暗闇に溶けて沈んで消えていくだけだ。それでいい。それがいい。だから、灯りなんてものは邪魔なだけ。全然私のためじゃない。私はそんなものはいらない。望んでいない。
 手袋に包まれた手を掴んだ私の手に、もう一つの掌が重ねられる。温度のない、冷たくもあたたかくもない手だった。
「君には灯りが必要だ」
「いらない」
「いいや、必要だ。君は浮上しなくては。ここで沈んでいてはいけないんだ」
「…私のことなんて何も知らないくせに、うるさく、言わないで」
 ぐっと強くその手を握り締めれば、同じ力で手を握られた。「知っているよ、君のことくらい」なんて言葉はただの慰めのようにしか聞こえず、私は顔の見えないその人をあらん限りに睨みつけた。人生の中で、多分一番力を込めて人を睨んだと思う。
 だからじゃないとは思うけど、彼の顔が初めて見えた。
 思わず息が詰まったのは仕方のないことだった。
 その人は、私がよく知っている人の顔をしていたから。今頃になって気付いたけれど、その声すら私は知っていたのだ。背格好だってとてもよく似ているじゃないか。私の知っている彼が少しめかしこんでここにいる、そんなふうに思えて、眩暈を感じた。
 くらくらくるくる、頭の中が回っている。目の前も同じように。
「私が憶えのある誰かに見えるのなら、君は行くべきだ。立ち上がって、もう一度歩くべきだ」
 その人は言う。そう言って私の手をそっと離す。さっきまで、十秒くらい前まで私は力強くその人を睨んでその手を掴んでいたというのに、今はすっかり力が抜けてしまっていた。
 マッチがすられて、炎の赤と橙が灯る。それがランプの灯りになって、私に手渡される。「さあ」と微笑んだその顔に私は何も言えない。
 これは都合のいいユメだ。そうだ。そうに決まっている。
 だって私は。ついさっき、目の前の彼に冷たくあしらわれて、車道に身を投げたのだから。
 死のうと、そう思って、目を閉じたのだから。世界を捨てたのだから。
 だから私は死んだのだ。体が死んで、そして今意識も死んでいくところなのだ。ここは中間地点。もうすぐ私はいなくなる。私はなくなる。それが、私が望んでいたことだった。
「私は、もう、歩けないよ」
 掠れた声で訴えると、その人は微笑みに悲しみを混ぜた。「君は歩けるよ。ほら」片手を引かれて、ランプを揺らしながら手を取られるまま立ち上がる。ふらついた足は彼の手に導かれることでだんだんと安定してきて、歩ける、ということを私は思い出していた。
 ステップを踏むようにカツコツと響く靴音は、私と、彼の分だった。
「ほらどうだい。上手じゃないか。歩けるよ。私に触れることも言葉を交わすこともできる。ダンスだって踊れそうだ」
 何がおかしいのか、嬉しいのか。その人は笑う。彼は笑う。笑顔で私のことを見ている。
 さっきは正反対くらいの表情で私を突き放した人なのに、私は自分の気持ちが曖昧になっているのに気付いてしまった。
 私の手からランプを受け取ったその人が、地面の境目もない暗闇にことんとランプを置いた。もう一度手を取られて、にこりと彼に微笑まれて、私は何も言えずに手を引かれるままに足を踏み出して、ステップのようなものを踏む。
 この闇で閉ざした世界の中で消えるというユメが、だんだんと薄れて、平たくなって。「そこはもう少し左だ」という声にもう少しだけ足を左に踏み込めば「そう、上手だ」と笑顔が返ってきた。名前も知らないダンスのステップを踏みながら、私は彼の笑顔を見つめた。さっきは私を突き放した人に、さよならをしたのに、もう一度会いたいなんて思ってしまっていた。
 ここにいる彼は彼じゃない。姿形が似ているだけの、彼ではない誰かだ。
 だって、彼はこんな喋り方じゃないもの。それくらいは私にだって分かる。
 カツン、と音を残して彼の足が止まった。私の足も止まっていた。
 曖昧になった答えは、新しい答えを弾き出していた。私はそんな自分に呆れて、諦めて、結局受け入れた。
 人って現金なんだ。ついさっきまで死んで消えてしまおうって決意してたのに、あっさり覆して。大嘘つきだね、私は。
 だけど不安だった。そんなことは目の前の彼にも伝わっていたようだ。ランプを取り上げた彼は私にそれを掲げると微笑みを浮かべるのだ。私の知っている彼はしない顔をして言うのだ。
「保証も保障もできない。これは私の願いだ。君がまだ生きてくれることを、私は望むよ」
「…なんだかずるい言葉だね」
 私がそうこぼすと、彼は首を傾げた。ふむと考え込むような仕種をして「ずるい、か。そう言われたのは初めてだ」なんて言うから、私は小さく笑う。
 彼の手から一昔前のアルコールランプを受け取って、その光を抱き締めて、目を閉じる。
 この体を包むぼんやりとしたあたたかい光は、抱き締めているランプのものだろうか。それとも。
「また来ちゃうかもしれないのに」
「そのときはそのときだ。まぁ、もう逢えないのが望ましい」
「…さびしくないの。そういうの」
「ああ。淋しいよ。たまらなくね」
 薄目を開けて彼を見る。私のよく知っている彼の姿をした彼じゃない誰かは、にこりとした寂しそうな微笑みを浮かべるとそれでも「さようなら」と言って、私を突き放した。
 最後のその優しさが、私を突き放した彼ととてもよく似ていて。ああそういうことなのか、と私は一人納得して、目を閉じる。
 最初から暗転していた世界がまた暗転する。
 落ちる感覚はなく、浮上という感覚もなく。ただ、体を包んでいた冷たくもあたたかくもない闇が溶け出してしまったことだけを感じた。
 気がつくと、私は病院にいて、白いベッドに埋もれていた。
 自分から車道に身を投げた私の行為は自殺ではなく交通事故ということになっていた。ナースコールをしたところ医師の人が飛んできてそう説明してくれた。
 目を覚ました私の周りは人の出入りで騒がしい。それを、ぼんやりした意識で眺めていた。
 ベッドの傍らのスタンドの上にはお見舞いの果物や花束がたくさんあった。こんなにたくさん、私のことを考えてお見舞いに来てくれるような人がいたんだな、なんて今更気付いた。
 私が目を覚ましたと連絡を受けて、一番に来てくれるのは誰だろう。
 淡い期待と一緒に目を閉じた私の耳に、ガラリと大きな音が聞こえた。瞼を押し上げて視線を向けると、病室のスライド式の扉が大きく開け放たれていて、その向こうに、さっきまで会っていた彼がいた。
 この言い方は正しくはない。私は彼の姿形をした彼ではない誰かに会っていて、その人に暗闇に満ちた世界から追い返されただけだ。生きろと、簡単で単純な言葉と一緒に現実世界へと送り返されただけ。
 ベッドまで歩いてきた彼は歪んだ顔をしていて、私がプレゼントした手作りのマフラーに口元を埋めてぐっと強く目を閉じた。力尽きたように床に座り込んだ彼に、どうしようかと迷ってから手を伸ばす。あちこち絆創膏の貼られた手で茶色に染めている彼の頭を撫でると、大きく肩を震わせた彼が私を見上げた。ああ、なんだか泣きそうな顔だな、なんて思う。
 そんな彼に、私は笑いかける。
 今頃になってあなたが私を突き放した理由が分かってしまったんだ。
 あれがあなたの不器用な優しさだったと気付けなかった私は、あなたが望んでいないことをして、あなたを苦しませたんだね。ごめんね。そんな気持ちを込めて頭を撫でていると、その手を強く握られた。暗闇の世界にいた彼の手は冷たくもあたたかくもない温度のない手だったけど、今私の手を握るその手にはきちんと体温があり、生きている人の心地がした。
 あの暗闇が心地よかったのは本当だ。あのまま埋もれてしまっていても、きっとよかった。
 でも彼に似た彼が言った。私に生きろと言ってくれた。現実に帰るんだと言ってくれた。彼を残したままいくべきではないと教えてくれた。
 だから、私は戻ってきた。それでもいいと思えたから。
「ごめん」
 握った私の手を額に押しつけた彼は泣いていた。「ごめん。オレが悪かったんだ。ごめん」ごめん、と何度でも謝られて、そんな彼に笑いかけながら、私も泣いていた。もらい泣き、だ。
 彼の手を握り返すと、ずっと強い力で握り返される。
 彼は応えてくれる。私に応えてくれる。ただそれだけのことがこんなにも嬉しくて、涙が止まらない。
 袖で目を擦りながら私を見上げて、彼は不器用に笑った。「おかえり」と。だから私も袖で目を擦って笑った。「ただいま」と。
(無事に帰れたようだね)
 声にもならない言葉は少しだけ闇を震わせ、すぐになくなった。
 先ほどまで彼女の心残りである彼の姿を縁取っていた私は、彼女という思惟の拠り所をなくして形を失っていた。声すら失っていた。闇に溶け込む私という意識は、誰かの力を借りなければ何かになることもできず、闇の中でどこかを見ているだけだった。
 白い病室で笑い合う彼女と彼の風景が遠ざかる。
 もう触れるべき世界ではないからだ。あちらは現実、こちらは幻想。だから、線引きされるべきなのだ。
 彼女はきっともう大丈夫。あの二人は上手くいく。そう考えたことで、その景色は弾けて消えた。
 残ったのはいつもの闇。温度も感触も何もない暗い闇が果てなく続く、終わりの見えない世界のみ。
 確固とした己の形を持たず、それでも浮かんでいる私という意識は、目的も意志も持たなかった。
 ただ、ここへと落ちてくる誰かが悲しくて、寂しくて。本当は少し嬉しくもあったのに、私はその誰かをいつも送り返していた。
 帰るべき現実があることを知っていた。帰りたいと思う場所があることを理解していた。ここへと落ちた瞬間から私はそれを解っていた。
 この暗い世界は私の胎内のようなもので、ここへと落ちた誰かのことを私は深くまで理解することができた。だからその誰かの望む姿形を借りて彼や彼女を促し、帰るように説得する。君は帰るべきだ、と言う。そうして最後にさようならと言い、今回もまた一人を送り出した。
 ここがどこなのか。そんなこと、私は知らない。
 ここはなんなのか。そんなこと、私は知らない。
 実感としてあるのは、この世界は私の手が届く場所。そして同時に、人を殺めるような、とても暗く危険な場所。
 ここへと落ちた誰かを送り返すために、帰すために、私は存在している。
(そう。だから)
 目を閉じる、ということを創造すれば、成功した。一歩踏み出すとコツンと足音が響いて目を開ける。すると、今度は女性の姿をしている自分がいた。
 暗闇の中を歩いていけばそこには座り込んだまま動かない誰かがいて、その誰かに何があってどうしてここに来るまでに至ったのかを理解しながら、私は足を止める。
 さて、今度はここにいる彼を送り返さなくては。

 さびしくないの。そういうの

 忘れたはずの声が聞こえた気がして顔を上げる。
 そこには誰もいない、何もない、いつもの暗闇があるだけ。
「…ああ。淋しいよ。たまらなくね」
 先ほどと同じ言葉を繰り返して、私は顔を上げた彼に微笑んでみせる。呆けたようなその顔すら愛おしい。ここへと落ちてくる全ての命が、私にはとても愛おしい。
 そして、たまらなく淋しい。刹那の時間を出逢っては過ごし、別れる、こんなことを繰り返すのはとても淋しい。
 それでもね。ここで君が消えていってしまうよりは、私が淋しい方がずっといいと、いつもそう思っているんだよ。