私はそのときまで気付けないままで

 日に日に、彼が弱っていく。
「イオン?」
 きぃ、と開けた扉の隙間から見えたのは灯りのない暗い空間だった。私はこつと一歩踏み出して部屋に入る。それからぱたんと静かに扉を閉めて、こつ、と歩き出す。ブーツの底がいやでも音を出した。そうすると何も音のしないこの部屋にはひどく響いた。
 そっと寝室の方に顔を出すと、つまらなそうな顔で彼がベッドに腰かけてぱらぱらと本をめくっていた。ほっと息を吐いて「イオン」と呼びかける。彼はそこでも返事をしなくて、ただ退屈そうな顔で本の方に視線を落としていた。
 無視しているんだろうか。そう思ってこつりと寝室に一歩踏み入ると、そこで顔を上げた彼とばちと目が合った。彼が少し驚いたような顔をしたあとになんだと息を吐いて、「か。びっくりさせないでよ」と心臓を押さえた。私はつい癖で「ごめん」と謝りつつも、イオンって何度も呼んだのにとこっそり胸のうちで言い訳する。
「お仕事だよイオン。モースが呼んでる」
「またあの親父か」
 到底平和の導師には似合わない言葉を吐き捨てて、彼は億劫そうに立ち上がった。それから私のすぐ隣を掠めるように歩いて行って、その手が私の手の甲と僅かに触れ合った。その冷たさにぞくりとしたのは一瞬で、彼はすぐに寝室を出て行って隣の書机をがたがたと鳴らして必要な書類を集め始めた。どうやら今から確認作業らしい。多分というか絶対、今からある会議の議題さえ彼は知らないだろう。
(冷たい…?)
 仕事に流されそうになる頭に、僅かに浮かんだ疑問。
 私は部屋を振り返る。机の前に立ってしかめっ面で書類に視線を落としている彼は、いたっていつも通り。
(でもさっき…冷たかった。まるで、)
 まるで、死人みたいに。
 最初の自覚はそれ。だけどそれが確信になるのはもっとあとの話。
 気付いたら彼は目に見えるほどに青白い顔をするようになり、食事もあまり取らなくなり、気づけば咳をするようになっていて、そして血を吐くようになっていた。
 その日もいつも通りだった。どさりと重い、人が倒れるような音がするまでは。
「、イオン?」
 私は隣の寝室を振り返る。今の音は明らかに隣の部屋からだった。嫌な想像が一瞬だけ頭をよぎって、だけどまさかねと思って。だから机の上に会議別にまとめた資料から離れてひょこりと寝室を覗き込む。
 彼が、床に倒れていた。這い蹲るように床に肘をついて血を吐いている。ごほとこもった咳。それで弾かれるように私は彼に駆け寄って手を伸ばした。
「イオンっ」
 伸ばした指先が彼の肩に触れたら、憎しみのこもったような目できっと睨み上げられ、ばしりと手を払われた。それが信じられなくて私の頭はフリーズする。拒絶だ。今のは完全なる拒絶。
 その間にもごほりと咳き込んだ彼の口から血がこぼれる。ぼたぼたと血溜まりが大きくなっていく。
「イオン、イオン血が、血…っ」
 頭が動転して、血の色にくらくらと眩暈を覚えた。彼が咳をしながら薄く笑って私を見る。その目はただひたすらに何かを望む、暗い瞳。
「そのうち死ぬから、仕方ないんだよ」
「し…?」
「僕は死ぬ。人はいつか死ぬとかそういうのとは違う。僕は、遠からず死ぬ。それが…」
 預言だから。そう呟いた彼がふっと意識をなくして血溜まりに突っ伏すように倒れた。私は慌てて手を伸ばして彼を抱き起こす。法衣やその顔をべっとりと血の色に染め上げた彼が苦しそうに息を吐いていた。
 私はこんなになるまで彼が苦しんでいることに気付けなかった。自分で自分に愕然とした。
(どうして? 私が一番イオンに近い場所にいたはずなのに)
 愕然としながら、人を呼ぶために寝室に設置されている緑の譜石に触れた。ヴンという音と共に光が灯り、『いかがしましたか導師様』という機械的な声に、私も機械的に答えた。
「導師イオンが、倒れました。誰か…」
 助けてください。そう言う前に向こうから通信は途切れ、すぐに譜陣が発動する気配がここまで伝わってきた。こういうときのために待機している兵がいるとは聞いていたけど、とぼんやり思いながら彼の顔についている血を自分の服の袖で拭った。赤い色は消えなかった。そうしている間にもがちゃがちゃとうるさい鎧の音が近付いていた。私は立つこともできず彼を離すこともできずにただ座り込んで、呆然としていた。